第一部第一章第十八幕 月光の記憶、巡りゆく魂の軌跡
「なぜ……。なぜ、お前がそこにいる……?」
椿の震える声が、絶対零度の静寂に吸い込まれた直後だった。
青白く脈打っていた光の球体が、まるで静かな水面に一滴のインクを落としたかのように激しく揺らぎ、その形を歪め始めた。
暴発するかに見えた絶対零度の光が一点へと収束していく。やがて眩い閃光の中から現れたのは――星の瞬きを紡いだかのような長い銀髪を引いた、氷のように冷たく、そして息を呑むほどに美しい中性的な神の姿であった。
月読命。
顕現した神の双眸は、ただ一人、村正の背中に隠れる椿だけを真っ直ぐに射貫いていた。
『――■■■■■■■■』
神の唇が微かに動く。それに呼応するように、椿が胸をきつく押さえながら、恐れと戸惑いに震える声で言葉を紡いだ。
「『なぜだ……。なぜ、お前が……無知で愚鈍な闇の勇士などの元にいる……』」
「『なぜお前が……あの忌まわしき滅びの予言に従っているのだ……』」
ツクヨミの波長には、明らかな困惑と、彼ら『勇士』に対する根深い嫌悪が混じっていた。
「『勇士とは、穢れし予言に従い……余や同胞の解放を謳いながら、その実、神の座を奪い去った賊に他ならない……』」
「『いや、それ以前に。お前が今、ここに存在していること自体が――』」
ツクヨミは言葉を切ると、その完璧な貌に、途方もない年月を遡るような深い感慨を浮かべた。
『――■■■■■■』
「『……そうか。“お前たち”は、帰ってきたのか……』」
「『悠久の時を経て……ようやく。あの時に蒔かれた種は、死に絶えてはいなかったか……』」
「どういうことだ……?」
村正は眉をひそめ、背後の椿を庇うように立ち塞がりながら、頭上の月神に向かって鋭く吼えた。椿自身もまた、神の口にする『お前たち』という言葉の真意が分からず、ただ縋るように村正の背中を見つめるしかなかった。
ツクヨミは、己に向かって牙を剥く若き刀鍛冶を、底知れぬ氷の瞳で見つめ下ろした。
やがて、その視線が、村正の足元に転がっている『空になった盆』へとゆっくりと移動する。
『――■■■■■■』
「『……なるほどな』」
椿を通して脳内に響くツクヨミの声。その冷たく硬質だった波長に、ほんの微かな――凍てついた春の雪解けのような、柔らかな感情が混じった。
「『ただの鉄打ちの小僧が、なぜこれほどまでに……“懐かしき味”の供物を作れたのか。疑問に思っていたが……すべて、合点がいった』」
ツクヨミは静かに、その美しい双眸を伏せた。
光の届かない世界の裏側で、永遠とも思える孤独を強いられてきた月神。彼が心の底でずっと求め、渇望していたのは、世界を統べる強大な力でも、豪奢に飾り立てられた供物でもなかった。
それは、かつて共に在った姉の――あの太陽のような、温かく優しい陽だまりの『熱』。椿という存在を通し、不器用な刀鍛冶の手によって再現されたその素朴な温もりが、ツクヨミの凍てついた心を確かに溶かしたのだ。
『……よかろう』
ツクヨミが再び目を開いた時、そこから彼らを真っ向から跳ね除けようとする、強烈な拒絶の気配は完全に消え去っていた。
「『余の渇きは、僅かばかりだが潤された。……穢れ多き人の子らよ。その娘の存在に免じて、一度だけ問おう』」
神の静かなる問いかけ。
「『汝らは、この滅びの淵で、余に何を求める?』」
それは、絶対に開くことのなかった奇跡の扉が、ついに彼らの前で重々しい音を立てて開かれた瞬間だった。
村正は、傍らに立つ武、ミクトル、ロッキルと強く視線を交わし合った。
皆の目には、瓦礫の向こうで今も命を削っているヘレウクレスとリーへの祈りと、絶対に諦めないという決意の炎が燃えている。
村正は顔を上げ、月神の威光に一歩も退くことなく、力強く告げた。
「俺たちが求めるのは、あの化け物――テュポーンが喰らった『勝利の果実』……! 理屈を超えて強制される『絶対の敗北』っていう理不尽を、根こそぎ叩き斬るための力だ!」
村正は腰の刀の柄を固く握り締め、最も困難にして唯一の希望を叩きつけた。
「俺たちを――奴が果実を食う前の、【過去】へ送ってくれ!!」
**『――■■……良かろう。だが、その役割を果たすは我ではない』**
突如として、空間を軋ませていた不可解なノイズがピタリと止んだ。
透き通るような、それでいて絶対的な威厳を帯びた神の声が、通訳(波長)を介さず、直接物理的な大気を震わせて響き渡ったのだ。
「え……?」
