第一部第一章第五幕 初陣の果てに
見上げる視界のすべてが、ぬらぬらと蠢く異形の肉塊によって塗り潰されていく。
広場を埋め尽くすほどの規格外の質量。無数の蛇の首が、互いに絡み合い、天を突くようにのたうち回っている。
「なんて大きさだ………」
盾を構えた武の口から、無意識のうちに戦慄の声が漏れた。冷静な計算など一切通じない、純粋な『災害』そのものがそこにあった。
「あれが……魔獣テポーンの、本体」
村正もまた、握りしめた日本刀の柄に冷や汗を滲ませながら息を呑んだ。
だが次の瞬間――。
『ズンッ……!!』
鼓膜を突き破るような、耳鳴りにも似た異様な重低音が広場を揺らした。
「ぐっ……! なんだコレ、頭が……痛いッ!」
村正は刀を取り落としかけ、顔を歪めて自身のこめかみを強く押さえた。
ただの頭痛ではない。脳髄に直接、泥のように粘り気のある『悪意』が流れ込んでくるような感覚。視界が赤黒く明滅し、胃袋が裏返りそうなほどの強烈な吐き気が全身を襲う。
「……………ッ!!」
隣に立つ武もまた、苦悶に満ちた表情で頭を抱え、その場に膝をつきそうになっていた。
常に冷静であるはずの彼の思考が、強制的にかき混ぜられ、バラバラに解体されていく。自分は何をしているのか、なぜここにいるのか。己の輪郭がドロドロに溶けて消えてしまいそうな、底知れぬ恐怖。
「大丈夫か! 気をつけろ!」
ヘレウクレスが、苦しむ二人の前に身を挺するように立ち塞がった。
「奴の存在そのものが、周囲に『破壊』と『混沌』を暴風のようにもたらすんだ! それは物理的な都市の破壊だけにとどまらない。対峙する者の精神、ひいては『人としての性質』すらも例外なく泥のように崩壊させる!」
「……っ、どう、すればいいんだ……!」
武が歯を食いしばり、血の滲むような声で打開策を絞り出す。
「自分の中で絶対に揺るがない『大切なもの』や、『目的』を見失うな! 自我を繋ぎ止める錨を降ろすんだ!」
ヘレウクレスは嵐の中で叫ぶように声を張り上げた。
「それが見つからないなら、これまでで一番『辛かったこと』でもいい! 強烈な感情の記憶を想起するんだ。そうすれば、奴の混沌に飲み込まれずに済む!」
目的。大切なもの。辛かった記憶。
その言葉に、薄れゆく意識の中で二人は必死に己の芯を探り当てた。
脳裏に浮かぶのは、元の世界への帰還。そして、無力だった己の過去への強烈な後悔。
そして、二度と目の前で誰も失いたくないという強い怒り。
(……そうだ。俺は、こんなところで自分を見失ってる場合じゃない!)
