第一部第一章第十一幕 ヒドラーの末路、告げられし真実
涼やかな、しかし死の領域を支配する巨獣すらも怯ませるほどの静かなる覇気。
聖都を統べる指導者の真の力が、ついに深淵の闇夜に解き放たれた。
「私が……何の意味もなく、ただの『運び役』に回ったとお思いですか?」
絶対的な死の気配を空間ごと塗り替える、あまりにも神々しい後光。
その圧倒的な光の渦の中心で、静かに、しかし確かな威厳を湛えて微笑む聖都の指導者。その姿を仰ぎ見た武は、呪縛から解き放たれたように叫んだ。
「ニギハヤヒ!」
「勘違いしないでください」
武の弾かれたような声に、ニギハヤヒは少しだけ苦しげに秀麗な眉をひそめ、己の周囲に展開した十種の神宝の輝きをさらに一段階、強く引き上げた。
ジリッ、チリチリチリッ……!
結界の外側で、世界を腐らせる猛毒の瘴気が清浄なる光に焼かれ、まるで断末魔のような嫌な音を立てて次々と消滅していく。彼が命を削って放つその光は、広大な甲板全体をすっぽりと包み込む不可視の防壁となり、九頭蛇の理不尽な呪いから勇士たちを完全に隔離していた。
「今の私に出来るのは、この厄介極まりない毒霧を相殺し、皆さんの命をギリギリの『死の淵』から繋ぎ止めることだけ。あの巨体を根源から討ち滅ぼすような、強力な決定打は持ち合わせていません」
ニギハヤヒは己の神気を極限まで練り上げながら、前線で立ち尽くす少年たちへと鋭く、熱を帯びた視線を送った。
「ですから……私の力が尽きぬ内に、動ける内に! あの忌まわしき不死の首を断ち切る『攻略法』を考え抜きなさい!」
戦場という巨大な盤面における、極限の役割分担。
最高位の神が自らを「盾」とし、頭脳と戦術の構築を、外の世界から来た若き二人に完全に託したのだ。
「とは言ってもな……ッ!」
村正が周囲の絶望的な光景を見渡し、ギリッと奥歯を強く噛み締める。
毒の脅威が薄れたとはいえ、眼前にそびえ立つのは神話の時代から生きる正真正銘の怪物だ。視界のすべてを覆い尽くすほどの規格外の質量を持った無数の首が、彼らを跡形もなく食い殺そうと、四方八方から雪崩のように押し寄せてきている。
「この息もつけない猛攻のど真ん中で、ゆっくり頭回して攻略法なんか練ってる余裕は――」
村正の悲痛な叫びを物理的に掻き消すように、一際巨大な蛇の顎が、彼らごと船を丸呑みにしようと急降下してきた。
万事休すかと思われた、その刹那。
「――安心しろ、武! 村正!」
鼓膜をビリビリと揺らす豪快な咆哮と共に、少年たちの頭上を、巨大な岩山のような影が跳躍した。
大英雄、ヘレウクレスだ。
彼は自らの何十倍もあるヒドラーの巨大な牙を、あろうことか『素手』で両側からガシィィィッ!と真正面から受け止めた。丸太のような剛腕の筋肉が爆発的に膨張し、血管がはち切れんばかりに隆起する。
「ギ、チ、チチチチィッ……!!」
ギリシャ最強の膂力と、神話の巨獣の顎の力が正面から激突し、凄まじい衝撃波が円状に甲板を吹き荒れる。大英雄は足場を深く沈み込ませながらも一歩も退かず、獰猛な獣のような笑みを浮かべてその巨体を押し留めていた。
「忌々しい毒さえなければ、この程度の図体、恐れるに足らない! お前たちの思考の邪魔はさせないさ!」
そして、力と力が膠着するヘレウクレスの広い背中を飛び越え、もう一人の英雄が一筋の閃光となって虚空を駆け抜けた。
「お前たちはただ、活路を導き出すことにのみ専念しろ」
