第一部第一章第十九幕 逸話を鍵に、月を背にして
「椿ッ!!」
耳をつんざくような、切羽詰まった声。
ハッと息を呑み、椿がゆっくりと鉛のように重い目蓋を開けると、視界の焦点を埋め尽くすように、必死の形相で彼女の肩を揺さぶる村正の顔があった。
「……村正……さん?」
ぼんやりと瞬きを繰り返す椿。彼女の意識は、温かく泥臭い室町の陽だまりから、絶対零度の月光が支配する月読宮へと急激に引き戻されていた。
「ああ、よかった……! お前、大丈夫だったか!?」
村正は安堵のあまり、ガクンと膝の力を抜いた。強敵を前にしても決して怯むことのない彼の声が、今は隠しきれないほどに震えている。
「えっと……わたしは……」
「何度も声をかけたんだが、数十秒の間、お前は全く反応がなかったんだ。……まるで、魂そのものが別の場所に飛んでしまったかのように、な」
傍らに立つ武が、いつもの冷静な声色の中に微かな安堵の息を交えながら、状況を簡潔に説明した。
「そ……そうだったんですね……」
「『そうだったんですね』、じゃないわよ!」
ロッキルが亜麻色の尻尾をバシンと振り回し、ニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべて村正を小突いた。
「こいつなんて、すっごかったんだからね? アンタの意識が飛んでから、一番心配そうにずーっと名前を呼んで、顔面蒼白になってたんだから!」
「そ、そりゃあ心配するだろ……!突然事切れたみたいに反応しなくなったんだから!」
村正が顔をカッと赤くして反論するが、ロッキルの追撃は止まらない。
「そう~? 根暗姫が『魂に異常はありません』って冷静に診断を下した後でも、まだ必死に肩揺さぶって声かけ続けてたじゃん。『おい椿! 頼むから目を開けてくれ!』って」
「おい、ロッキル……! お前、そいつは――」
図星を突かれた村正が、照れ隠しに声を荒らげようとした、その時だった。
「村正さん」
「ん?」
凛とした、けれどどこまでも柔らかく優しい声が、村正を呼んだ。
椿は、先ほどの記憶の中で見た『彼』の不器用で真っ直ぐな姿と、目の前で本気で自分を心配し、照れて顔を赤くしている『彼』の姿を重ね合わせていた。
自分のような空っぽで、穢れた存在だと思い込んでいた少女を、こんなにも大切に想い、必死に手を伸ばしてくれる人がいる。その紛れもない事実が、長く凍てついていた彼女の心を、芯から溶かしていく。
「………ありがとうございます」
それは、かつて他者を拒絶するために棘を纏っていた彼女からは想像もつかないほど――春の雪解けに咲く花のように、一切の陰りのない、美しく無防備な微笑みだった。
「お、あ、ああ……」
そのあまりにも真っ直ぐな感謝と笑顔を正面から浴びて、村正は完全に言葉を失い、視線を泳がせてらしくなくどもってしまった。
「ふふーん」
その初々しいやり取りを見ていたロッキルが、尻尾をピンと立てて面白そうに目を細める。
「こりゃあ、完全に脈アリかな~?」
「ロッキルさん?」
背後から、ミクトルが氷のように冷たく、しかし慈愛に満ちた(そして明確な圧のある)笑みを浮かべて口を開いた。
「……揶揄うのは、それぐらいにしておいた方がいいと思いますよ。ここは神聖な御前ですし、何より村正さんが限界のようですから」
「あ、はい……」
流石のロッキルも、魂を司るミクトルの静かな圧には逆らえず、シュンと獣耳を伏せた。
「あ?」
その時、真っ赤になった顔を持て余していた村正が、足元に奇妙な感触を覚えた。
「クークー」
足元を見下ろすと、いつの間にか、椿の足元に落ちた青白い月光の溜まりから、雪のように真っ白な毛並みを持った一羽のウサギ――ミユが、村正の足にすりすりと愛らしく顔を擦り付けていたのだ。その小さな頭には、椿の花の飾りが揺れている。
「ウサギ……?」
村正は目を丸くし、足元の人懐っこい毛玉を不思議そうに見下ろした。
「こんな人懐っこいウサギ、さっきまでこの部屋にいたっけ……?」
「ミユ……さん」
椿がしゃがみ込み、足元にすり寄る白ウサギの柔らかな背をそっと撫でながら呟いた。
「椿、その奇妙な生物について何か知っているのか?」
武が、盾を構える手を少し緩めながら、訝しげにウサギを見下ろす。
「えっと……その……」
「とても可愛らしいですね。……先ほどの供物に対する、ツクヨミ様からの賜り物でしょうか?」
ミクトルがふわりと微笑み、興味深そうに目を細めた。
「……わたしにも、詳しいことはよく分からなくて。でも……この子が、私たちを助けてくれる…………らしい、です」
