第一部第一章第七幕 新生、芽吹かせる旅路
果てしなく広がる星の海。その深淵から降り注ぐ冷たくも神秘的な光を浴びながら、村正は足元の雲を恐る恐る踏み締めた。
フワリ、とした視覚的な柔らかさに反して、そこには確かな大地のような反発力があった。無音の宇宙空間であるはずなのに、肺には澄み切った空気が満ち、身体がふわりと無重力に浮き上がるようなこともない。物理法則が完全に無視された、文字通りの神域。
「ウソだろ……。俺たち、一瞬で宇宙に来ちまったってのか……?」
村正の口から、掠れた声が漏れる。
「いや……重力は正常に働いているし、呼吸もできる。それに、この気温の安定……ここはただの宇宙空間じゃない。世界という枠組みそのものから切り離された、別の次元だ」
武は盾を持つ左手を強く握り締め、己の理性を総動員して目の前の常識外れな光景を定義づけようとしていた。だが、天を突くほどに巨大な七つの神像を見上げるその瞳には、隠しきれない畏怖の色が揺らめいている。
「ご名答です、武さん」
二人の驚愕を背に受けながら、ニギハヤヒが静かに振り返った。その背後では、無数の星々が彼の後光のように瞬いている。
「ここは物理的な空間でありながら、神々の精神と世界の理が交わる特異点。かつて神々が天地を引き裂き、世界を創り上げた時の『設計図』がそのまま残されている、不可侵の領域です」
「設計図……」
村正がゴクリと唾を呑み込み、周囲を囲む七つの巨大な神像を見渡した。
顔のないもの、複数の腕を持つもの、獣の姿を模したもの。そのどれもが、途方もない年月と風雪――そもそもここに風が吹くのかすら分からないが――を経たような、荘厳な威圧感を放っている。
その像の数を数え終えた武の脳裏に、一つの符号が閃いた。
「……七つの像。ヘブドマス……」
武は、像の放つ光の差異に目を細めた。
「ニギハヤヒ。この『光に照らされた神像』と『照らされていない暗い神像』は、一体何が違うんだ? それに……かつて神々が治めたという九つの国に対して、神の像が『九つ』ではなく『七つ』しかないのはなぜだ?」
武の鋭い疑問に、ニギハヤヒは満足げに目を細めた。
「いい着眼点ですね。……ですが、その二つの謎について語る前に、まずは『新生の旅路』が本来どのようなものであるかを、正しくお伝えしなくてはなりません」
ニギハヤヒはゆっくりと歩を進め、神像の中心へと歩み出た。
「先程の乳海で学んだ歴史について、覚えていますか?」
「もちろん」
村正が腕を組み、真剣な面持ちで頷く。
「今は、邪神どもに元の創生神たちがやられちまって、世界が滅びかけてる。それを解決するために、英雄の血を引く勇士たちが集められて戦ってるんだろ?」
「はい。ですが、この新生の旅路の真意は、ただ邪神を倒して終わりではありません。真の目的は――邪神を討ち取り、その骸から『創生神の座』を継承すること。不在となった神座に勇士たちが登り、新たなる生命が芽吹くまで世界を人柱となって支え続けるというものなのです」
「邪神の骸から……神の座を?」
村正が目を見開く。
「邪神がこれほどまでに恐れられている理由は、その圧倒的な暴力だけではありません。最大の理由は、彼らが神々を喰らい、その『神の座(象徴・権能)』を取り込んでしまったからです」
「なるほど……」
武が深く息を吐き出し、パズルのピースを繋ぎ合わせるように呟いた。
「つまり、旅の真の目的は『邪神討伐』ではなく、奪われた神の力を取り戻し、勇士たちに『神の座を継承』させて世界の新たな支えとすることか」
「その通りです。そして――今、光が灯されている神像は、すでに勇士によって『継承された』座を意味しています」
ニギハヤヒが星空の彼方を指し示す。
雲海の上に聳え立つ七つの像のうち、確かに三つの像だけが、内側から燃え上がるような力強い光を放っていた。ケルトの最高神ダグザ、北欧の主神オーディン、そしてバビロニアの天帝マルドゥクの像だ。
「……この三つの予言は、順番通りに達成しなければならないわけじゃなかったんだな」
武は光を放つ像を見上げながら、確かな希望の光を感じ取っていた。
「で、誰がその途方もない座を継承したんだ?」
ニギハヤヒは、まるで我が子の成長を誇るように、柔らかく、だが確かな誇りを持って答えた。
「ロッキルが、知と魔を総べる『オーディン』の座を。リーが、大地と豊穣の『ダグザ』の座を。そして――」