確固たる感情が楔となり、濁っていた二人の瞳に再び鋭い理知と闘志の光が戻った。
呼吸を整え、両足でしっかりと大理石の床を踏み締める。盾を掲げ直し、日本刀を再び八双に構える二人を見て、ヘレウクレスは安堵の息を吐いた。
しかし、大英雄は眼前にそびえ立つ魔獣の威容を改めて見上げ、微かに眉間を寄せた。
「……だが、おかしいな」
その呟きには、明らかな疑念が混じっていた。
「確かに規格外の化物だが……かつて神々を皆殺しにした奴の本体は、コレよりも『遥かに大きかった』はずだが……」
目の前にいるのは、果たして弱体化した本体なのか、それとも巨大すぎる偽物に過ぎないのか。
思考を巡らせかけたヘレウクレスだったが、すぐに首を振り、その雑念を強引に振り払った。今考えるべきは、目の前の脅威を打ち砕くことのみ。
「まぁいい。理由はどうあれ、倒すべき敵であることに変わりはない!」
ヘレウクレスは血濡れた大棍棒を両手で力強く握り締め、腹の底から湧き上がるような咆哮を聖都の夜空へと轟かせた。
「迎え討つぞ、我が盟友たち!!」
大英雄の雄叫びを合図に、絶望の肉塊が激しく波打った。
『ギシャァァァァァァァッッ!!!』
テポーンの無数にある蛇の首のうち、ひときわ巨大な三本が、まるで意思を持った城門の丸太のように、凄まじい速度で三人へと殺到する。空気を押し潰す風圧だけで、周囲の建物の壁がメキメキとひび割れ、砕け散っていく。
「ッ!!」
ヘレウクレスが大理石の床を粉々に踏み砕き、正面から弾丸のように跳躍した。
「なるほど、まずは天敵である俺からとーー」
巨漢の全身の筋肉が爆発的に膨張し、大木のような棍棒が夜気を引き裂いて唸りを上げる。
「そういう言うわけかァッ!!」
――ズドォォォォォォォンッ!!!
棍棒と、迫り来る一本の蛇の頭部が正面から激突した。
隕石同士がぶつかり合ったかのような衝撃波が広場を吹き荒れ、周囲の黄金の炎を消し飛ばす。ヘレウクレスの規格外の膂力は、分厚い鱗をひしゃげさせ、テポーンの巨大な首を強引に横へと弾き飛ばしてみせた。
だが、邪神の猛攻はそれだけでは終わらない。
迎撃の反動で空中に投げ出され、着地の体勢に入ろうとするヘレウクルス。その一瞬の無防備な死角を突き、残る二本の首が狂気的な速度で左右から襲い掛かった。
(しまった……!)
大英雄が空中で顔をしかめた、その刹那。
『シュンッ!』
『ガギィィィィンッ!!!!』
閃光のような踏み込みで前に出た村正が、日本刀を振り抜き、迫り来る右の首の牙を強引に弾き飛ばす。それと完全に同時に、左から迫るもう一本の首を、武が左腕に構えた重厚な盾で真っ向から受け止めた。
「助かった!」
間一髪で石畳に着地したヘレウクレスが、大棍棒を構え直しながら短く礼を叫ぶ。
「お互い様だ」
武は、盾越しに伝わる内臓が揺れるほどの規格外の質量に顔をしかめながらも、冷静な声で返した。
しかし、右の首を刀で弾き返した村正の顔には、かつてないほどの困惑と焦燥が浮かんでいた。
(……おかしいな)
村正は、ジリッと痺れる両手と、握りしめた刀の刃を信じられない思いで見つめた。
先ほど大通りで雑兵の蛇たちを両断した時、この刀は鋼の鱗を熱したナイフがバターを切るようにあっさりと切り裂いたはずだ。しかし今、テポーンの首に刀を叩きつけた瞬間――刃は肉に食い込むどころか、見えない『壁』に阻まれたように、硬質な音を立てて完全に弾き返されたのだ。
それが、ヘレウクレスが語っていた『対応する勇士でなければ傷一つつけられない』という、邪神が持つ絶対的な権能。
「村正ーー」
村正の異変に気付いたヘレウクレスが、何かを叫ぼうと口を開きかけた。
「来るぞッ!!」
大英雄の言葉を、武の裂帛の警告が掻き消す。
態勢を立て直したテポーンの無数の首が、今度は天高くから雨あられと降り注ぎ、三人をまとめて押し潰そうと殺到してきたのだ。
ズドォォォォォォォンッ!!!
広場の大理石が爆発したかのように砕け散り、巨大なクレーターが穿たれる。
「チィッ……!!」
もうもうと舞い上がる土煙の中、三人は四方へと散開して直撃を免れるも、ヘレウクレスが忌々しげに鋭い舌打ちを鳴らした。
傷一つ負わせられない二人の少年と、彼らを庇いながら戦わねばならない一人の英雄。圧倒的な理不尽を前に、死闘の幕が切って落とされた。
ズゴォォォォォォンッ!!
