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予言書の救世主  作者: 骨山仙人
滞りし新生の旅路
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6/20

第一部第一章第六幕 過去のさざなみに耳を傾けて

(…………父さん? 母さん?)

焦げ臭い煙が肺を焼く。視界のすべてを朱く染め上げる火の海と、無残に散乱する瓦礫の山。

鼓膜をつんざくのは、絶望に染まった悲鳴のコーラスだ。肉体の苦痛によるものなのか、愛する者を喪った慟哭なのか、もはや判別すらつかない。ただ、ぬかるんだ血だまりと、かつて確かに『生』を謳歌していたはずのモノたちが、物言わぬ骸となって転がっている。

そんな地獄絵図の底を、幼い少年は宛てもなく彷徨っていた。

(…………どこだ、どこにいるんだよ!)

傷だらけの小さな体を引きずり、必死に家族の姿を捜し求める。

一体どれだけの時間を歩き続けたのだろう。素足の裏が焼け焦げた大地の熱でただれ、皮膚が剥がれ落ちても、歩みを止めることはできなかった。

だが、その血塗られた足跡の果てで……少年が見つけたものは。

黒く焼け焦げた『親であったはずの影』と。

その傍らで見下ろす、ある男の、心底からの満足げなわらい顔だった。

ひどい耳鳴り。ノイズまみれの肉声が、脳髄に直接へばりつく。

『■ずや■せよ■この■■■な物■に』

『■■ってい■すから、■なた■こと■を■■っと』

『■手観■の子、■正の■■もって必ずーー』

「ウワァァァァァァッッ!!」

バッと弾かれたように上半身を跳ね起き、村正は獣のような叫び声を上げた。

「うわぁっ、びっくりしたぁ! ちょっと、急に大声出さないでよ!」

耳元で響いた抗議の声にもすぐには反応できず、村正は乱れた呼吸を繰り返す。

「はぁっ……はぁっ……はぁっ……!」

全身は滝のような冷や汗でずぶ濡れで、心臓が肋骨を突き破りそうなほど狂ったように警鐘を鳴らしている。

(な、なんて夢だ………ほんっと、最悪に目覚めが悪いったらありゃあしねぇ……!)

ギリッと奥歯を噛み締め、呼吸を落ち着かせようとしたその時だった。

「む、村正さん……?」

おずおずとした、微かに震える声。焦点の合わない視界を瞬きで無理やりクリアにすると、ベッドの傍らに立つ少女の姿が目に入った。

「あ……椿。それに、ロッキル……」

「大丈夫、ですか……?」

椿が胸元で両手をギュッと握りしめ、村正の顔を覗き込んでいる。その花紫色の瞳は相変わらず深い虚光に沈んだままだが、声の震えや縋るような仕草からは、彼女なりの必死な『心配』の気配が確かに伝わってきた。

「あ、ああ……。だ、大丈夫だ。ちょっと柄にもなく、悪い夢を見ただけ」

村正はいつもの飄々とした笑みを無理やり顔に貼り付け、額の汗を手の甲で乱暴に拭う。

「感謝しなよ~。その子のおかげで、あんた助かったみたいなところがあるんだからさ」

ベッドの足元に腰掛けていたロッキルが、亜麻色の尻尾を揺らしながらニヤニヤと笑った。

「…そういえばなんでロッキルもここにいるんだ?」

激闘の記憶が途切れている村正が首を傾げると、椿がポツリと真実を告げた。

「ロッキルさんが……倒れた村正さんを、ここまで運んで来てくれたんです」

「そうだったのか。……ありがとうな、ロッキル」

村正は頭をかきながら、照れ隠しのように短く礼を言った。

「どういたしまして~」

ロッキルは得意げに鼻を鳴らすと、ふと表情を変え、呆れたように肩をすくめた。

「ていうかさ、ホントあんたらのこと意味分かんないんだけど」

「え、何が?」

村正が首を傾げる。

「あんたら、争いのない平和な世界から来たんでしょ?」

ロッキルは亜麻色の瞳を細め、不思議そうに村正を覗き込んだ。

「だったら普通、こんな生死に関わるような理不尽な戦いに、自ら身を投じるなんて真似しないでしょ? おまけに、いくらあの脳筋ヘレウクレスと一緒だったとはいえ、あの凶獣の分身体を相手にするなんてさ」