「お前たちは、俺たちの知らないなにか知っているんだろ」
背負った凶星の槍ブリューナクの気配を完全に沈黙させ、腰の直剣だけを抜いたリーが、極寒の殺気を撒き散らしながら、蠢くヒドラーの群れへと単騎で躍り出る。
「あの化け物の相手は――俺たちが、すべて引き受ける!!」
リーの振るう冴え渡る剣閃が、目にも留まらぬ神速の防壁となって、迫り来る別の首の軌道を次々と弾き返し、切り刻んでいく。
すべてを撥ね退ける、剛なる壁のヘレウクレス。
すべてを切り伏せる、鋭き刃のリー。
二人の英傑が、少年たちの思考を守るための絶対の城塞として立ち塞がった。
『――させると思うか? 矮小なる雑兵どもがァァァーーッ!!!』
怒り狂ったヒドラーの十八の眼球が、一斉に赤黒く血走る。
前線では、大英雄の豪腕が飛来する顎を砕き割り、万能の勇士の刃が次々と首を宙に舞わせていた。しかし、切り落とされる端から倍加して増殖を繰り返す蛇の群れは、ついに二人の英傑が張った強固な防衛網の『僅かな綻び』を突き破った。
「シャァァァァァァッ!!」
死角から滑り込んできた凶悪な一振りの首が、思考に沈み無防備となっていた村正へと狙いを定める。
大樹ほどの太さを持つ首が、限界まで引き絞られた弓のように弾け、一撃必殺の速度で巨大な毒牙を剥き出しにして急降下してきた。
「逃げろッ!」
ヘレウクレスの焦燥に満ちた叫びが響く。
しかし、その絶望の牙が異界の刀鍛冶の身体を穿つよりも早く。
「――っ!」
短い呼気と共に、村正の眼前に分厚い鋼の壁が割り込んだ。
武だ。
ズガァァァァンッ!!!
落雷が至近距離で弾けたかのような凄まじい轟音が、天磐舟の甲板を揺るがした。
武の掲げた強牢な盾が、村正を丸呑みにしようとしたヒドラーの巨大な顎を、真正面から完璧に受け止めていたのだ。
途方もない運動エネルギーの衝突により、硬質な鱗と盾の接点からオレンジ色の火花が爆ぜ飛ぶ。武の足元の分厚い木材が悲鳴を上げて粉々に砕け散り、彼の身体は後方へ数メートル、ズザザザッと乱暴に押し込まれた。
「ぐ、ぅぅぅ……ッ!」
両腕の骨が軋み、内臓が丸ごと揺さぶられるような激痛。
並の人間であれば、衝撃だけで全身の骨が砕け散っているだろう。それでも、武は決して膝を屈しなかった。左腕に全神経を集中させ、岩のように重心を落として盾を支え続ける。
「武……ッ!」
背後で、ハッと我に返った村正が息を呑む気配がした。
「気にするな……! お前は、お前の仕事をしろッ!」
巨大な牙を盾で押し返し、ギリギリと奥歯を噛み砕かんばかりに食いしばりながら、武は背後の相棒へ向けて叫んだ。
「俺は盾だ! お前を……俺たちの『刃』を決して折らせやしない! だからお前は、この理不尽をぶち破る活路を見つけ出せ、村正ァッ!!」
血を吐くような武の叫び。
それは、自らの身を削って時間を稼ぐ英傑たちと、命を懸けて自分を庇う相棒からの、絶対的な信頼の証だった。
その言葉は、村正の脳内に渦巻いていた焦燥と混乱を、冷水を浴びせたように一瞬でかき消した。
燃やしても死なない。再生速度が異常に早い。ならば、どうするか。神話の法則が通じない相手に、刀鍛冶の自分ができることは何か。
(……理屈じゃない。アイツは今、神の作った『不死身のルール』で動いてる。――)
異常なまでの再生速度。斬られた直後から肉芽が膨れ上がり、細胞を再構築していく悍ましい光景。
リーの槍は、斬撃の『後』から対象を焼き尽くす。
(斬った後に焼き尽くす?)