椿はミユを胸元に抱き上げながら、戸惑いがちに答えた。
その様子をじっと眺めていた村正が、不意に口を開く。
「なんか……お前、椿と似てるな」
「そう? ウサギと人間じゃん」
ロッキルが首を傾げるが、村正は直感的に感じ取ったものを言葉にする。
「いや、顔がどうこうってわけじゃねぇ。纏ってる空気というか、雰囲気が……なんか、そんな気がするんだ。……まぁいい」
村正は表情を引き締め、腰の刀の柄をポンと叩いた。
「そうと決まれば、モタモタしてる暇はねぇ。時間遡行の足掛かりができたなら、あの邪神をぶっ倒しに行くとするか!」
その意気込みに呼応するように、椿の腕の中にいるミユが、小さく鼻を鳴らした。
『クー、クー……』
(おもいで、いつわ、かたって、さかのぼる……)
「えっと……」
椿は、ミユから直接流れ込んでくる無垢な意志を反芻し、皆へと伝える。
「その時代についての『お話』や『逸話』を聞かせれば……その記憶を道標にして、時を遡れる……と、彼女は言っています」
「はぁ!? アンタ、神様どころかウサギの言ってる意味まで分かるの!?」
ロッキルが呆れたように尻尾を逆立てる。
「え、は、はい……」
「なるほど」
武が顎に手を当て、即座にその理屈を看破した。
「逸話を聞かせる……つまり、漠然と『過去へ行け』と念じるだけでは駄目で、明確な目的地となる時代についての『知識』や『歴史』を鍵として提示しなければ、そこへは移動できないということか」
「時間がない。逸話や歴史の知識については、俺と武先生の二人でなんとかする。後はこいつに聴き取らせるだけだ」
村正は素早く役割を振り分けた。
「よし、これで条件は揃った。後は、一刻も早くこの神域から抜けるだけだ!」
「………結局、私はただの運び屋ってわけね。はいはい、美脚を飛ばして走りますよーだ」
ロッキルがやれやれと肩をすくめ、準備運動のように足首を回す。
皆が神殿の出口へと歩き出そうとする中――。
椿だけが、ピタリとその場に立ち止まっていた。
彼女の視線は、背後の広大な祭壇……すでに青白い威光を収め、微睡に落ちようとしている光の球体へと向けられていた。
「ツクヨミさま……。眠って、しまったんですか?」
椿が心の中でそっと語りかけると、静寂の底から、深く、どこまでも穏やかな波長が返ってきた。
**『――■■■■■■■■』**
言葉にはならない、けれど確かな『肯定』と、永遠にも似た安堵の吐息。
それを感じ取った椿の瞳に、ふと、自身の過去の記憶――暗く、冷たく、誰にも頼れずに感情を殺すしかなかったあの絶望の日々が重なった。
「……今まで、ずっと一人で耐えてきたんですね……」
椿の口から、無意識のうちに、ぽつりと掠れた声が漏れる。
あの長く凍てついた孤独を知っているからこそ、彼女は祭壇から目を離すことができなかった
光の届かない世界で、ただ独りで世界を支え続けてきた神。
その孤独の重さに当てられ、椿の心は再び、分厚い氷の底へと沈みかけようとしていた。辛い現実から身を守るため、すべてを諦め、感情に蓋をしようとする、彼女の古傷のような防衛本能。
だが、その暗闇の底へ、一切の遠慮のない声が踏み込んできた。
「おい、椿!」
「ッ……!」
弾かれたように顔を上げると、少し先を歩いていたはずの村正が立ち止まり、振り返って彼女を真っ直ぐに見据えていた。
「…………」
「何、そんな暗ぇ顔して立ち止まってるんだ?」
村正の言葉には、哀れみや過剰な同情はない。ただ、そこにあるのが当たり前だというように、力強く、不器用な温かさだけが宿っていた。
「ほら、さっさと行くぞ。……一緒に」
『一緒に』。
そのたった一言が、椿の心を覆いかけようとしていた氷を、あっさりと粉砕した。
そうだ。もう、自分は一人で理不尽に耐え、感情を殺す必要はないのだ。前を歩き、振り返って手を引いてくれる、この『熱』がある限り。
椿の瞳から暗い影がスッと消え去り、かつてないほどに確かな光が灯る。
「は、はい……!」
椿がミユを抱き直し、村正たちの元へと力強く駆け出した、その刹那。
彼女の脳裏に、月読宮の主からの、最後の、そして最も神聖な言霊が響き渡った。
**『――■■の依代よ』**
それは、予言に縛られた神が贈る、静かなる祝福。
**『暗闇の中にも、光はある。……その光が新たな道を切り拓き、お前の手を引くというのなら。これより先は、恐れることなく、その温もりをこの手に納めるがいい』**
椿は振り返らなかった。
ただ、胸の中で小さく「ありがとうございます」とだけ念じ、自分を待ってくれている不器用で温かい光の元へと、迷いなくその歩みを進めていった。