「……ちょっと待て」

ロッキルの言葉に、村正の顔から血の気がスゥッと引いた。

「今、なんて言った? ということは……俺たちが命懸けで戦ったあの巨大なテポーンは、ただの分身体で……! 俺は、本体ですらないヤツを相手に、勝手に気絶したってことか!?」

「うん、そうだよ」

ロッキルはあっけらかんと頷いた。

「おまけに……俺が、敵の攻撃じゃなくて、自分の生み出した刀の反動に耐えきれずに、自滅みたいなダサい形で気絶したところも……?」

「ぜーんぶ、最初から最後までバッチリ見たよ。なかなか滑稽だったね~」

ロッキルが悪戯っぽく笑いながら、追い打ちをかけるように言った。

「……………」

村正は顔を両手で覆い、ベッドの上で崩れ落ちた。

命懸けで友を守ったつもりでいたが、蓋を開けてみれば、強大な敵の分身相手に勝手に自滅して気絶するという、あまりにも締まらない結末。あの武が内心でどう思っているかを想像すると、羞恥心で穴があったら入りたい気分だった。

「もー、仕方ないでしょ?」

両手で顔を覆い、ベッドの上で丸まって悶絶する村正を見て、ロッキルがクスクスと笑いながらなだめた。

「ほら、そこのお嬢ちゃんがさ、『アンタのことが心配だ』って感じで、ずっと尻尾も耳もないのにソワソワソワソワしてる感じだったわけよ。だから、私がわざわざあんな危険な戦場まで見に行ってあげたの。そのおかげで、結果的にアンタがダサくぶっ倒れた直後にパパッと回収して、すぐに治療できたんだからさ! 恥ずかしがるどころか、むしろ泣いて感謝してほしいくらいなんだけど~」

「うっ……」

的確すぎる痛撃に、村正は反論の言葉も出ずに呻き声を上げた。

「……で。それより答え!」

ふと、ロッキルの声からからかいの色が消えた。

亜麻色の瞳がスッと細められ、ベッドに座る村正を真っ直ぐに、そして底知れぬ真剣さで見透かそうとする。

「どーして、アンタらはそんな『自分の身を大事にしない』ような真似をするの?」

空気が張り詰めた。

平和な世界から来たはずの少年たちが、自らの命をチップにしてまで得体の知れない化け物に立ち向かう。それは、この過酷な世界を生き抜いてきた彼女から見ても、あまりにも異常で、歪な自己犠牲に映っていた。

「……………」

村正は顔を覆っていた手をゆっくりと下ろした。

脳裏にこびりついているのは、先ほどまで見ていた血と灰の夢。理不尽に奪われた命と、わらっていた男の顔。そして、目の前で椿が射抜かれそうになった時の、心臓が凍りつくような絶望の記憶。

本当の理由なんて、とても口には出せない。口に出してしまえば、自分の中の脆い部分がドロドロとこぼれ落ちてしまいそうだった。

「……村正さん」

重苦しい沈黙を破ったのは、椿の微かな声だった。

彼女は自分のせいで村正を傷つけてしまったのではないかと、不安に揺れる花紫色の瞳で彼を見つめている。

その視線を受け、村正は小さく息を吸い込むと――いつもの、人を食ったような飄々とした笑みを顔に貼り付けた。

「いやぁ、なんだ。強いて言うなら……『男のさが』的な?」

「……は? 性?」

予想外の間の抜けた単語に、ロッキルがキョトンと首を傾げる。

「そうそう。俺たちの元の世界にはさ、『マンガ』っていう娯楽の物語がたくさんあってね。その中で、熱血な主人公の男が世界の命運を懸けて化け物と戦う、みたいなベタな話があるわけよ。俺たちも年頃の男子だからさ、そういうカッコいいのにちょっと憧れちゃってて……思わず体が動いちゃった、的な? そういうヤツだよ、うん」