一番初めに光を灯したであろう、ひときわ眩いマルドゥクの神像を見つめながら、ニギハヤヒは静かにその名を口にした。
「天帝マルドゥクの座は……この過酷な旅路を切り拓いた始祖たる英雄、『ギルガメッシュ』が継承いたしました」
「あのロッキルと、リーが……?」
村正は信じられないものを見るように、煌々と光を放つオーディンとダグザの像を呆然と見上げた。
金にがめつく、どこか飄々としていた獣人の少女と、冷淡で口の悪い凄腕の剣士。彼らが、すでに神の座を継いでいたというのか。
「ええ」
ニギハヤヒは、星屑の光を受けて輝く神像を見上げながら静かに頷いた。
「今、この聖都にいる神の座の継承者はその二人です。今の彼らは人の身でありながら、世界の柱たる『神』となる運命を、その小さな背に受け止める覚悟を決めた者たちなのです」
その言葉の重みに、武は息を呑んだ。
ただ強大な力を得たというだけの話ではない。世界を支える『人柱』としての過酷な運命を、あの二人はすでに受け入れているのだ。
「……なら、ニギハヤヒ」
武は、盾を持つ手に力を込め、己の内で燻っていたもう一つの重大な疑問を口にした。
「なぜ神像は『七つ』しかない? かつて神々は九つの国を創り、世界を治めていたと聞いた。残りの二柱の神座は、一体どこに消えたんだ?」
その問いに、ニギハヤヒは広大な漆黒の宇宙と、足元に広がる白銀の雲海を交互に見つめた。その横顔には、深い敬愛と哀悼の色が浮かんでいる。
「残る二柱――天を照らすアマテラスと、地を総べる龍には、そもそも引き継ぐべき『座』が存在しないのです」
「座が存在しない?」
「ええ。アマテラスは己の守護の役目を別の神に託し、自らの存在を完全に溶かして『天』そのものとなり、崩れゆく空を直接支え続ける道を選びました。そして五行の龍もまた、人々を生かすために自らの肉体を砕き、『大地』と化して世界を下から支え続けているからです」
彼らは後継者に座を残すことすらできず、その身を犠牲にして世界という器そのものを維持する道を選んだのだ。
あまりにも壮絶な神々の結末に、村正と武は言葉を失った。自分たちが今、当たり前のように見上げている空も、踏み締めている大地も、神々の果てしない自己犠牲の上に成り立っているのだと突きつけられたからだ。
圧倒的な静寂が星の海を満たす中、ニギハヤヒが再び口を開いた。
「この『新生の旅路』は、はるか昔に起きた大きな災いによって完全に頓挫し、長らく途絶えていました。誰一人として邪神を討てず、ただ滅びを待つだけの暗黒の時代……」
ニギハヤヒは、オーディンの光を放つ神像を愛おしげに見上げ、ふっと優しい微笑みを浮かべた。
「その凍りついた運命の歯車を再び回し、この途絶えていた旅路を再開させたのは……他でもない、ロッキルなんですよ」
「ロッキルが……!?」
村正の口から、掠れた声が漏れ出た。
脳裏に蘇るのは、先ほど広場で見た彼女の姿だ。金にがめつく、軽口を叩き、巨漢の大英雄を呆れたように引きずって歩く、あの小さな背中。
そんな彼女が、絶望に支配され、誰一人として前に進めなかったこの死の旅路の『先陣』を切ったというのか。
(……信じられない)
いや、信じられないのではない。本当は、気付きたくなかったのだ。
己の命を散らすことの恐ろしさを誰よりも知っているはずの彼女が、あんな底抜けに明るい笑顔の裏で、どれほどの死地を潜り抜け、どれほどの重圧を一人で背負い込んできたのか。それを想像しただけで、村正の胸はギリギリと締め付けられた。
武もまた、沈黙の中で強く唇を噛み締めていた。
平和な世界から来た自分たちを、彼女が時に冷たく、時に苛立たしげに突き放そうとした本当の理由。それは、この残酷な運命の連鎖に、これ以上無垢な命を巻き込みたくなかったからに他ならない。あの小さな獣人の少女は、神の座という途方もない呪いを背負いながら、それでも誰かを守ろうとしていたのだ。
圧倒的な静寂に包まれた星の海で、二人の少年は言葉を失い、ただ立ち尽くす。
そんな彼らの葛藤をすべて包み込むように、ニギハヤヒは静かに、そして穏やかに問いかけた。
「他に、何か聞きたいことはありますか?」
村正と武は顔を見合わせ、そして同時に、ゆっくりと首を横に振った。
これ以上、言葉による説明は必要なかった。世界の残酷な真実も、先人たちの血の滲むような覚悟も、すでにその身に痛いほど刻み込まれたからだ。
彼らの瞳に灯った確かな決意の光を認め、ニギハヤヒは静かに居住まいを正した。