背後で大理石の柱が粉々に砕け散り、巨大な破片が散弾のように降り注ぐ。
武と村正は、嵐のように荒れ狂う蛇の首の猛攻を掻い潜り、崩壊していく広場を縦横無尽に駆け回っていた。
「……まずいな」
武は迫り来る瓦礫を左腕の盾で弾き飛ばしながら、冷静に、だが確かな焦燥を滲ませて呟いた。
「さっきの村正の攻撃が完全に弾かれたのを見るに、ヘレウクレスの言っていた『権能の壁』は絶対だ。このままだと、俺たちは自分の身を守り、逃げ回るだけで精一杯になる……!」
武の優れた頭脳が、現在の戦況が完全に『詰み』に向かっていることを弾き出していた。決定打を持たない者が戦場に留まることは、いずれヘレウクレスの足を引っ張ることに直結する。
一方の村正もまた、息を荒らげながら戦場を駆け抜け、ギリッと奥歯を噛み締めていた。
(クソッ! これじゃ、完全に足手纏いじゃないか……!)
手にある日本刀を強く握り直す。
神武天皇の極限の試練を乗り越え、やっと手にした力。大切なものを守れると確信した矢先に突きつけられた、残酷な絶対ルールの壁。
己の無力さが、過去の後悔と重なって胸を焼く。
(なんか……なんかないのか!? この絶望的な状況をひっくり返すような手は……!)
焦燥感に苛まれながら戦場を駆け巡る村正の耳に、爆音と魔獣の咆哮を切り裂くようにして、大音声を張り上げる声が届いた。
「村正ァッ!!」
「……!」
弾かれたように顔を上げる。
声の主は、戦場の反対側で三本の蛇の首を大棍棒で押さえ込んでいる、ヘレウクレスだった。
「ヘレウクレス!」
巨漢は、全身の筋肉を軋ませながらも、はっきりとした声で叫んだ。
「思い詰めるな! 君たちは決して足手纏いなんかじゃない! 現に、ついさっき君たちは俺の死角を補い、身を守ってくれたじゃないか!」
その言葉は、焦りに塗り潰されそうになっていた二人の心に、温かく力強い楔を打ち込んだ。
「それに、君たちにはここで成すべき明確な『役割』があるんだ!」
「役割……?」
村正が息を呑む。
「武! 君は引き続き、その堅牢な盾で奴の死角からの攻撃を防ぎ、俺たちを守る盾となる役割だ!」
「……了解した!」
武は迷いなく頷き、盾を力強く前へと構え直す。
そして、大英雄の鋭い眼光が、広場の反対側にいる村正を真っ直ぐに射抜いた。
「村正はーー」
一瞬の静寂。
次に大英雄の口から飛び出したのは、常識を覆す、あまりにも予想外の指示だった。
「俺に!! その君の『剣』を投げてくれ!!」
「え……?」
村正は目を丸くし、手の中のいびつな刀と、遥か彼方で腕を伸ばすヘレウクレスの巨体を交互に見比べた。
「剣を……投げる?」
「君の力は、ただ武器を振るうことじゃない。剣を『作り出す』能力だ!」
ヘレウクレスの声が、爆音を切り裂いて響く。
「その力で、俺に君と同じ剣をくれないか! 頼む!」
(武器の創造……そうか、俺の魂に刻まれた『鍛冶師』の記憶!)
