第一部第一章第十幕 十二、最後の試練ヒドラー
『シャアアアアアアアアアッ!!』
天地を引き裂くような、いや、世界そのものの鼓膜を突き破るような九つの咆哮が重なり合い、鼓膜のみならず魂の芯までを激しく震わせた。
それが、絶望という名の宴の開戦の合図だった。
神話の巨獣がわずかに身をよじった瞬間、分厚い瘴気の暗雲が吹き飛び、視界のすべてを黒く塗りつぶすほどの巨大な顎が、天磐舟の甲板へと雨霰のように降り注いできた。
「――来るぞ! 構えろッ!」
武が腹の底から叫びを上げたのと同時、一番乗りに凶悪な牙を剥き出しにした長大な蛇首が、彼らの頭上から甲板ごと噛み砕かんと迫る。
武は即座に重心を深く落とし、左腕の盾を巨岩の如き決意と共に天へと掲げた。
ガガァァァァァンッ!!
鋼鉄でできた山脈が真正面から激突したかのような、途方もない衝撃音が鳴り響く。
武の足元で甲板が蜘蛛の巣状に砕け散り、木片が爆発したように吹き飛ぶ。強靭に鍛え上げられた彼の脚力が悲鳴を上げ、ブーツの底が分厚い甲板に数センチもめり込んだ。
「ぐっ……、なんて、重さだ……ッ!」
普段はいかなる理不尽をも涼しい顔で弾き返す盾が、今ばかりはミシミシと限界を訴えるような軋み音をたて、左腕の骨が砕けそうなほどの激痛が走る中、盾の表面に刻まれた古の文様が、必死に主の命を繋ぎ止めようと微かに脈打って光を放った。ただの一撃で、骨の髄まで粉々に砕け散りそうな規格外の質量。神話の怪物の力は、人間の想像を遥かに超えていた。
「武! 踏ん張れェッ!」
武の頭上を覆う巨大な影を飛び越え、弾丸のような速度で前線へと躍り出たのは、ヘレウクレスだった。
「オオオオオオオッ!!」
岩山のように隆起した腕の筋肉がはち切れんばかりに膨張し、空気を圧縮して放たれた剛拳。その一撃は、武の盾に噛み付いていた蛇首の下顎を正確に捉え、途方もない力で巨大な頭部を天高くカチ上げた。
だが――。
『愚鈍な猿が。我が身に流れる呪いの毒を忘れたわけではあるまいな?』
脳裏の奥底を直接撫で回すような、ねっとりとした嘲笑。
それに呼応するように、別の二つの首が死角となる両側面から同時に強襲を仕掛けた。大きく開かれた口から吐き出されたのは、ドス黒く煮えたぎる『猛毒のブレス』だった。
「チィッ……!」
ヘレウクレスは咄嗟に丸太のような両腕を交差して顔面を庇うが、その濃密な毒の飛沫を浴びた瞬間、鋼鉄よりも硬いはずの彼の皮膚から「ジュウゥゥッ!」と悍ましい白煙が上がり、肉がドロドロに溶ける凄まじい悪臭が立ち込めた。
「グォォッ……!」
大英雄の屈強な精神ですら耐え難いほどの激痛。その巨体が、苦悶の呻きと共に後方へと大きく弾き飛ばされる。
「大英雄!」
村正が血相を変えて叫び、腰の獲物の柄に手をかけて前へ踏み込もうとした瞬間。
「――止まれ。あの毒の霧に突っ込む気か」
静かで、しかし絶対の服従を強いるような冷徹な命令が村正の耳を打ち、冷たい風がその横を鋭くすり抜けた。
リーだった。
彼はそれまで背負っていた禍々しき凶星――光の槍『ブリューナク』の柄を静かに、しかし力強く握り締めると、甲板を蹴って虚空へと舞い上がった。
その動きは、先ほどまでの静寂を纏う立ち居振る舞いからは想像もつかないほど、鮮烈で、暴力的で、そして圧倒的に美しかった。
闇に沈んだ死の領域において、リーの手から解き放たれたブリューナクは、まるで『太陽の輝き』そのものだった。古の太陽神の怒りを体現するかの如き圧倒的な閃光の軌跡が、世界を覆う瘴気を一瞬で蒸発させ、迫り来る五つの蛇首の喉元を瞬時に捉える。
ズバァァァァンッ!!