村正は後頭部をポリポリと掻きながら、いかにも照れくさそうにヘラヘラと笑ってみせた。

「………ホントに?」

ロッキルの亜麻色の耳が、疑わしげにピクピクと動く。その瞳は「そんな薄っぺらい嘘が通用すると思っているのか」と静かに告げていた。

「ホント、ホント! いやー、こういうのって中二病っぽくてすっげぇ恥ずいから、あんまり聞かれたくなかったんだけどさぁ。あははは……」

村正はわざとらしく乾いた笑い声を立てて視線を逸らした。

「…………そ」

数秒の無言の牽制の後。

ロッキルは小さく息を吐き出すと、それ以上の追及をあっさりと諦めたように肩をすくめた。

「アンタがそういうなら、そういうことにしておくよ」

彼女はきびすを返し、ドアの方へと歩き出す。そして、背中を向けたままポンと手を叩いた。

「じゃ、無駄口叩けるくらい元気になったみたいだから、さっさと行くよ」

「え、行くってどこに? いやいや、俺まだ重傷の病人ーー」

慌ててベッドから逃げようとする村正の言葉を、ロッキルがピシャリと遮った。

「『新生、芽吹かせる旅路』」


ロッキルはドアノブに手をかけ、振り返りざまにニッと牙を見せて笑った。

「アンタを呼んでるんだよ。あのバカたちがね」

ーーーーーーーーーー

『シュンッ!』

再び視界がぐにゃりと歪み、つむじ風が吹き荒れたかと思うと――。

次の瞬間、村正の身体は空中に投げ出され、容赦なく硬い石畳の上へと落下した。

「ほい、到着っと」

「イタッ!」

ドサッ、と情けない音を立てて尻餅をついた村正は、痛む腰をさすりながらロッキルをねめつけた。

「乱暴な奴め……! 怪我人に対する労りってものがないの?そんなガサツじゃ、いくら見た目が良くても男にモテないぞ~」

「……あ?」

そのからかいの言葉に、ロッキルの亜麻色の耳がピクリと危険な角度に跳ねた。彼女はヒュンッと音を立てて村正の前にしゃがみ込むと、美しい顔に底冷えのする笑みを浮かべる。

「命の恩人であり、専属の運び屋まで務めてやったアタシに向かって、ずいぶんといい度胸してんね。……仕方ない、手間賃代わりに『コレ』でも全額頂いておこうかな~?」

そう言って彼女の指先がもてあそんでいたのは、いつの間にか村正の懐からスリ取られていた、彼の手持ちの金(この世界の通貨の入った革袋)だった。

「……ッ!! うん、素晴らしい! とっても良い旅だった! なんかこう、重力を忘れて空を飛んでるみたいな、実に快適なフライトだったな、うん!」

村正は一瞬で顔を青ざめさせ、見事なまでの掌返しでロッキルを絶賛しながら、素早く革袋を取り返した。

「村正!」

その騒がしいやり取りを聞きつけ、広場の奥から武が小走りで駆け寄ってきた。いつもは冷静な彼だが、その端正な顔には隠しきれない安堵の色が広がっている。

「武」

「無事に目を覚まして良かった。大丈夫だったか?」

「まぁな。俺も椿もピンピンしてるよ」

村正は立ち上がり、パンパンと服の埃を払いながら、バツの悪そうな顔で頭を掻いた。

「それよりもさ……強大な邪神だ!って意気込んで飛び出したのに、ただの分身体の、おまけに『偽物』相手に、自分の力の反動で自滅して気絶なんて……。いくらなんでも聞いたことねぇよ。ダサすぎだろ、俺~……」

「決して、そんなことはないッ!!」

突如として、広場を震わせるような腹の底からの大音声が響き渡った。

ビクッと肩を揺らした村正が振り向くと、そこには大木のような腕を組み、岩のような顔に真摯な光を宿したヘレウクレスが仁王立ちしていた。

「ゲッ……脳筋バカが来た」

ロッキルが露骨に顔をしかめて一歩退くのを他所に、ヘレウクレスは村正の真正面に立ち、彼を見下ろすようにして深く、力強く語りかけた。

「君の、あの身を削るような決死の活躍がなければ……俺たちは、あの巨大な分身体すら落としきれず、聖都に甚大な被害を出していただろう。君は自らの痛みを顧みず、確かに人類の希望を繋いだのだ。改めて、心からの感謝と敬意を贈らせてくれ」

大英雄の、一切の嘘偽りや飾り気のない、真っ直ぐすぎる称賛。そのあまりの熱量に、村正は気恥ずかしさで顔を真っ赤に染め、視線を泳がせることしかできなかった。

「……あー、もう。暑い。暑苦しすぎるよ、アンタ」

ロッキルが手で顔を仰ぎながら、心底嫌そうに文句を垂れる。

「皆さん、お集まりいただきありがとうございます」

熱気に包まれていた場を、涼やかで気品のある声が凛と引き締めた。

視線を向けると、神職の装束を美しく着こなしたニギハヤヒが、静かな足取りでこちらへと歩み寄ってくる。その後ろには、白髪の女性ミクトルや、腕を組んで壁に寄りかかるリーの姿もあった。