自身の脳内ではなく、外側から聞こえた明確な言葉に、椿は呆然と瞬きをする。
「喋った!? ていうか、アンタ自分で喋れるんじゃないのよ!」
ロッキルが目を丸くし、驚きのあまり亜麻色の尻尾を逆立てた。
「『その役割を果たすは我ではない』……? どういう意味だ?」
武は神の不可解な宣告の真意を読み解こうと、険しい顔で思考を巡らせる。過去へ送る役割がツクヨミではないのなら、一体誰が――。
武がその答えに行き着くよりも早く、異変は起きた。
「椿さん? 椿さん!?」
ミクトルの切羽詰まった声が、月読宮の静寂を引き裂いた。
「椿!?」
村正が弾かれたように振り返る。
つい先ほどまで彼の背中に隠れるように立っていた少女の身体が、まるで糸の切れた操り人形のように、ふらりと力なく前へ傾いていた。
「…………………」
椿の耳には、もう誰の声も届いていなかった。
彼女の意識は、すでに自身の内側から溢れ出した眩い白銀の光に飲み込まれ、完全な虚無へと落ちていたのだ。村正が血相を変えて伸ばした手が、その華奢な肩に触れる寸前――。
パァンッ、と微かな光の粒子を残し、椿の姿は陽炎のように空間からフッと掻き消えた。
深く、暗い水の底を沈んでいくような感覚。
やがて、どこからか聞こえてくる一定のリズムが、彼女の意識を深い微睡から引きずり上げた。
カーン……、カーン……。
甲高く、そして力強い、鉄を打つ音。
それに混じって鼻腔をくすぐるのは、絶対零度に澄み切っていた月読宮の空気とは全く違う。湿り気を帯びた土と埃、そしてむせ返るような『炭と鉄の匂い』だった。
「……ん……」
椿はゆっくりと、鉛のように重い目蓋を開いた。
視界にぼんやりと映ったのは、青白い月光などではない。障子越しに差し込む柔らかな陽だまりの光と、煤で真っ黒に燻された、太く剥き出しの木の梁だった。
(……私、どうしたんだっけ……?)
身を起こそうとして、自身が硬い板間の上に寝かされていることに気づく。
周囲を見渡す。そこは、古い木材と土壁で造られた、どこか見知らぬ家屋の中だった。壁には無骨な農具や見慣れぬ形の刃物が立てかけられ、奥の土間からは、赤々と燃える火床の熱気が微かに伝わってくる。
かつての彼女であれば、見知らぬ場所に一人放り出されたこの状況に、すぐさま心を閉ざし、鋭い警戒心と棘のある言葉で自身を武装させていただろう。
だが、今の彼女は違う。数々の試練を乗り越え、現在の穏やかな時間の中で、彼女の心はすっかり丸く、優しくなっていた。
目覚めて一番に彼女の心を占めたのは、警戒ではなく、すでに深く結ばれている絶対的な安心の象徴――村正の背中を探す、切実な心細さだった。
「村正……さん……?」
すがるような声でその名前を呼んでみるが、当然、あの不器用で温かい声が返ってくることはない。
時代は室町。
伊勢国、桑名――
だが、その事実を未だ知る由もない椿は、自身の胸元を不安げにきつく握り締め、誰もいない古い土間を見つめて、ぽつりと呟いた。目覚めて一番に彼女の心を占めたのは、警戒ではなく、すでに深く結ばれている絶対的な安心の象徴――村正の背中を探す、切実な心細さだった。
「ここは……どこ? 昔の、家……?」
黒く煤けた太い梁、ひび割れた土壁、そして鼻腔をくすぐる、むせ返るような鉄と炭の匂い。
現代の建造物とは明らかに違う、あまりにも古めかしい造り。ふと、彼女の脳裏にある仮説が過る。意識を飛ばした先で辿り着いたこの場所は、現実ではなく、自らの内側にある精神世界なのではないか、と。
「もしかして……私の、記憶……?」
自身の中に眠る、前世や神話の断片が見せている幻。そう口に出した直後だった。
**『――■■■■■■■』**
鼓膜を震わせる音ではない。脳の髄に直接、波紋のように広がる不可思議な波動。
それは、月読宮で聞いたあの神の波長と似ていた。だが、ツクヨミが放っていた絶対零度の拒絶とは違う。どこか悲哀を帯びた、凪いだ水面のような静かな『意志』だった。
人の言語の体を全くなしていないその波長が、椿の心の中で、明確な意味を持った言葉として変換される。
(『――これは、あなたの記憶であって……記憶ではない』)
「ッ……!」
椿は弾かれたように肩を揺らし、声の出所を探して周囲を見回した。
姿は見えない。だが、その不可視の波長が、土間の奥――わずかに開かれた障子戸の向こう側から漂ってくるのを、彼女の研ぎ澄まされた感覚が確かに捉えていた。
(この声は……。さっきのツクヨミさまとは違う、別の気配……?)