「……そうか」
村正の目が、鋭い刃のような光を取り戻す。
彼はゆっくりと息を吐き出しながら、刀を手放した。
「……武。お前のおかげで、完璧に目が覚めたぜ」
村正の全身から、それまでの迷いを完全に断ち切ったような、静かで、しかし途方もない熱を帯びた闘気が陽炎のように立ち上り始める。
盾に守られた記憶を辿りし刀鍛冶が、神話の法則を叩き斬るための『答え』に、ついに手をかけた瞬間だった。
「グゥォォォォォォォォォォッ!!!」
突如、村正の口から獣のような咆哮が轟いた。
同時に、彼が両手で固く握り締めた刀の柄から、尋常ではない超高熱の陽炎が噴き上がった。刀身が内側から赤黒く発光し始め、周囲の大気がジリジリと悲鳴を上げて歪む。
「村正ッ!?」
盾を構えながら、武が驚愕に目を見開く。
「馬鹿な、何をしている! そのような熱された剣を素手で握り続ければ――ッ!」
前線で巨獣と力比べをしていたヘレウクレスが、村正の両手から立ち上る凄まじい熱量に気づき、血相を変えて怒鳴った。
彼には分かっていた。異界の刀鍛冶が今、己の武器にどれほどの無茶な熱を注ぎ込んでいるかが。
「分かったんだよ……ッ!」
村正は、己の手のひらを焼く激痛に顔を歪めながらも、獰猛な笑みを浮かべて叫んだ。
「奴の弱点が『切断面を火で焼かれること』なのは神話の通りだ! だが、さっきは再生を許しちまった!」
そう奴が再生した理由それは――炎が細胞を完全に炭化させるよりも早く、ヒドラーの異常な再生能力が上回ってしまっている。言うなれば、表面だけが焼けた『生焼け』の状態。
完全に焼ける前に、再生してしまう。
だったら、答えは一つしかない。
「だったら――!」
村正は、マグマのようにドロドロに輝き始めた刀を、上段へと力強く構え直した。
「初めから『焼け焦げた刀身』で斬り落とせばいいだけのこと!!」
「「「……!!」」」
その狂気的とも言える破天荒な解答に、武も、ヘレウクレスも、そして虚空を舞うリーすらも、一瞬だけ息を呑んだ。
斬ると同時に、超高熱で細胞の断面を『直接』焼き潰す。
理にかなっている。だが、それは使用者自身の肉体を完全に度外視した、まさに捨て身の策だった。
(刀を赫く染め上げる温度は、最低でも800度以上……!)
村正は、柄を握る両手から伝わる絶死の熱量に奥歯を噛み砕かんばかりに食いしばった。
本来であれば、こんなものを素手で握れば一瞬で皮膚の水分が蒸発し、肉は焼け落ち、神経は炭化する。熱で溶けた皮膚が柄と完全に癒着し、二度と手が離れなくなるかもしれない。いや、それ以上の致命的な損傷を両腕に負うことは確実だ。
肉の焼ける悍ましい匂いが、彼自身の手のひらから立ち上り始めている。
痛い。熱い。骨の髄まで焼き尽くされそうな激痛が、脳髄をガンガンと殴りつけてくる。
(だが――!)
村正の背後には、絶対的な光の円環が輝いている。
ニギハヤヒが展開した『死返の十種』。死の淵から命を繋ぎ止める、神の浄化と治癒の祈りが、常に村正の全身を包み込んでいるのだ。
(今の俺には、ニギハヤヒの祈りがある! この治癒の光が肉体を再生させ続けている間なら……細胞が完全に炭化する前なら! ある程度はこの灼熱の痛みに耐えられるはずだ……!!)
「おおおおおおおおおおっ!!」
村正の咆哮と共に、刀身はついに赤を通り越し、白く輝くほどの極地へと達した。
自らの腕を焼き焦がしながら作り上げた、神話の法則すらも両断する『奇跡の鉄』。
「退けェッ!! 武!」
村正の叫びに呼応し、武が限界まで盾を押し込み、瞬時に身を翻して射線を空けた。
眼前に迫る、ヒドラーの巨大な毒牙。
村正は、自身の両手を代償にして鍛え上げた白熱の刃を、大上段から迷いなく振り下ろした。
ズバァァァァァァァァァッ!!!