「……あれ? 帝の姿が見えないけど」

村正が周囲を見回して首を傾げる。

彼らに「七日間の猶予」を与えたあの威圧的な王の姿が、どこにもなかった。

「帝は、昨夜の襲撃で被害を受けた都市の復旧と、怪我人の対応の指示に専念しているらしい。俺たちはずっと、お前が目を覚ますのをここで待っていたんだ」

武が静かに答え、村正の目を真っ直ぐに見据えた。

その瞳の奥には、いつもの彼らしい知性と、同時に何か「重大な真実」を背負い込んだような、深い覚悟の色が沈んでいた。

穏やかな風が吹き抜ける広場で、ニギハヤヒは深く、そして優雅に一礼した。その所作は、神に仕える者としての気品と、長としての威厳に満ちている。

「皆さまには、決して穏やかな歓迎という形を取れませんでしたが……民のために命を懸けて戦ってくれたその姿勢は、誰の目にも明らかな功績として残りました」

顔を上げたニギハヤヒの瞳には、先ほどまでの冷徹な戦術家のそれではなく、確かな敬意と感謝の念が宿っていた。

「よって、あなた方を正式にこの聖都のお客人……そして、盟友としてお迎えいたします」

「……今まで俺たちは客人扱いじゃなかったんだな」

村正が口元を引きつらせ、ぼそりと身も蓋もないツッコミを入れた。

「やめろ。彼はこれまでの非礼を詫びつつ、改めて筋を通した挨拶をしてくれているだけだ」

すかさず武が冷ややかな声でたしなめる。

そんな二人の小声のやり取りを気にする風でもなく、ヘレウクレスが一歩前に出た。彼の岩のような顔には、戦士としての険しい色が戻っている。

「ニギハヤヒ、今回のテポーンの襲撃についてだが」

「ええ、心配はいりません」

ニギハヤヒは涼やかな微笑みを崩さないまま、しかしその声の温度だけをスッと氷点下まで下げた。

「その件については後々、反撃の狼煙のろしを上げるつもりでおりますので」

その言葉に、武と村正は思わず息を呑んだ。ニギハヤヒの背後に、目には見えない底知れぬ殺気と、静かに燃え盛る執念の炎が立ち上ったように見えたのだ。

「奴が神々をその手で呑み込んだ、あの時から……。光すらも掻き消す深い闇の底に、奴はずっと身を潜めていました。ですが今回、分身体とはいえ、自ら直接この聖都へと攻め入ってきた」

ニギハヤヒは空を見上げ、細い指先で虚空を掴むような仕草をした。

「ならば、我々もこの聖都の『御来光』に身を隠して守りに入ることを止めましょう。今度はこちらから赴き……あの偽りの神の喉笛を、直接引き裂かねばならないというものです」

詩的でありながら、血生臭い決意に満ちた宣言。その場にいた誰もが、ヒエロファニーの最高権力者が放つ圧倒的なカリスマに呑まれかけた、その時だった。

「……なるほど! つまり、今度こそ奴の息の根を止める。そういうことを言いたいんだな!」

ヘレウクレスが、右拳で左の手のひらをポンと叩き、ひどく晴れやかな顔で言い放った。

「…………」

「…………」

荘厳な空気が、見事に真っ二つに叩き割られた。

「すっげぇ文学的でカッコいい言い回しをしたかと思ったら……」

村正が目を点にして呟き、

「大英雄の口にかかれば、一瞬にして完結するな」

武もまた、深いため息をつきながら呆れ果てた。

二人の生温かい視線に気づき、ヘレウクレスはバツが悪そうに巨体を縮こまらせて頭を掻いた。

「仕方ないだろう。俺は君たちほど、頭の出来がいいわけじゃないんだ」

「ふふっ」

ニギハヤヒは苦笑を漏らし、静かに首を振った。

「ヘレウクレス、本来の要件はなんでしたか?」

「ああ、そうだった」

ヘレウクレスは居住まいを正し、村正と武を示した。

「彼らに、今のこのヒエロファニーと……この世界の状況について、詳しく教えてあげてはくれないか? 俺の方からだとうまく説明出来そうになくて……」

「そういうことですか。……では、テテをーーと言いたいところですが、彼女の仕事はまだ終わっていないんでしたね。仕方ありません、私が直接ご説明いたしますので、着いてきてください」