足の震えを必死に抑え込み、椿はギュッと自身の唇を噛み締めた。
ここでうずくまって泣いていても、誰も迎えには来てくれない。村正たちは今も、あの絶望的な未来で、自分の帰りを信じて待っているはずなのだ。
「……とりあえず、声が聞こえる方へ……」
自分に言い聞かせるように震える声で呟き、椿はゆっくりと板間を下りた。
ミシミシと鳴る古い床板を踏み締め、埃舞う陽だまりを抜け、彼女は土間の奥深くへと足を進める。
やがて、波長の出所である部屋の前に辿り着いた。
椿は息を殺し、少しだけ開いていた障子戸の隙間から、恐る恐るその部屋の中を覗き込む。
そこには、一人の少女が座っていた。
古風で質素な小袖を身に纏い、膝の上で静かに両手を重ねている。障子越しに差し込む柔らかな光が、彼女の輪郭をふわりと縁取っていた。
その横顔を見た瞬間、椿の心臓がドクンと、痛いほどに大きく跳ねた。
「あれ、は……」
透き通るような白い肌、華奢な肩の線、そして、どこか儚げで憂いを帯びた面立ち。
着ている服も、纏っている空気も、生きた時代すらもまるで違う。しかし、その顔立ちは、鏡で毎朝見つめている自分自身と、寸分違わず同じだったのだ。
「私……?」
障子のわずかな隙間に張り付くようにして、椿は息を詰めていた。
視線の先には、過去の自分――いや、自分と瓜二つの顔を持つ見知らぬ少女。己の存在を疑うほどの混乱で硬直する椿の耳を、突如として重厚な音が打った。
「――おい、藤正。湯は沸いたか」
ズシン、ズシンと、古い床板を軋ませる無骨な足音。それに続く、荒削りな岩のような低い声。
その響きが鼓膜を打った瞬間、障子の外に潜む椿の肩が、弾かれたように大きく跳ねた。間違いない。ぶっきらぼうで、どこか不機嫌さを纏っていながらも、根底には決して隠しきれない不器用な優しさが滲んでいる。あの声は――。
「へえ、親方。今お持ちしましたよ」
続いて空気を撫でたのは、先ほどの声の主よりも少しだけ若く、風のように快活な響きを持った声だった。
ガラリ。
重い木枠の障子戸が、遠慮のない手つきで乱暴に開け放たれる。部屋へと踏み込んできた二人の男の顔を見た瞬間、椿の喉の奥から悲鳴が漏れかけ、彼女は咄嗟に両手で己の口を強く塞ぎ込んだ。
(え……っ!?)