白熱の太陽をそのまま刃に宿したかのような、圧倒的な閃光の軌跡。
超高熱を帯びた『奇跡の鉄』がヒドラーの強固な鱗に触れた瞬間――天磐舟の甲板上に、耳を劈くような凄まじい水蒸気爆発の音が轟いた。
「ジュォォォォォォバァァァッ!!」
それは決して「斬撃」などという生易しいものではなかった。文字通りの『溶断』である。
巨大な毒牙ごと、村正の刀は神話の巨獣の太い首を、まるで飴細工のように容易く焼き切っていく。刃が肉を裂くと同時に細胞が瞬時に沸騰し、体液が爆発的に蒸発。骨髄までもが内部から真っ黒に炭化していく悍ましい音が、星の海に響き渡った。
『ギ、ギィィィィィギャアアアアアアアッ!?!?』
十八の黄金の眼球が、これまで経験したことのない驚愕と激痛に見開かれ、鼓膜を破らんばかりの絶叫が夜空を震わせた。
ドスンッ!! と、切り離された巨大な頭部が重々しい音を立てて甲板に転がる。
そして、勇士たちの視線は、本体側に残された『切断面』へと一斉に注がれた。
ズズッ……ボコッ……。
斬られた直後、ヒドラーの驚異的な生存本能が働き、焼け焦げた断面から赤黒い肉芽が飛び出そうと悍ましく蠢く。しかし――。
プシュゥゥゥ……ッ。
炭化した細胞からは、すでに命の源となる水分も血も完全に失われていた。
膨れ上がろうとした肉芽は、行き場を失った風船のように力なくしぼみ、二度と新たな首を形成することなく、ただの黒焦げた肉塊として完全に沈黙した。
「やった……再生が止まったぞ!」
盾の陰からその光景を食い入るように見届けていた武が、声を張り上げる。
「ハァッ……ハァッ……ハァッ……!」
当の村正は荒い息を吐きながら、まだ太陽のような超高熱を発し続ける刀の柄を固く握り締めていた。
両手からはジュウジュウと自身の肉が焦げる音が響き、その顔は激痛で酷く歪みきっている。だが、背後からニギハヤヒの放つ『死返の十種』の柔らかな光が、焼けた端から彼の皮膚と神経を強引に再生させ、両腕が灰と化す致命傷だけをどうにか防ぎ続けていた。
「言ったろ……ッ」
村正は、両腕の痛みに耐えかねてガクガクと膝を震わせながらも、ヒドラーの巨体を見上げて不敵に笑い飛ばした。
『バ、馬鹿ナ……我ガ不死ノ呪イガ……タカガ人間ノ小手先ノ業デ……ッ!?』
一本の首を完全に失ったヒドラーの巨体が、信じられないものを見るように大きく後ずさる。
自らを絶対の捕食者と信じて疑わなかった神話の怪物の心に、初めて明確な『恐怖』と『焦燥』という感情が生まれた瞬間だった。
「小手先の業だと? 笑わせるな」
その致命的な隙を見逃す英傑たちではない。
極寒の殺気を纏ったリーが、氷のように冷徹な声と共に虚空を蹴った。
「彼らが自らの命を懸けて導き出した一撃だ。……これで攻略の糸口は掴んだ。あとは、俺が槍を放つだけだ」
リーは背中に封印していた凶星の槍『ブリューナク』の柄を再び握り直すと、その神造兵装の性質を瞬時に切り替えた。遅効性の炎ではなく、己の魔力を極限まで圧縮し、『対象を穿つと同時に爆炎を放つ』苛烈な術式への強制変更。
穂先が、すべてを消し炭にする白銀の光を帯びて膨張する。
「おっと、無様に抗おうとて無駄だぞ」
逃れようともがく巨大な蛇の群れを見下ろし、リーは絶対の死刑宣告を突きつけた。
「この槍は――一度でも放てば、お前が死ぬまで永久に追い続け、必ずその命を穿つ」
絶望に満ちた黄金の瞳と、氷の剣士の眼光が交錯する。
「ここらで眠ることをしれ、ドブ蛇」
『ば、馬鹿な……私が死ぬ? このような矮小な人間どもに……こんな奴らにィィィッ!?』
かつて世界を絶望に陥れた不死身の怪物。その最期の思考を塗りつぶしたのは、かつてない死の恐怖と、どう足掻いても覆せない確実な『滅び』への絶望だった。
「貫け――【轟炎の星槍】」
氷の剣士の唇から零れ落ちた冷徹な宣告と共に、白銀の流星が神話の夜空へと解き放たれた。
リーの手を離れた凶星の槍は、空間そのものを削り取るような甲高い飛翔音を響かせ、一直線に巨大な九頭蛇の心臓部――すべての首が交わる胴体の中心へと殺到する。
『オォォォォォォォォォォッ!!』
明確な死の恐怖に直面したヒドラーは、残された十一の首を狂ったように振り乱した。
ありとあらゆる方向から放たれる濃密な毒のブレスの豪雨。さらには、自らの首を肉の盾にしてでもその閃光を止めようと、何重にも重なり合って巨大な防壁を形成する。
だが、絶対命中の呪いと、極限まで圧縮された魔力を宿す神造兵装の前に、そのような泥縄の抵抗はあまりにも無力だった。
ズドドドドドドォォォォォンッ!!!