ニギハヤヒが優雅にきびすを返し、広場の奥へと歩き出す。武と村正もそれに続いた。

「さて、俺も一緒にーー」と、ヘレウクルスが彼らの背中を追おうと大きな足を踏み出した、まさにその瞬間。

「おーい、脳筋。アンタの行き先はこっちだよ、こっち」

背後から、亜麻色の尻尾を凶悪に揺らしたロッキルが立ち塞がった。

「ん、なんだ?」

ヘレウクルスが不思議そうに振り返る。

「なんだ、じゃないでしょ! アタシにデカい借りがあるでしょーが! あの坊やを安全に運んであげた、その借りがさぁ!」

ロッキルは腰に手を当て、ニシシと小悪魔のような笑みを浮かべて巨漢を見上げた。

「うぐっ……」

さしもの大英雄も、命の恩人(の運び手)である彼女の正論には逆らえず、言葉に詰まる。

「さぁーて、約束通り何を奢ってもらおっかな~。最高級の肉? それとも年代物の酒樽ごと?」

獲物を追い詰める肉食獣のように、ロッキルがジリジリと距離を詰める。

「………その……」

世界を救う力を持つはずのヘレウクルスの顔から、スゥッと血の気が引いていく。彼は冷や汗を流しながら、情けない声で命乞いにも似た提案を絞り出した。

「……割り勘とかは、どうだろうか」

「はぁ?」

「いや……最近、ちょっと色々と出費がかさんでいてな……その……」

モゴモゴと視線を泳がせる大英雄。神話の怪物より、己の財布の底のほうが恐ろしいらしい。

「ダメェ! 約束は約束! 金がないなら、酒場の皿洗いでもして銭稼げばいいでしょ! さぁ、行くよ!」

「お、おい、引っ張るな! わかった、わかったから……!」

絶対の死地を共に乗り越えた頼もしい英雄が、自身の半分以下の背丈しかない獣人の少女に腕を引かれ、ズルズルと酒場の方へと連行されていく。

幸いだったのは、憧れの眼差しを向けていた民たちが、英雄のあまりにも締まらないその後ろ姿を目撃せずに済んだことだろう。

その頃、村正と武は、ニギハヤヒに導かれるまま、いつの間にか未知の空間へと足を踏み入れていた。

視界を埋め尽くすのは、真珠のように白く、柔らかな光を孕んだ濃密な霧。足元に目を落とせば、くるぶしを浸すほどの温かな水が満ちていた。それは水というよりは、微かにとろみを帯びた、極上の絹のような肌触りの温水だった。

「ここは……。風呂、なのか?」

武が当惑したように声を漏らす。辺りを包むのは、清涼な香木と、どこか懐かしい母なる海を思わせる不思議な香り。

「ここは『天地乳海てんちにゅうかい』。聖都が誇る公共の入浴施設です」

霧の向こうから、ニギハヤヒの穏やかな声が響く。

「入浴施設……? だが、辺りは霧で真っ白だ。俺たち三人以外誰一人として見えないんだが」

武は警戒を解かぬまま、霧の深淵を射抜くように目を細めた。公共の場というには、あまりにも静謐が過ぎる。

「ご安心ください。これこそが、この場所の仕組みなのです。性別や個人の事情、あるいはその身に刻まれた傷跡など、他人に自身の容姿を見られたくない方は少なくありません。ここは、そういう方々の安寧を守るための結界が張られているのです」