村正が躊躇したのは、ほんの数秒のことだった。
戦場の彼方に立つ大英雄の瞳には、微塵の迷いも疑いもなかった。理屈は分からないが、彼には明確な『勝機』が見えているのだ。そして何より、彼らは七日間の猶予を与えられながらも、己の意志でこの修羅場に足を踏み入れた『盟友』なのだから。
「武! 援護頼む!」
「言われるまでもないッ!」
思考を巡らす村正の頭上から食らいつこうと迫っていた別の蛇の首を、武が地を滑るように割って入り、左腕の古代の盾で激しく弾き返す。
ガギィィィッ!と激しい火花と轟音が散る。武が歯を食いしばって魔獣の絶大な質量に耐えるその背後で、村正は右手に全神経を集中させた。
炉の炎。鉄を打つ音。己の魂の深淵から、限界を超える熱量を引っ張り出す。
光が収束し、新たに生み出されたのは、眩い熱を帯びた一振りの日本刀。
「受け取れよォォッ、大英雄サマァッ!!」
村正は渾身の力で、手の中の刀を戦場の対角線――ヘレウクレスに向かって投擲した。
空気を裂き、クルクルと回転しながら、炎と土煙の空を真っ直ぐに飛んでいく一振りの刀。それは宙を舞う途中で、まるで巨漢である大英雄の規格外の体躯に応えるかのように、打たれたばかりの鉄の匂いと光を纏い蒸気を噴き上げながら巨大な大太刀へとみるみる変貌を遂げていく。
「しかと受け取った!!」
ヘレウクレスは迫り来る三本の首を大棍棒で強引に弾き返すと、空いた左手――丸太のように太いその手で、飛んできた巨大な刀の柄をガシィッと正確に掴み取った。
彼がその柄を握りしめた瞬間、刀身に走る冴え渡る刃文が、持ち主の闘気に共鳴するようにヒュンッと鋭く危険な光を放つ。
「俺はテポーンを殺せる奴にとっての『宿敵』! だが、純粋な破壊力しかない俺の打撃では、この巨大な肉の海を削り切るには時間がかかりすぎる……!」
ヘレウクレスは右手の愛用の棍棒を惜しげもなく地面に突き立て、空いた両手で巨大な刀の柄を握りしめ、深く腰を落とした。
「そこで! 君のその剣が持つ『異常なまでの切れ味』と、俺の『(テポーンの)権能を貫く理』が合わさればーー!」
『ギシャァァァァァァァァァッッ!!!』
己を脅かす致命的な危機を本能で察知したのか、テポーンの無数の首が一本の極太の束となるように密集した。そして、広場全体を飲み込むほどの巨大な肉の壁となって、ヘレウクレスをすり潰さんと猛烈な勢いで襲いかかる。
「おおおおおおおおッ!!」
ヘレウクレスの全身の筋肉が、はち切れんばかりに隆起する。
神話の英雄の規格外の怪力を乗せた、異界の少年が顕現させた一振りの日本刀。
大理石の床を砕き、下段から斬り上げるように放たれたその一閃は、黄金の炎ごと夜空を真っ二つに裂く、凄まじい「光の刃」と化した。
――ズパァァァァァァァァァンッッ!!!
鼓膜を突き破るような、甲高い破裂音が響き渡る。
先ほどまで村正の刀を容易く弾き返していた絶対の「権能の壁」は、宿敵であるヘレウクレスが握ることで完全に無効化されていた。その下にある分厚い鋼の鱗と極太の肉の束を、巨大な日本刀はまるで濡れた紙を裂くように、一切の抵抗なく両断していった。
巨大な蛇の首の束が、美しい斜めの断面を見せて天高く舞い上がる。
どす黒い血の雨が降り注ぐ中、戦況の劇的な好転に武の顔がパァッと明るくなった。
「コレならーーいける! 村正!」
歓喜の声を上げ、相棒を振り返る武。
しかし、返事はなかった。
「……村正?」
「ぐっ………ぐゥゥゥ!!」
武の視線の先。村正は苦悶に顔を歪め、己の右腕を抱え込むようにして大理石の床に膝をついていた。
飄々としたいつもの余裕は完全に消え失せ、滝のような脂汗がその横顔を伝い落ちている。
(な……なんだ、コレは……!?)