槍が肉の壁に触れた瞬間、遅効性ではない、『着弾と同時の超絶爆発』が夜空を白一色に染め上げた。
鼓膜が破れるかと思うほどの轟音と共に、太陽が地上に墜落したかのような圧倒的な熱量と光の奔流が、ヒドラーの巨体を内側から貪り食う。毒のブレスは一瞬で蒸発し、分厚い鱗はひび割れ、強靭な肉体はロウソクのようにドロドロに溶け落ちていく。
『ギャ、アアアアァァァァァァァ……ッ!!』
異常な再生能力など、間に合うはずもなかった。
細胞が肉芽を形成しようとするよりも早く、神槍の爆炎がそのすべてを根こそぎ炭化させ、灰へと変えていく。やがて光の嵐が収まった時、甲板を覆い尽くしていた巨大な怪物の姿は完全に消え去り、後には黒焦げた巨大なクレーターと、その中心で禍々しい紫色の光を放つ**『猛毒の結晶』**だけが残されていた。
「……終わった、か」
村正が刀から手を放し、ドサリと甲板に座り込む。
神話の恐怖を打ち倒した証。ヒドラーの猛毒が凝縮されたその結晶は、武具に塗ればいかなる神をも殺し得る、最悪にして最強のアイテムだった。
ヘレウクレスがゆっくりと歩み寄り、その毒の結晶を見下ろした、その時だった。
『ケ……ケ、ケケケ……ッ!』
炭化した肉塊の残骸――焼け焦げて半分だけになったヒドラーの頭部が、しぶとく黄金の眼球を動かし、悍ましい嘲笑を漏らしたのだ。
『我が毒の結晶……それを貴様らが得るとはな……。傑作だ、ヘレウクレスよ』
「……何が言いたい」
大英雄の顔から表情が消え、凄まじい低圧の殺気が漏れ出す。
『忘れたとは言わせんぞ。かつて、貴様が師と仰いだあの半人半馬の賢者も……以前この地に足を踏み入れ、我が毒に侵されて惨たらしく死んでいったわ! 敬愛する身内を殺した毒を、今度は己の力として縋ろうとは……なんと滑稽で、惨めなことよ!』
その言葉に、武と村正が息を呑んだ。
神話において、ヘレウクレスの放ったヒドラーの毒矢が誤って師匠のケイロンに命中し、彼を死に追いやったという悲劇の伝承。この歪んだ世界では、師匠自らがこの地に挑み、毒にやられて命を落としていたというのか。
ヘレウクレスの巨体が、怒りか悲しみか、微かにワナワナと震え始める。
『それに、貴様らは根本的な勘違いをしている!』
ヒドラーの残骸は、勝利を確信したような狂気的な笑声を上げた。
『我のこの異常な不死性が、なぜここまで強化されていたか! ……それは我が主、偉大なる邪神テポーン様が、この世界の理を書き換える【勝利の果実】を食したからだ! 我もまた、その権能の恩恵を一部引き継いでいたに過ぎん!』
「勝利の……果実……?」
リーの顔が険しく歪む。
『そうだ! テポーン様はすでに【絶対の勝利】を運命づけられた存在! 貴様らがどれほど足掻こうと、どれほどの奇跡を起こそうと、絶対に届かぬ! もう貴様らに勝利は――』
神話の怪物が最後の呪詛を吐き切ろうとした、その刹那。
ドガァァァァァァンッ!!!