ニギハヤヒの影が、霧の中で優雅に揺れる。

「そして、この結界内では、親しき者や顔合わせしても良い者同士では姿が見えるのです。」

「…………」

それまで黙っていた村正が、深い、深いため息をついた。その顔には、隠しきれない哀愁と、世界の理不尽を呪うような複雑な表情が浮かんでいる。

「村正、 どうしたんだ?」

武が訝しげに尋ねる。

「……いや。ここなら覗きの心配はいらないんだな、って思ってさ」

村正の視線は、虚空の彼方――男たちの果てなき夢が潰えた先を、遠く見つめていた。

「お前は、こんな緊急事態に何を心配しているんだ」

武の氷のような冷めたツッコミが、霧の中に虚しく響く。

「ふふっ。英気を養うのは良いことですよ」

ニギハヤヒは、村正のくだらない冗談さえも包み込むような包容力を持って微笑んだ。だが、次の瞬間、その声音には真理を語る者特有の重みが宿った。

「皆さんは、この地に降り立ってからまだ時が浅い。予言についても、我々を脅かす邪神についても、知らないことが多いでしょう」

霧が、彼の言葉に呼応するように静かに波打つ。

「具体的な説明を始める前に……まずは、この世界の歴史から学んでいただく必要があります」

乳白色の霧に包まれた幻想的な空間で、少年たちは、自分たちが足を踏み入れてしまった『神話』の真実を耳にすることになる。

「乳海の囁きに耳を傾けてみてください。そうすればきっと、原初の海はあなた方の呼び声に応えるはずです」

ニギハヤヒの静かで、しかし不思議な反響を伴う声が霧の中に溶けていく。

村正と武は顔を見合わせると、足元を満たす温かな水に身を委ねるようにして、ゆっくりと目を閉じた。

チャプ……、ピチョン……。

かすかな水音が、次第に鼓膜の奥で反響し始める。

やがてそれは、何千、何万という人々の祈りの声となり、重厚な地鳴りとなり、一つの雄大な『歌』となって彼らの脳髄へと直接流れ込んできた。

それは、遥か古代より語り継がれてきた、この世界の血塗られた叙事詩。

> ――天地開闢。嗚呼、この世の全ては、果てなき混沌カオスの泥より始まりを迎えた。

> 四柱が世の礎を産み落とし、三柱が命の種を芽吹かせ、二柱が天と地を総べた。

> 。天帝マルドゥク。知と魔を束ねし隻眼の王オーディン。四方の顔で万象を見渡すブラフマー。世の理を創りしオメテオトル。

> 彼ら混沌を払い、泥を掻き混ぜ、原初の巨骨をもって天と地を無情に引き裂き、ここに果てなき世界(宇宙)を創り出さん。

> 泥土に降り立つ神々は、御手みてに筆を執り、我ら生命という名の新たなる種を芽吹かせる。

> 世を照らす太陽神ラーが喜びの雨を降らせ、偉大なる父ダクザが感情の色彩を滲ませて生に形を与える。そして、天帝ゼウスがその神血を地に滴らせる。

> 斯くして、泥を割って『人類』は産声を上げた。

> 天を照らすアマテラスが輝かしき空を統治し、大地は五行を総べる龍神が豊穣の身をくねらせて治める。

> 秩序は成り、神々は九つの国を創り上げた。それぞれに栄光の冠を与え、脆き生命の盾となった。

> 一瞬にして過ぎ去りし『春光期』。

> 人は王を戴き、万物は健やかに天へと背を伸ばす。世はまさに、不滅を謳う黄金の時代。人々は神々の広き袖の下、永遠の陽だまりを謳歌した。

> 然れど、神々の栄光は瞬く間に散りゆく。

> 生ある者がもたらすは、光ばかりにあらず。生が落とす影は、やがて底知れぬ闇となる。

> 深淵の底より這い出でし異形の『邪神』共。彼らは世界に業火をもたらし、神々と凄惨なる戦を繰り広げ……やがて、傷ついた神々は血に染まり、暗き海の底へと沈みゆく。

> 遺されし人々は絶望に泣き濡れ、栄光の光を失った生命は、ただ凍える夜を数える。

> 嗚呼、これぞ長き『冬終期』の始まりなり。

> そんなある凍てつく夜、世界に一条の神託が降り注ぐ。

> 曰く――神と英雄の血を濃く継ぎし者たちを集え。空席となった神の座を奪い、この世に再びの栄光を戴け。さすれば、新たなる生命の芽吹きが、世界に春を呼び戻すであろう。

> これぞ『新生の予言』。すなわち【新生、芽吹かせる旅路】なり。

> しかし後に、千の手を持つ修道者、闇を照らし時を刻む神が新たなる予言をもたらした。

> それは栄光を掻き消す、底無しの暗黒時代を指し示す絶望の言葉。故にそれは【滅びの予言】と呼ばれ、希望を謳う新生の予言と、血塗られた対立を生むこととなる。

> さぁ、集え勇士よ。

> 祖の血をその身に滾らせ、灰の地に新たなる芽を芽吹かせよ――。

>

乳海の囁きはとうに止んでいたが、二人の胸中で暴れる鼓動は容易には鎮まらなかった。

脳内には未だに、天を統べる神々の威光と、それを理不尽に焼き尽くす邪神の業火の記憶が、焼き印のように熱くこびりついて離れない。あまりにも巨大で、途方もない歴史の奔流。生身の人間が受け止めるには、それは重すぎた。