眩い光の刃が、いかなる武器も弾き返す毒蛇の硬質な鱗を紙切れのように容易く両断した。
五つの巨大な首がボトボトと宙を舞い、切断面から漆黒の血飛沫が間欠泉のように噴き上がる。斬られた後、その身体を焼き尽くさんばかりの業火が身を包んだ。
「すげぇ……! 一振りの槍で、一気に五つも!」
村正が希望の光を見たように目を見張る。しかし、着地したリーの表情には、一欠片の喜悦も浮かんでいなかった。むしろ、その整った顔はかつてないほど険しく、忌々しげに歪んでいる。
「……退け! 血を浴びるな!!」
リーが裂帛の気合と共に叫び、後方へ大きく跳躍した直後。
切り落とされたはずの三つの首の断面から、ボコボコと赤黒い肉芽が異常な速度で膨れ上がり始めた。そして次の瞬間――『ジュルルルルッ』という、聞く者の正気を削り取るような悍ましい湿った音と共に、一つの断面から『五つの真新しい首』が、それぞれ狂気的な速度で再生を遂げたのだ。
絶望はそれだけではない。切断面から撒き散らされた真っ黒な毒血は、甲板に触れた端から硬質な木材をドロドロに溶かし、肺を直接焼き焦がすような強烈な腐食ガスを発生させていた。
『はっはっはっ! ダグザの座に座りし半神……流石の武威だな。しかし、その程度のか細き光など、我が深淵の呪毒の前では無力に等しい!』
増殖した首たちが狂喜の咆哮を上げ、今度は計十二となった首が、回避不能の波状攻撃となって勇士たちへと殺到する。
「チッ、面倒なバケモンが……!」
村正は刀を抜き放つも、周囲を完全に覆い尽くす濃密な毒の霧のせいで、不用意に間合いに飛び込むことすら許されない。息を吸うだけで肺腑が焼け焦げるような激痛が走り、視界は生理的な涙で滲み、呼吸すらままならない。
「……ッ! 村正、俺から離れるな!」
武は自身の前方に盾を構え、強固な防壁を形成して相棒を必死に庇う。だが、四方八方から降り注ぐ猛毒の酸雨と、家屋を粉砕するほどの物理的な打撃の嵐に、完全に防戦一方に追い込まれ、じりじりと後退を余儀なくされていた。
「クソッ! あの時と同じだ……! あの忌まわしき不死身の呪いがある限り、決定打が全く入らない!」
毒で赤黒く爛れた腕を押さえながら、ヘレウクレスが過去のトラウマを呼び起こされたかのように悔しげな咆哮を上げる。
無尽蔵に増殖し続ける再生能力。
触れることすら許されない必殺の猛毒の血。
そして、息つく暇も与えない圧倒的な手数と暴力的な質量。
神話が誇る純粋な絶望は、外界の勇士たちに反撃の糸口を一切与えず、ジリジリと、そして確実に、彼らを死の淵へと追い詰めていった。
無尽蔵に増殖し続ける再生能力。
触れることすら許されない必殺の猛毒の血。
そして、息つく暇も与えない圧倒的な手数と暴力的な質量。
絶望が甲板を支配しつつある中、盾の陰で荒い息を吐きながら、武は鋭い視線で蠢く肉塊を睨み据えていた。
「……おかしい」
「ああ、おかしい」
武の低い呟きに、村正が刀の柄を握り直しながら同意する。異界の少年は、自らの脳内に眠る『神話の知識』を必死に手繰り寄せていた。
「ヒドラーの首は、切断面を『火で燃やせば』再生できずに死ぬ。俺の知る神話の伝承だったら、確かにそうだったはずだ」
「俺の記憶でも同じだ。だが――」
武は、先ほどリーが強襲した箇所へと視線を走らせる。
光の槍『ブリューナク』。太陽神の来光を宿すその一撃は、斬撃と同時に凄まじい熱量を放っていたはずだ。にもかかわらず、切断された断面からは悍ましい肉芽が吹き出し、新たな首が狂ったように生え揃っている。
(なぜだ……? あの熱量をもってしても、再生を防げないのか?)
神話の理と目の前の現実との決定的なズレに、二人の思考がほんの一瞬だけ鈍った。
戦場において、その一瞬の空白はあまりにも致命的だった。
「武! 村正ァッ!!」
ヘレウクレスの血を吐くような絶叫が響いた瞬間、頭上を覆い尽くすほどの巨大な影が二人を飲み込んだ。
ヒドラーの三つの首が同時に鎌首をもたげ、その顎からドス黒い『猛毒の霧』を津波のように吐き出したのだ。
「まずいッ!」
武が咄嗟に盾を天へ掲げる。
「しまっ――!」
村正も刀を構えようとするが、間に合わない。
肺を内側から溶かし、骨髄まで腐らせる死の酸性雲が、逃げ場のない甲板上の二人へと無慈悲に降り注ごうとした、その刹那。
「――天より授かるは十種の宝、我が倉棚に顕現せん」
騒乱の戦場にあって、一切の焦りを帯びない、ひどく澄み切った声が鼓膜を打った。
それは神代より紡がれる、穢れを祓う絶対の『言霊』。
「沖津鏡、邊津鏡、生玉、足玉、死反玉、道返玉、蛇比禮、蜂比禮、品物比禮――……」
船の最後尾。静かに両手を組んだニギハヤヒの全身から、星屑を凝縮したかのような眩い白光が立ち上る。
「――布留部、由良由良……八握劔」
ニギハヤヒの白く細い指先が、虚空を撫でるように滑る。
その瞬間、彼の背後に十の神宝の幻影が円環を描いて顕現し、圧倒的な浄化の光を放ち始めた。
「死すらも還すは、我が御業……」
【――死返十種・布留御魂(まかるかえし、とくさ・ふるのみたま)――】
直後、弾け飛んだ神々しい光の波動が、津波のように押し寄せていた猛毒の霧と激突した。
『ジュワァァァァッ!』という悍ましい蒸発音と共に、触れる者すべてを溶かすはずの致死の瘴気が、光に撫でられた端から清浄な大気へと還っていく。
『……なに?』
己が最大の武器を掻き消されたヒドラーの十八の眼球が、驚愕に見開かれた。
「霧が……」
毒で爛れた腕を庇いながら、ヘレウクレスが呆然と呟く。
「晴れていく……!」
死の淵から引き戻された武と村正は、盾の隙間から、毒雲が完全に払拭され、元の満天の星空が顔を覗かせる様をただ見上げることしかできなかった。
圧倒的な浄化の嵐の中心で、白装束を夜風に翻しながら、ニギハヤヒはゆっくりと目を開いた。
その瞳には、慈愛の底に冷たく燃える、神としての絶対的な威風が宿っていた。
「私が……何の意味もなく、ただの『運び役』に回ったとお思いですか?」