信じられないものを見るように、椿の瞳が極限まで見開かれる。
薄暗い部屋に姿を現した二人の男。一人は、屈強な体躯に汗染みた作務衣を纏い、首に手拭いを提げた『親方』。もう一人は、その背後で白湯の乗った盆を恭しく捧げ持つ『藤正』と呼ばれた若い弟子。
生きた時代も、纏う空気の重さも違う。しかし、その髪の癖から骨格、顔立ちに至るまで――二人はどちらも、椿が現代で深く心を寄せているあの『村正』と、恐ろしいほどに完全に一致していたのだ。まるで、一つの魂が二つの肉体に分かたれたかのように。
「……申し訳ありません、村正様、藤正様」
小袖の女性――椿と瓜二つの顔を持つ彼女が、痛ましげに細い肩をすくめ、擦り切れた糸のような声で謝罪を口にした。その透き通るような横顔には、色濃い疲労と、命を蝕む深い病の影がこびりついている。
「私のような者のために、刀を打つ手を止めさせてしまって……」
「馬鹿野郎」
『親方』である村正が、どっかりと胡坐をかいて座り込み、首の手拭いで乱暴に額の汗を拭いながら吐き捨てた。
「気病みしてりゃ治るもんも治らねぇぞ。俺たちは好きで鉄を打ち、好きで火を熾してるだけだ。お前はただ、ここで大人しく飯食って、寝てりゃいいんだよ」
粗野で乱暴な言葉遣い。けれど、そこには一片の嘘偽りもない、真っ直ぐで不器用な庇護欲が宿っている。それは、絶望の底にいた現代の椿を何度も救い上げてくれた、あの少年の姿そのものだった。
「親方の言う通りですよ」
弟子の藤正が、ふっと春風のような人の良い笑みを浮かべ、小袖の女性の傍らへ膝をついて湯飲みを差し出す。
「親方ときたら、朝から晩まで鉄と睨めっこですからね。あなたがここに居てくれるおかげで、親方も少しは人間らしい生活ができてるんです。……さあ、白湯です。冷めないうちにゆっくり飲んでください」
「余計な口を叩くな、藤正。次しくじったら、てめぇの頭を槌で叩き直すぞ」
「おっと、そいつは勘弁だ。ほら、あなたも気に病まないで。親方はああ見えて、あなたの体が心配で、さっきから火床の火加減を間違えそうになってるんですから」
「てめぇ……っ!」
村正が照れ隠しのように怒鳴り声を上げ、藤正がカラカラと軽やかに笑って躱す。
その騒々しくも温かなやり取りを見て、小袖の少女の青白い顔に、ふわりと――まるで雪解けに咲く一輪の椿のように、柔らかな笑みがこぼれた。
「……ふふっ。はい、ありがとうございます」
彼女は湯飲みを両手で大切に包み込み、愛おしそうに目を細める。
「お二人の打つ鉄の音を聞いていると、私、とても安心するんです。まるで……命そのものが、力強く燃えているみたいで……」
その言葉に、村正は気まずそうに視線を逸らし、短く「……そうかい」とだけ、ぼそりと呟いた。
障子の外で、息を殺してその光景を盗み見ていた椿。彼女の胸の奥底で、言葉にならない感情の濁流が、熱い塊となって渦を巻いていた。
「私の記憶の中に、こんなに温かい記憶なんて、あるはずが…………」
椿の乾いた唇から、掠れた呟きが溢れ出た。
彼女が知る自分の過去は、冷たい拒絶と孤独、そして自らを鋭い棘で守るための果てしない記憶だけだったはずだ。それなのに、障子の隙間から漏れ出すあの三人の空気は、まるで肌を刺す冬のさなかに突如として差し込んできた、陽だまりのように温かい。
胸の奥が、痛いほどにぎゅっと締め付けられ、熱い涙が目蓋の裏に込み上げてくる。
その時、脳髄の最も深い場所から、あの鈴の音を冷徹に研ぎ澄ませたような声が響き渡った。
**『――本人であって、本人でない。それはお前の記憶であり、同時にお前の記憶ではない』**
「ツクヨミ……様……?」
椿は溢れそうになる涙を堪え、形の良い眉をひそめて虚空を見上げた。
**『それは、本来のお前がその魂の根源に持っていた、奪われし記憶。……そして、今、そこに“いる”のだろう?』**
「いるって……誰が、ですか?」
問いかける椿の言葉に、月神はただ静かに、世界の理を解き明かすような厳かさで告げた。