「……これが、この世界で起きたことの、すべて」

武が、乾ききった唇を舌で舐めながら、微かに震える声で呟いた。普段の冷静な彼からは想像もつかないほど、その双眸は圧倒的な過去の幻影に揺らいでいる。

「ええ」

霧が薄れ、静かに佇むニギハヤヒの姿が再び浮かび上がった。その顔は穏やかだが、背負っている歴史の重圧を思わせる深いかげりが差している。

「あなた方が今日、その身を挺して立ち向かったテポーンは、かつて神々を文字通り暗き海の底へと沈めた邪神の一柱……。そして今、我々は二つの相反する予言の狭間で、人類の存亡を懸けた終わりの見えない戦いの真っ只中にいるのです」

「……なるほどな。まさに『苦境の最中』ってわけだ」

重苦しい空気に耐えかねたのか、村正はわざとらしく肩をすくめ、いつもの飄々とした口調で場を和ませようとした。

しかし。

「苦境……とも、言い難いですね」

ニギハヤヒの口から落ちたその言葉は、温かい乳海の湯を一瞬にして凍りつかせるほど、ひどく冷たく、静謐せいひつな響きを持っていた。

「え?」

村正が息を呑む。

「新生をもたらすためのこの旅路は、決して『苦境』などという生易しい言葉で括れるようなものではありません。……幾千、幾万の同胞の命が理不尽に散り、泥に塗れ、絶望に泣き叫んだか。それを安易な言葉で表すこと自体、死してなお灰の地を彷徨う者たちに対して、烏滸おこがましく感じられるほどに……」

ニギハヤヒの澄んだ瞳の奥に、かつてこの地を覆い尽くした地獄の業火と、拭い去れない深い悲哀が揺らめく。

その静かな凄みに当てられ、村正も武も、返す言葉を見失った。

「「……………」」

重い沈黙が、霧と共に三人の間に立ち込める。

自らの軽口が、彼らの決して癒えない傷を無自覚に踏みにじってしまったことを悟り、村正はバツが悪そうに視線を彷徨わせた。

数秒の静寂の後、ハッと我に返ったようにニギハヤヒがわずかに目を伏せた。

「……すみません。お二人が決して、そのような無神経なつもりで口にしたわけではないことは、重々承知しています。ただ、少し……感情が昂ってしまいました。申し訳ありません」

その痛切な謝罪に、武が静かに首を振った。

「いや、謝らないでくれ。……当然のことだ。どれほど凄惨な災害や悲劇であっても、その地獄を実際に肌で体験した人間と、後から言葉で聞いた第三者とでは、どうしても認識に相違が生まれてしまうのは事実だ。だから……気にしないでほしい」

武の言葉は、冷徹なまでの客観性を持ちながらも、相手の拭い去れない痛みに深く寄り添う、確かな誠実さを帯びていた。

その不器用な思いやりに触れ、ニギハヤヒの表情に張り詰めていた悲壮感が、ふっと柔らかく解けていく。

「……ありがとうございます。外界の勇士は、心根までまっすぐなのですね」

ニギハヤヒは深く頭を下げ、再び柔らかな微笑みを浮かべた。

「さて。これで、あなた方にもこの世界の基礎知識は得ていただけたかと思います。これ以上の長湯は、かえって身体に毒でしょう」

彼が指を鳴らすと、周囲を覆っていた乳白色の霧が、役目を終えたようにスゥッと薄れ始めた。

「さぁ、次の場所へと移動しましょうか。まだ、あなた方にお見せしなければならないものがありますので」

乳海の温かな霧が、まるで幻であったかのように足元からスゥッと引いていく。

視界が切り替わった先で、村正は警戒と好奇心の入り混じった声で尋ねた。

「……で? 今度はどこに連れてくんだ?」

「世界の中心にして――玉座です」

前を歩くニギハヤヒが、振り返ることなく厳かに答える。

「玉座? 帝のいる樫原宮とは違う場所なのか?」

武が鋭く眉をひそめた。彼らの知るこの聖都の中心地は、あの荘厳な宮殿のはずだった。

「ええ。あちらはあくまで人々を導くための地上の宮。真の玉座は、この地の『天』にあり、ーーー」

ニギハヤヒはそこでふと足を止め、ゆっくりと二人を振り返って微笑んだ。

「すでに、あなた方の目の前にありますよ」

「……目の前? どういうことだ?」

村正が周囲を見回そうと首を傾げた、その刹那。

「村正、見ろ」

隣に立つ武の、ひどく掠れた、震える声。

促されるままに視線を前へと向けた村正は――次の瞬間、呼吸の仕方すら忘れて立ち尽くした。

「……………ッ!」

言葉など、到底出なかった。

彼らが立っていたのは、見慣れた大理石の床でも、土の上でもなかった。足元にどこまでも広がっていたのは、白銀に輝く果てしない『雲の海』だったのだ。ふわりとした不可思議な感触が、足の裏に確かに伝わってくる。