村正は視界が白濁するほどの激痛に苛まれ、大理石の床に爪を立てた。
生み出した刀と自身の魂が、目に見えない太い鎖で繋がっているかのような奇妙な感覚。ヘレウクレスがその規格外の筋力でテポーンの肉の壁を両断した瞬間、その途方もない『衝撃』と『反動』のすべてが、刀を介して創造主である村正の肉体にも渡ってきたのだ。
全身の骨が軋み、神経の束が内側から業火で焼かれるような、理不尽極まりないフィードバック。
「村正!! 大丈夫か、村まーー!!」
武の悲痛な叫び声が、遠く、水底から響いてくるように鼓膜を打つ。
『キエェェェェェェェェェェェッッ!!!!』
村正の苦悶を掻き消すように、鼓膜を劈く悍ましい絶叫が広場を震わせた。
首の束を両断されたテポーンだったが、その狂気的な生命力は尽きてはいなかった。切り口からどす黒い血を滝のように噴き出しながらも、残された無数の首が狂乱状態に陥り、手当たり次第に暴れ狂い始めたのだ。
「武ッ! 前を見ろ!」
「……ッ!」
大英雄の鋭い警告に、武はハッと前を向いた。
「チッ、諦めの悪い凶獣めが!」
ヘレウクレスは忌々しげに舌打ちをすると、右手に己の愛用する大棍棒を、左手に村正が生み出した大太刀を握りしめ、巨大な嵐の渦へと飛び込んでいった。
斬っては潰し、潰しては斬る。
棍棒の絶大な質量が蛇の頭を粉砕し、刃文の冴える刀が分厚い鱗を紙屑のように切り裂いていく。大英雄の鬼神の如き猛攻が、広場を赤黒い血の海へと変えていく。
しかし、知性を失い暴走する魔獣の攻撃は無軌道であり、ヘレウクレスの包囲網から漏れた首が、獲物を求めて次々と武たちの元へと殺到してきた。
「させない……!」
武は床にうずくまる村正の前に立ち塞がり、左腕の古代の盾を構えた。
ガギィィンッ! ズドドォォォンッ!
次々と迫り来る大蛇の牙や突進を、武は歯を食いしばりながら盾の傾斜で受け流し、盾を構えたまま前傾姿勢で突進する。蛇の顎をかち上げる全身の筋肉が悲鳴を上げ、足元の石畳が後退するたびに削れていく。
(防ぎ切る! こいつが立ち上がるまでは、絶対に……!)
武が極限の集中力で前面の攻撃を凌いだ、まさにその刹那だった。
「……しまった!」
死角――崩れた建物の瓦礫の陰から、完全に気配を絶っていた別の一本の首が、武の背後を取って大きく鎌首をもたげていた。
凶悪な牙が大きく開かれ、武の無防備な背中へと容赦なく襲いかかる。
盾を構え直す時間は、ない。
(やられる――!)
武が死を覚悟し、目を細めた瞬間。
「はぁッ……はぁッ……はぁッ……!」
滝のような脂汗を流し、激しい喘鳴を漏らしながら。
いつの間にか武の背後に立ち上がっていた村正が、手元に残っていた日本刀を、下段から凄まじい速度で振り抜いていた。
ズバァァァンッ!!