**『連なりし記憶が、汝を追っている。……鏡を、鏡を見よ』**
ツクヨミの言葉が終わると同時に、世界から一切の音が消失した。
ハッとして障子の隙間を覗き込むと、そこには異様な光景が広がっていた。先ほどまで楽しげに笑い合っていた村正も、弟子的存在の藤正も、そして自分と同じ顔をした小袖の少女も、まるで絵画の一幕のように完全にその動きを止めていたのだ。
手からこぼれ落ちそうになっていた湯飲みの白湯の滴も、炉から立ち上っていた仄白い煙も、すべてが空間に縫い付けられたかのようにピタリと静止している。
色を失い、完全に時が止まった世界。
その冷徹な静寂の中で、椿はツクヨミの言葉に導かれるように、ゆっくりと周囲を見渡した。
**『これより、留まりし旅が動き出す……。時は、来た』**
「キュキュ……」
不意に、静寂を破るように、かすかで愛らしい鳴き声が耳に届いた。
声のした方――薄暗い部屋の片隅、埃を被った古い姿鏡が置かれている場所。吸い寄せられるようにその前に立ち、椿が恐る恐る鏡の中を覗き込んだ瞬間、彼女は息を呑んだ。
鏡の中に映っていたのは、単なる自分の姿ではなかった。
合わせ鏡を覗き込んだ時のように、鏡の奥へ、さらにその奥へと、無数に連なった「自分」が果てしなく一列に並んでいる。驚いて手を上げれば、鏡の中の無数の自分たちも、寸分違わぬ動きで一斉に手を上げる。
それは、幾星霜もの時間を越えて、一筋の線のように連なり続けてきた彼女自身の「魂の歴史」そのものが、視覚となって現れたかのようだった。
肌が粟立つような神秘的な光景に圧倒されていると、再び、足元から小さな気配がした。
「キュ?」
椿がハッとして振り返ると、そこには、いつの間にか一羽の不思議なウサギが佇んでいた。
雪のように真っ白で柔らかな毛並み。その小さな頭には、まるで彼女の名前を祝福するかのように、一輪の鮮やかな「椿の花の飾り」がちょこんとあしらわれている。
ウサギは紅玉のような丸い瞳で真っ直ぐに椿を見上げ、小さく鼻を鳴らした。
時が止まった室町の家屋で、鏡に映る無数の過去の自分と、椿の飾りをつけた奇妙なウサギ。
「あ、あなたは……?」
鏡の前で立ち尽くす椿が、恐る恐る声をかける。
すると、頭の中に直接、舌足らずでひらがなばかりの思考が流れ込んできた。
(あなたは……? わたし? わたしは、あなた? よく、わからない……?)
それは、波長というよりも、生まれたばかりの幼子のような無垢な声だった。
(ずっと、まってた。ひとりで、ずっと。すごく、さむかったの)
(でも、あなた、すこしあたたかい。……いっしょになれたね)
(なんというか……すごく幼いのかな、この子)
椿は、足元で鼻をヒクつかせている白ウサギを見下ろし、戸惑いながらも僅かな愛しさを覚えた。
自分と同じ顔が並ぶ鏡、自分の名前と同じ花をつけたウサギ。そして、「わたしはあなた」という不可解な言葉。
(どこか……ふいんき、おなじ。だから、すき)
ウサギが椿の足元へすり寄ろうとした、その時だった。
**『――ようやく目覚めたか。我が依代、余が神が解き放たれる時も、そう遠くはない……』**
再び、ツクヨミの冷たくも荘厳な声が脳髄に響き渡る。
**『共に行け、ミヨ』**
(ミヨ……?)
ウサギの名前だろうか。海の常と書いて、ミヨ。永遠に変わらない波を思わせるその名に、椿は小さく首を傾げた。
**『その者たちが、予言の綻びと共に記憶を拾い集め……やがて、お前を見つけてくれるだろう』**
(見つける……? 私なら、今ここにいるのに。どういうこと……?)
ツクヨミの言葉の真意が掴めず、椿の胸にざわめきが広がる。だが、足元のミヨと呼ばれたウサギは、そんな彼女の不安を溶かすように、赤い瞳をキラキラと輝かせた。
(わたし? みつける? ううん、わからない!)
(でも、いっしょに、あつめるの。きおくを。おもいでを)
ミヨは小さな前足をチョコンと上げ、まるで手を差し出すような仕草をした。
(いっしょに……いこ?)