そして、聖都の最高権力者としての威厳を一切捨て去り、ただ一人の、滅びゆく世界を憂う者として――煌めく星空の下で、深く、深く頭を下げた。
「……無ければ、私から改めてお願いしたいのです」
澄み切った声が、無音の宇宙空間に波紋のように広がっていく。
「この絶望を打ち払い、世界に『新生を芽吹かせる旅路』に……どうか、あなた方のお力添えをいただけないかと」
それは指導者からの命令ではなく、魂への真摯な懇願だった。
果てしなく広がる白銀の雲海と、頭上で力強い光を放つ三つの神像が見下ろす中。異界から来た二人の勇士は、ついに自らの運命に対する最大の『選択』を突きつけられた。
(……断る理由なんて、最初からなかった)
村正は、深々と頭を下げる聖都の指導者のつむじを見つめながら、内心で小さく息を吐き出した。
平和な元の世界に帰りたい。その思いは今でも変わらない。だが、その一方で……ほんの僅かな期間とはいえ、共に死線を潜り抜けた『友』たちが命を懸けて守ろうとしている世界の栄光を、この目で少しばかり見てみたくなったのだ。
それは理屈や打算ではない。ただ純粋な、人としての『性』が彼の魂を突き動かしていた。
村正は、隣に立つ武とスッと視線を交わす。
余計な言葉など必要なかった。共に地獄を乗り越えた相棒の涼やかな瞳の奥に、一切の迷いも恐怖もないことを、村正ははっきりと読み取った。
「頭を上げてくれ、ニギハヤヒ」
絶対の静寂を破ったのは、武の静かだが、鋼のように芯の通った声だった。
「俺たちがもし、この理不尽な運命から逃げ出すつもりだったなら……あの広場でヘレウクルスを庇い、邪神の前に躍り出た時に、とっくに背を向けていたはずです」
「全くだ」
武の言葉を引き継ぎ、村正がニシシといつものように不敵に笑って首の骨を鳴らした。
彼は一歩前に踏み出し、天を突く七つの神像――その先にある、まだ見ぬ過酷な未来を真っ直ぐに見据えるように、己の右拳を強く握りしめる。
「やってやるよ。その『新生、芽吹かせる旅路』ってヤツ。あのふざけた邪神どもの首を全部叩き斬って……このどん底の空に、必ず『太陽』を呼び戻してやる!」
その言葉に、武もまた力強く頷いた。
「俺の盾は、自ら運命を切り拓く盟友のための絶対の守りとなる。……未熟な身ではあるが、どうか俺たちの力を役立ててくれ」
二人の迷いなき、そして若く熱い誓いの宣言が、宇宙の深淵に確かな波紋となって広がっていく。
ゆっくりと顔を上げたニギハヤヒの瞳には、微かに潤んだ光が揺らめいていた。
常に完璧な指導者として振る舞い、滅びゆく世界の重圧を一人で抱え込んできた彼が、初めて見せた年相応の、心底からの安堵の表情だった。
「……ありがとうございます。外界より来たりし、若き勇士たちよ」
ニギハヤヒは深く息を吸い込み、柔らかな微笑みを取り戻した。
「本日は度重なる死闘で、さぞ疲労が溜まっていることでしょう。ひとまずは宿に戻り、ゆっくりとお休みなさってください。……また後日、改めてお呼び致します」
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「……今日は、色々と規格外すぎて、本当に大変な一日だったな」
星の海から元の聖都の街並みへと帰還し、宿への家路を歩きながら、武が深い疲労と共に呟いた。
「そうだな~。まさに『波瀾万丈』ってヤツ? これ、俺たちの元の世界に戻ったらN〇Kあたりでドキュメンタリー番組として取り上げられないかな~。」
村正が両手を後頭部で組みながら、軽口を叩く。
「やめろ、面倒だ。というか、そもそもこの世界にそんな放送局はないだろ」
「ジョークだよ、ジョーク。お前は相変わらず真面目だなぁ」
そんな他愛のない会話を交わしながら、二人はあてがわれた宿の扉を開けた。
「ただいま~」
村正が気の抜けた声で玄関をくぐる。
「お帰りなさい、村正さん」
出迎えたのは、花紫色の瞳を持つ少女、椿だった。
だが――何かがおかしい。いつものおどおどとした虚ろな彼女とは違い、頬をほんのりと上気させ、妙に艶っぽい空気を纏って村正を上目遣いで見つめている。
「ああ、お出迎えサンキュ……えっ???」
「ご飯にしますか? お風呂にしますか? そ・れ・と・もーー」
椿(?)は、村正の胸元にスッと顔を近づけ、甘い吐息を吹きかけるように囁いた。
「わ・た・し?」
「…………………ッ!!」
ブホォォォォォォッ!!