「……なに?」
武が振り返った時、目の前には美しい斜めの断面を見せて宙を舞う、巨大な蛇の頭部があった。
権能の壁など存在しなかったかのように、あまりにもあっさりと両断された魔獣の首。
ドサァッ、と重い音を立てて絶命した蛇の肉塊が地に落ちる。
その傍らで、村正は肩で荒い息を繰り返しながらも、震える手で刀をしっかりと握り締め、ギラついた瞳でかつての無力な自分を振り払うかのように不敵な笑みを浮かべていた。
「村正……お前、今……」
武は目を見開き、息を呑んだ。
先ほどまで、日本刀の刃はテポーンの絶対的な『権能の壁』に完全に弾かれ、傷一つ負わせることができなかったはずだ。それがなぜ、今になっていとも容易く、魔獣の分厚い首を刎ね飛ばせたのか。理屈に合わない。
「ははっ……げほっ、ちゃんと守ってくれよ……武。おちおち、眠れや……しねぇ……」
村正は血の気の引いた顔でニシシと笑い、ゴホゴホと乾いた咳を吐き出した。そして、その言葉を最後に、プツリと糸が切れたかのように前へと倒れ込んだ。
ガクッ。
「村正ッ!」
武が慌ててその身体を受け止める。
「……気絶、したのか」
腕の中の親友は、死んだように目を閉じ、深い寝息を立て始めていた。その顔には、極限まで未知の力を絞り出したことによる強烈な疲労が色濃く刻まれている。
『ギェェェェェェェェ……ッ!!』
断末魔の絶叫が、夜空に溶けていく。
広場を埋め尽くしていたテポーンの無数の首と巨大な肉塊が、不気味な黒い灰へと変わり、風に吹かれてサラサラと崩れ落ちていった。
「盟友! 無事か!」
黒灰が雪のように舞う中、ヘレウクレスが大棍棒を肩に担いで駆け寄ってきた。巨漢の全身には無数の傷と返り血がこびりついているが、その足取りは力強い。
「ヘレウクレス……テポーンは」
「ああ、消えたよ。どうやらさっきのが最後の悪あがきだったようだ。……それより、そっちの気分はどうだ? 精神に悪影響は受けていないか?」
「俺は大丈夫だ。だが……」
武は、腕の中で気を失っている村正に視線を落とした。
「あれだけの激闘だったんだ、無理もない。少し休ませよう」
ヘレウクレスは優しく目を細めると、誰もいないはずの崩れた建物の影に向かって声を張り上げた。
「ロッキル! どうせそこから見ているんだろう? 彼を安全な場所へ運んでやってくれ」
「もーっ。私のこと、便利なタダの運び屋かなんかだと思ってない?」
瓦礫の影から、不満げに亜麻色の尻尾をパタパタと揺らしながらロッキルが姿を現した。
「頼む。後で酒でも何でも、好きなだけ奢ると約束するから」
ヘレウクレスが苦笑いしながら両手を合わせる。
「え? 奢り? ホントに!? はいはーい、喜んで~!!」
現金な獣人の少女の顔がパァッと輝いた。
『シュンッ!』
次の瞬間、つむじ風が吹き荒れた。武の腕の中からフワリと村正の身体が消え、ロッキルは気を失った少年を軽々と担ぎ上げると、瞬く間に黄金の街並みの奥へと消え去っていった。
周囲に再び、焼け焦げた静寂が戻る。
武は深く息を吐き出し、火の粉が舞う夜空を見上げた。
「これで……『第一の予言』とやらは、終わりか……」
過酷な死闘の末に掴んだ勝利。これでひとまず、この世界を脅かす絶対的な絶望は去ったのだろう。そう安堵しかけた武の耳に、ヘレウクレスのひどく重い、氷のような声が届いた。
「いや。あれは奴じゃない」
「……今、なんて言った?」
武は弾かれたように振り返った。
大英雄の岩のような顔には、勝利の喜びなど微塵もなかった。ただ、果てしなく続く絶望の底を見据えるような、深い苦渋だけが刻まれている。
「あれは奴じゃない。たった今、俺たちが死力を尽くして倒したアレは……数ある『神体』の一つに過ぎなかったんだ」
「分身体の、一つ……これほどの怪物が、か……?」
武の背筋を、再び冷たい刃がなぞる。
ヘレウクレスは血に濡れた大棍棒と大太刀を地面に突き立て、真っ直ぐに武の目を見つめた。
「来てくれないか、盟友。そこで……この世界の真実のすべてを話そう」