「…………っ」
その無垢な誘いに対し、椿の身体は反射的に強張った。
差し出された手を、取ること。それは、彼女にとってひどく恐ろしい行為だった。
かつて、心をズタズタに引き裂かれるような辛い出来事から自身を守るため、彼女は一切の感情を殺し、心を分厚い氷の奥底へ閉じ込めた。現代で村正たちと関わることで、その氷は少しずつ溶け、豊かさを取り戻しつつある。だが、根本に根付いた「自分のような空っぽで汚れた人間が、誰かの温もりに触れていいはずがない」という呪いのような自己否定は、そう簡単に消え去るものではない。
オドオドと視線を泳がせ、震える指先を僅かに伸ばしては、引っ込める。
自分が、この純白の手を取ってもいいものか。また傷つくのではないか。
暗闇の中で躊躇う彼女の背中を叩くように――不意に、一つの声が響いた。
**「――儂といっしょに来ねぇか?」**
「!」
弾かれたように振り返った瞬間、静止していた室町の家屋はガラスのように砕け散った。
眩暈と共に視界を埋め尽くしたのは、むせ返るような土埃の匂いと、鼓膜を突き破るような悪意のノイズだった。
『なんだいこの小娘は。図体ばかりデカくて、胸も牛みたいに垂れ下がって……見苦しいねぇ』
『こんな異形の化け物、どこが買い取るってんだ。気味が悪い!』
『薄汚い身売りの分際で、そのふてぶてしい目はなんだ!』
男や女の嘲笑、石を投げつけるような罵声の雨。
場面は唐突に切り替わり、椿は往来のど真ん中で、見知らぬ群衆に囲まれていた。
いや、群衆の中心で泥だらけになって座り込んでいるのは、『今の椿』ではなく、過去の彼女自身だった。
現代においては賞賛されるであろう、すらりとした長身や豊満な胸。しかし、小柄で控えめな体つきが美徳とされるこの室町・戦国の世において、その容姿は「規格外の異形」であり、醜悪なものとして忌み嫌われていた。おまけに、身売りに出された孤児となれば、人々の好奇と悪意の的になるのは必然だった。
石が投げられ、額から血が流れても、過去の彼女は泣かなかった。
ただ虚ろな瞳で地面を見つめ、一切の感情を殺していた。心を閉ざさなければ、痛みに狂って死んでしまうと知っていたからだ。
だが、その絶望の底に、一筋の赤橙の炎が落ちた。
「醜い? 穢れだぁ……?」
野次馬の群れを荒々しく掻き分けて進み出たのは、煤と汗に塗れた屈強な刀鍛冶――村正だった。
彼は、群衆の嘲笑を鼻で笑い飛ばし、鋭い眼光で周囲をねめつけた。
「んなもん、知ったことかってんだ。儂に言わせりゃ、てめぇらみたいに寄ってたかって弱いモンを虐げるしか能がねぇ連中より、この嬢ちゃんの方がよっぽど『美しい』って思うぜ」
ピタリと、群衆の罵声が止む。
村正は周囲の困惑など意に介さず、泥だらけの彼女の前でどっかりと膝を突き、その無骨で分厚い手を、真っ直ぐに差し出した。
「なぁ。儂と来るなら、その手を取れ」
一切の同情も、哀れみもない。ただ、燃え盛る火床のように真っ直ぐで力強い声。
「行きたくねぇってんなら、そのまま誰かに身でも売るなりなんなり、好きにしな。……そいつは、てめぇ次第だ」
村正は、決して彼女を強引に引き上げようとはしなかった。
心を閉ざし、運命を諦めきっていた彼女自身に、決断を委ねたのだ。
「てめぇは、どうしたい」
その言葉は、時を越え、記憶の底から『現在の椿』の心臓を激しく打ち据えた。
差し出された手。温もりに触れることへの恐怖。
だが、その手を自らの意志で取ったからこそ、彼女の凍てついた時間は再び動き出したのだと感じた。
着ている服も時代も違うのに、その瞳の奥に宿る『鉄を打つ炎』のような真っ直ぐな光は、間違いなく彼女の知る『彼』のものだった
椿はハッと息を呑み、現実の視界へと意識を引き戻す。
目の前には、小さな前足を差し出したまま、不思議そうに首を傾げているミヨの姿があった。
「……私は」
椿の瞳から、虚ろな色がスッと消え去る。
彼女はもう、怯えるように指先を引っ込めることはしなかった。
深く息を吸い込み、記憶の中の刀鍛冶がくれた温もりを胸に抱きながら、椿はミヨの小さな前足へと、ゆっくりと、だが確かな意志を持って自らの手を重ね合わせた。