村正の鼻から、致死量スレスレの鼻血が勢いよく噴出した。限界を超えた刺激に脳髄がショートし、彼の身体は糸が切れた操り人形のようにグラリと揺れる。
「ど、どういうことだ……椿は」
背後で見ていた武は、顔面を蒼白にさせて固まっていた。
「もしかして、彼女はあのような過激な趣味を……いや、まさか……」
「皆さん……? お帰り、なさい……?」
「!?」
武が弾かれたように振り返ると、そこには宿の奥からひょっこりと顔を出した、いつもの『本物の椿』が不思議そうに首を傾げて立っていた。
武は、目の前で村正に寄り添う艶めかしい椿と、奥から現れた本物の椿を交互に見比べる。そして、偽物の椿の背後に、微かに亜麻色の尻尾の幻影が揺れたのを、彼の鋭い観察眼は見逃さなかった。
(椿が二人……? じゃあ、アレはーー!)
「椿が……一人……椿が、二人……お風呂にご飯に……椿で……ゴー……」
鼻血まみれで白目を剥いた村正が、幸せそうな顔でうわ言を呟きながら崩れ落ちていく。
「村正! 村正、しっかりするんだ!」
武が慌てて相棒の肩を揺さぶる。
「あらら、大丈夫ですか~? 村正さん♡」
偽物の椿が、悪戯っぽくクスクスと笑いながら村正の顔を覗き込む。
「ゴフッ!!」
追撃の笑顔に、村正は二度目の血を吐き出し、完全に意識を手放した。
「……揶揄うのもいい加減にしろ、ロッキル」
玄関の奥から、深い、ひどく疲れたような大男の溜息が響いた。
ヘレウクルスが呆れたように腕を組んで立っている。
「ヘレウクルス、これは一体……?」
武が混乱した頭で尋ねると、偽物の椿の輪郭がシュルシュルと陽炎のように歪み――次の瞬間、そこには腹を抱えて大爆笑している獣人の少女、ロッキルの姿があった。
「あははははっ! 最高! めっちゃいいリアクションじゃん!」
「悪いな、盟友」
ヘレウクルスが頭を抱えながら武に謝罪する。
「彼女の性格は筋金入りの悪戯好きでね。あらゆる事柄を幻術で『騙す』のが得意なんだ……」
「その通ーり!」
ロッキルは亜麻色の耳をピコピコと揺らし、ピースサインを掲げて得意げに胸を張った。
ーーーーーーーーー
「……う、うーん」
ジンジンと熱を持つ鼻の奥から漂ってくる、微かな鉄の匂い。そして、熱を持った額に乗せられた、ひんやりと心地よい濡れ布巾の感触。
重い鉛のようなまぶたをゆっくりと押し上げると、ぼやけた視界の中に、心配そうに眉を下げる本物の椿の顔が映り込んだ。
「あ……気がつきましたか? 村正さん」
花紫色の瞳が、ホッと安堵の光を揺らす。その純度100パーセントの無垢な視線を受け、村正はまだ寝ぼけた頭で、先ほどの甘い記憶を引っ張り出した。
「……椿。お前、さっきのあの過激なアプローチは……その、なんだ……」
「えっ? か、過激……?」
椿は小鳥のようにきょとんと首を傾げ、パチパチと瞬きを繰り返した。その反応には、微塵の嘘も艶っぽさも含まれていない。
その無垢すぎる反応と、すぐ隣から聞こえてきた「ぷっ、あははははっ!」という腹を抱えて転げ回る下品な笑い声によって、村正の脳髄は完全に現状を理解した。
「……ロッキル! てめぇ、よくも男の純情を弄びやがって……!」
村正は恨み言を呻きながら、のそりのそりとゾンビのように上体を起こした。恥ずかしさと怒りで、顔が再び茹でダコのように朱く染まっていく。
「あーっ、お腹痛いっ! ひぃっ、涙出た……!」
ロッキルは亜麻色の尻尾を床にバタンバタンと叩きつけながら、涙目で村正を指差した。
「だってあんた、あんな見え透いたベタな幻術にコロッと騙されて、噴水みたいに鼻血噴き出して勝手に気絶するんだもん! 外界の勇士って、みんなあんなにチョロくておバカなの!?」