そして、その見渡す限りの雲海を突き破るようにして、途方もないスケールを誇る『七つの巨大な神像』が、円を描くように厳かに聳え立っている。威風堂々たるその姿は、まるで世界のことわりそのものを体現しているかのようだった。

見上げれば、そこにあるはずの青い空はない。

広がっていたのは、底知れぬ漆黒と、無数の星々が神秘的な瞬きを放つ『宇宙』そのものだった。

風の音さえない、圧倒的な静寂。

永遠にも似た無音の深淵が、彼らを丸ごと飲み込んでいる。生身の人間が足を踏み入れることなど絶対に許されない、文字通りの『神々の領域』。圧倒的な美しさと、己という存在のあまりのちっぽけさを突きつけてくる絶対的なスケールを前に、二人はただ呆然と立ち尽くすことしかできなかった。

静まり返った星の海に、ニギハヤヒの透き通るような声が静かに響き渡る。

「ようこそ。世界の――そして『新生の旅路』の中心地、ヘブドマスへ」

ーーーーーーーーーーーーーー

おまけ

その頃ヘレウクレスとロッキルはというと

聖都の復旧作業でけたたましい喧騒が響く表通りから、迷路のような路地を一本裏へと入った場所。そこには、薄暗くもむせ返るような活気に満ちた大衆酒場があった。

分厚い鉄板の上で獣肉の脂がジュウジュウと焦げる暴力的に香ばしい匂いと、樽から溢れたエール酒の甘ったるく芳醇な香りが、店内の空気を重く満たしている。

屈強な労働者や兵士たちがジョッキを打ち鳴らすその店内で、ひとつの円卓だけが、周囲の喧噪を飲み込むほどの異様な熱気を放っていた。

「ん~~~っ! やっぱり、命の危機を乗り越えた後のタダ飯は最高だねっ!」

亜麻色の獣耳をピコピコと上機嫌に揺らしながら、ロッキルは自分の顔ほどもある巨大な骨付き肉にガブリと豪快に齧り付いた。

口の周りを脂まみれにして至福の表情を浮かべる彼女の目の前には、すでに役割を終えた空の木皿がジェンガのように積み重なっている。その高さたるや、誇張抜きですすけた天井のはりに届きそうなほどのタワーと化していた。

「あ、ああ……。そう、だな。君が満足してくれたのなら、俺も嬉しいよ……」

その対面の席。

ほんの数時間前、世界を滅ぼしかけた絶望の邪神の分身体を真っ二つに両断してみせた大英雄ヘレウクレスは、丸太のように極太の腕を窮屈そうに折りたたみ、巨体をこれ以上ないほど小さく縮こまらせていた。

その岩のような顔面は、死闘の最中すら見せなかったほど真っ青に色抜けしており、額からは滝のような冷や汗が絶え間なく流れ落ちている。引きつった愛想笑いを顔に貼り付けた彼の視線は、底なし沼のような胃袋を持つ小悪魔が次々と平らげていく高価な料理の数々と、自身の腰にぶら下がった『ひどく中身の軽い革袋』とを、メトロノームのように忙しなく往復していた。

ロッキルは骨についた最後の肉片を綺麗に舐めとると、勢いよく右手を天高く突き上げた。

「すいませーん! こっちに年代物の葡萄酒ワインの樽、もう一つ追加でー! あと、デザートの甘い焼き菓子も全種類持ってきて!」

「あいよっ! 毎度ありぃ!」

威勢の良い店主の快活な返事が、ヘレウクレスの鼓膜には無慈悲な死刑宣告の鐘の音のように響き渡った。

「…………っ」

(足りるだろうか……)

己の財布の底が完全に抜け落ちる絶望的なビジョンを前に、ヘレウクレスは泣きそうな面持ちで天を仰いだ。

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