天磐舟そのものを沈めかねないほどの凄まじい踏みつけが、ヒドラーの残骸を塵一つ残さず粉砕した。
肉も、骨も、嘲笑う声も、すべてが岩山のような大英雄のブーツの底で、跡形もなくすり潰される。
「……もういい。貴様はもう、しゃべるな」
静寂を取り戻した甲板に、ヘレウクレスのひどく低く、押し殺したような声が響いた。
普段の豪快で暑苦しい大英雄の姿はそこにはない。足元の灰を見下ろす彼の瞳には、かつての恩師を喪った消えることのない悲痛と、それを侮辱されたことへの底知れぬ静かな激怒が渦巻いていた。
「これ以上……俺の師匠を、俺の仲間を、その汚い口で馬鹿にするな……ッ」
ギリギリと拳を握り締め、背中を丸めて震える大英雄。
神話の怪物を完全に討ち果たしたというのに、勇士たちの間に歓喜はなかった。邪神が手にした『勝利の果実』という絶対的な絶望の事実と、犠牲の上に成り立つ戦いの重さが、彼らの肩に重く、冷たくのしかかっていた。
ヒドラーの炭化した残骸が、生暖かい夜風に吹かれて甲板から散っていく。
その光景を見つめながら、村正は焦燥に顔を歪め、乾いた唇からポツリと呟きを漏らした。
「なぁ、これって……」
「ああ。考え得る限り、最悪の盤面だ」
武もまた、額に滲み出た冷や汗を拭おうともせず、重々しく首を縦に振った。
「おい、大英雄」
息詰まるような静寂の中、リーの氷のように冷たい声が響いた。彼は手にした凶星の槍の熱を払い、背へと納めながら、うつむくヘレウクレスへと鋭い視線を突き刺す。
「奴が散り際に口にした『勝利の果実』とは何だ。かつてオリンポスの麓で生きたお前なら、知っているのだろう」
リーの問いかけに、ヘレウクレスはギリッと重い奥歯を鳴らし、血の滲むような声で絞り出した。
「【勝利の果実】……それは、今は亡き運命の三女神が管理し、オリュンポスの奥深くに隠されていたとされる禁断の秘宝だ。……それを口にした者は、いかなる願いや希望であろうと確実に成就させることができる。そして――その果実によって確定した『勝利の結果』は、決して覆すことができない」
「なるほど」
リーは表情一つ変えずに、冷徹な分析を口にする。
「それはつまり、破滅の予言を退ける力を持つ英雄であろうと……理屈や法則を越えて、強制的に敗北を決定づけられるということか?」
「ああ。もし奴が完全にその力を取り込んでいるのなら、まともな勝機はない。だが、奴の力に相反する概念を持つ【無常の果実】を食わせることさえできれば、あるいは――」
ヘレウクレスが、暗闇の中に垂らされた微かな希望の糸を手繰り寄せようとした、まさにその言葉を遮るように。
『――そこまでして、この矮小なる文明を存続させたがるとは』
突如、空間の温度が絶対零度まで凍りついた。
鼓膜を通さず、脳髄を直接氷の手で鷲掴みにされるような、底知れぬ重圧を伴う声。天磐舟の周囲を覆っていた分厚い暗雲が、まるで絶対者の御前にひれ伏すかのように、音もなく左右に割れていく。
『哀れ、実に哀れなことだ……。だが、悲しむことはない』
上空の深淵から、万物を睥睨するような冒涜的な気配が、黒い泥のように膨れ上がる。
『皆、等しく我が腹に下るだけのこと。光栄に思うがいい。貴様らのような塵芥が、我が血肉となり、主たる父と共に永遠の眠りにつけることを!』
次の瞬間。
夜空が、純白に爆発した。
バリバリバリバァァァァァァンッ!!!
一切の前触れも、大気の震えすらなかった。
天頂から何十本もの巨大な落雷が、狂ったような密度と暴力的な速度で、勇士たちが立つ甲板へと一斉に降り注いだのだ。
「「「「……ッ!!」」」」
「散れッ!」
武の裂帛の気合いと同時、四人の勇士たちは本能のままに四方へと跳躍する。
彼らがほんの瞬き一つ前まで立っていた硬質な甲板が、凄まじい雷撃の熱量によって飴細工のようにドロドロに溶け落ち、焦げ臭いオゾンの匂いと黒煙が天高く立ち上った。
「いきなり奴さん登場ってか……!」
甲板を転がるように受け身を取った村正が、チッと舌打ちをして刀を正眼に構え直す。
割れた暗雲の奥、閃光の名残が燻る虚空から、一つの影がゆっくりと降下してくる。
かつて世界を滅亡の冬へと叩き落とし、あまねく神々を貪り喰らった元凶。絶対の勝利を運命づけられた邪神――テポーン。
その瞳は、泥の中を這い回る虫けらを見下ろすような、冷酷で底知れぬ愉悦に満ちていた。
『我が忠実なる配下の気配が消えたかと、少しばかり様子を見に来てみた次第だ。……この城の主として、何かおかしなことかね?』