「うるせぇ! 男ってのはな、ああいうシチュエーションにはDNAレベルで抗えないようにできてんだよ! これは生物学的な敗北であって、俺の精神力の問題じゃねぇ!」
「威張って力説することじゃないだろ、村正……」
顔を真っ赤にして謎の言い訳を叫ぶ相棒の横で、武がこめかみを揉みながら深いため息を吐き出した。もう彼にはツッコミの気力すら残っていないらしい。
「本当にすまなかったな、盟友……」
その時、ミシミシと床板を軋ませながら、ヘレウクレスが申し訳なさそうに部屋に入ってきた。その岩のような顔には、保護者としての深い苦悩が刻まれている。
「……だが、武。聞いてくれ」
ヘレウクレスは腕を組み、不真面目に笑い転げる獣人の少女を見下ろしながら、極めて真面目なトーンで語り始めた。
「彼女のこの本物と見紛うほどの『幻術』に、最高神オーディンの圧倒的な『知』が加わると、戦場では誰一人としてその真意を探りきれなくなるんだ。つまり、彼女はただの悪戯好きというわけではなく、恐るべき戦術眼を持ったーー」
大英雄がそこまで熱弁を振るったところで、ふと、その思考回路が停止した。
彼は腕を組んだまま首を傾げ、目を瞬かせる。
「……いや、待てよ? ということは、何の戦術的意味もない今現在やっていることは……ただの悪質な悪戯好き、ということか?」
「ちょっと脳筋! せっかくいい感じにフォローしてくれてたのに、最後の一言が完全に余計だよ!」
ヘレウクレスのあまりにも素直すぎる天然の結論に、ロッキルが笑い涙を拭いながら牙を剥いて抗議する。
ひとしきりの騒動が落ち着いた後、ヘレウクレスとロッキルを交えて、彼らは今後のことについて短い言葉を交わした。
『外界の勇士』である二人が正式に「新生の旅路」に加わると知ったヘレウクレスは、まるで自分のことのように破顔し、岩のような大きな手で二人の肩を何度も叩いて喜んだ。
一方のロッキルは、いつものようにニシシと笑ってそれに応えたものの……それ以上、彼らの決断に対して口を挟むことはなかった。世界を背負う先駆者としての彼女が、その笑顔の裏で何を思っていたのか、村正には測りかねた。
やがて二人が部屋を去り、宿の一室に元の静寂が戻る。
二人の足音が遠ざかると、部屋にはランプの微かな燃焼音だけが残った。
窓から差し込む星屑の光と、壁のランプが揺らめく薄明かりの中、村正は天井を見つめながらポツリと口を開いた。
「……なぁ、武。本当に良かったのか?」
「何がだ」
「お前は、少しでも早く元の平和な外の世界に帰ろうと考えていただろうに。俺の『この世界を見てみたい』なんて個人的なわがままを汲み取らせちまってさ……」
村正の声には、普段の飄々とした響きは影を潜め、確かな罪悪感が滲んでいた。
「いい。俺はお前の選択を信じる」
武は壁に寄りかかったまま、夜闇に溶けるような静かな声で即答した。
「それに……俺はまだ、お前には『恩』を返しきれていないからな」
「恩って……別に、あの時のことはもういいって言っただろ。いつまでも気にするなよ」
村正が照れ隠しのように顔を背けた、その時だった。
「……すみません」
部屋の隅で膝を抱えていた椿が、消え入りそうな声で呟いた。
村正と武が視線を向けると、彼女は花紫色の虚ろな瞳を伏せ、その小さな肩を小刻みに震わせていた。
「私が……私が巻き込んでしまったせいで……。もしかしたら、二度と元の世界に帰れないかもしれない……そんな、恐ろしいことに……」
言葉の端々から、痛切なまでの罪悪感がポロポロとこぼれ落ちる。自分が『ある物』を持ち出したばかりに、平和な世界にいた彼らを、血で血を洗う神話の戦争に引き摺り込んでしまった。その自責の念が、ただでさえ脆い彼女の心をギリギリと締め付けているのが痛いほど伝わってきた。
「そんなに気を揉むなって」
村正は苦笑いしながら立ち上がり、椿の頭にポンと軽く手を乗せた。
ビクッと肩を跳ねさせた彼女に対し、村正は努めて明るく、からりとした声で言い放つ。
「椿だって、何かどうしても譲れない理由があって、そいつを持ち出したんだろ? だったらいいじゃねぇか。それに……まぁ、実は俺もそいつを探してたからさ! ちょうど手間が省けて良かったってもんだよ」
「……え?」
予期せぬ言葉に、椿がゆっくりと顔を上げる。虚ろだった瞳に、微かな困惑と驚きの色が灯る。
「さてさて! 明日からの世界を救う大仕事に向けて、さっさと寝よ、寝よ! いやぁ、さすがの村正さまも今日は鼻血の出しすぎで疲れたのだ~!!」
村正はわざとらしく大きな伸びをすると、椿の疑問を力技で遮り、逃げるように自分のベッドへと潜り込んだ。頭まで毛布を被り、蓑虫のように丸まってしまう。
「……よくはぐらかす奴だ。全く」
武は小さく息を吐き出し、微かに口角を上げた。不器用だが、彼なりの最大限の優しさなのだと分かっているからだ。
「俺たちも寝よう、椿。彼が言う通り、明日に備えて休むべきだ」
武がランプの火を落とし、部屋は静かな星明かりだけが残る暗闇に包まれた。
「わ、分かりました……」
椿は毛布の塊と化した村正のベッドを数秒間見つめた後、小さく、だが確かに安心したような息を漏らし、静かに自分の寝台へと身を横たえた。
過酷な運命の歯車が回り始めた聖都の夜。
交差する後悔と優しさを抱いたまま、三人は深い微睡みへと落ちていった。
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少年たちが深い眠りに落ちていた頃。
聖都の中心にそびえる樫原宮の最奥で、二人の指導者は重苦しい静寂の中にいた。
窓辺に立ち、夜の闇に沈む都市の灯りを見下ろす帝の背中へ向け、ニギハヤヒが静かに、しかし微かな罪悪感を孕んだ声を落とす。
「……よろしかったのですか。彼らに、あの『滅びの真実』について語らなくて」
ニギハヤヒの澄んだ瞳が、苦渋に歪む。外界から来た無垢な勇士たちに、自分たちは最も残酷な事実を隠匿したまま、過酷な旅路へと送り出そうとしているのだ。
「この狂った世界において、最後に生き残れるのはーー」
「よい」
その先を言葉にすることを禁じるように、帝が短く遮った。
振り返った彼の声は、昼間の広場で見せた威圧的な王のそれではなく、ひどく疲れ切った、一人の悲痛な父親のような響きを帯びていた。
帝は夜風に豪奢な衣を揺らしながら、哀愁に満ちた瞳で、少年たちが眠る街の片隅へと視線を向ける。
「血の匂いも、理不尽な喪失も知らない、泰平な世から来たあの子らにとって……自らの命を散らすこと以上に、『仲間の死』を前提とした運命をあらかじめ知らされることほど、酷で絶望的なものはないからな……」
絞り出すようなその声には、若き命を犠牲の祭壇へと押し上げねばならない指導者としての深い業と、せめて彼らの心だけは最後まで守ろうとする、悲しいほどの慈悲が入り混じっていた。
王の抱える途方もない重圧と孤独を前に、ニギハヤヒはそれ以上の言葉を紡ぐことができず、ただ痛ましげに目を伏せることしかできなかった。
星の瞬く聖都の裏は、彼らが隠した冷酷な真実を覆い隠すように、ただ静かに更けていく。




