第一部第一章第十七幕 夜見の宴と、砕け散る境界
冷え切った古代の台所に、やがてふわりと、どこか郷愁を誘うような温かな香りが満ち始めた。
村正は、透き通った昆布と干し魚を使って、じっくりと黄金色の出汁を引いていた。神の倉で永遠とも呼べる時を眠っていた素材たちが、赤橙の炎と村正の繊細な火加減によって目を覚まし、かつてその身に宿していた『命の旨味』を限界まで引き出されていく。
鍋の中では大根と肉厚な茸がコトコトと踊り、隣の網では、脂の乗った干し魚がパチパチと小気味よい音を立てて香ばしく炙られている。
(神様相手だからって、特別に飾り立てた御膳なんて作れない。俺に作れるのは、腹を空かせた奴の胃袋にぶち込むための、ただの『メシ』だ)
村正は額に滲んだ汗を手の甲で無造作に拭い、分厚い土鍋の蓋を少しだけ持ち上げた。
ブワッ――!
途端に、炊きたての白米が放つ暴力的なまでに甘い香りが、豊潤な湯気と共に立ち上る。一粒一粒が真珠のように屹立し、炎の明かりを反射してピカピカと輝いていた。
「うわ……なにこれ、めっちゃくちゃいい匂い……っ」
台所の入り口で待機していたロッキルが、たまらず両手で自身のお腹を強く押さえた。
『きゅるるる……』
誇り高き獣人のものとは思えない、ひどく情けない腹の虫の音が、神聖な静寂の空間に間の抜けた響きを落とす。
「……ふふ。私も、少しお腹が空いてしまいましたね」
ミクトルがクスリと微笑みながら、上品に口元を袖で覆う。常に冷静沈着な武でさえも、微かに鼻をヒクつかせ、「……見事な手際だ」と、偽りなき感嘆の息を漏らしていた。
「できたぞ」
村正は火を落とし、年季の入った漆塗りの盆の上に、完成した料理を手際よく並べた。
ふっくらと炊き上がった艶やかな白米。出汁の深い香りが鼻腔をくすぐる、茸と大根の澄まし汁。そして、表面にジュワッと黄金色の脂を浮かべた干し魚の炙り焼き。
最高位の神に捧げる供物にしては、あまりにも素朴で、飾らない日本の定食。
だがそこには、死のように冷え切った月読宮には絶対に存在しないはずの、途方もない『温もり』と『生気』が、白い湯気となって立ち上っていた。
村正は盆を持ち上げ、台所の奥――最も濃く青白い月光が差し込む、見えざる神の祭壇めいた場所へと真っ直ぐに歩み寄る。
「お待ちどうさん。……ずっと引きこもってた神様には、このくらい胃に優しい和食が一番だろ」
村正はドンッと、あえて畏まることのない無遠慮な動作で盆を置き、不敵な笑みを浮かべて絶対の暗闇を見据えた。
**『――■■■■■■』
再び、空間を軋ませるような神のノイズが響く。だが、先ほどまでの刺々しい拒絶の波長とは、ほんの僅かに質感が違っていた。
椿が静かに目を閉じ、その真意を紡ぎ出す。
「『……出来たか。ならば、その供物を持ち、先へ進め。我は祭壇の果てで待つ』……だそうです」
彼女の言葉が終わるか終わらないかのうちに。
ギィィィィィ……ッ。
数千年の沈黙を破るような、重苦しくひどく軋んだ音が響き、分厚い木扉が開かれた。
その向こう側に口を開けていたのは、先ほどまでの空間とは比較にならないほどの、濃密で絶対的な『夜』だった。光の粒子すらも溺れて死に絶えるような、底なしの深淵。
「……行くぞ」
村正が、温かな湯気を立てる盆を手に、その漆黒へと足を踏み入れた。
――その、瞬間だった。
**ドンッ!!**
背後で、目に見えない巨大な質量の壁が弾けた。空間そのものが断絶され、強烈な衝撃波が吹き荒れる。
「なっ……!?」
「村正ッ!」
武が咄嗟に巨大な盾を構え、開かれた扉の向こうへ飛び込もうとする。だが、まるで透明で分厚い氷の城壁に激突したかのように、ガゴンッ! と鈍い音を立てて無情にも弾き返された。
ロッキルが獣の脚力で蹴りを叩き込んでも、ミクトルが杖から浄化の光を放っても、その『神域の境界』は微動だにしない。
「おい! お前ら!」
村正が振り返り、声を張り上げる。だが、その声は境界の向こう側には全く届いていないようだった。見えない壁の向こうで、武たちが必死に壁を叩き、何かを叫んでいる姿が、分厚い水底から見上げるように歪んで見える。
(……供物を持った者しか、この先へ進むことは許されないってことか)
村正は忌々しげに舌打ちをした。だが、ここで立ち止まっている暇はない。盆の上の飯が冷めてしまえば、あの神経質な神の機嫌をさらに損ねるかもしれない。
彼は覚悟を決め、一人、底知れぬ暗闇の最奥へと向き直った。
カツン……、カツン……。
己の足音だけが、虚無に吸い込まれては反響する。
やがて彼の眼前に現れたのは、言葉を失うほどに幻想的で、そして圧倒的に『空虚』な存在だった。
そこに、人間の姿をした神などいなかった。
巨大な黒曜石の祭壇。その中央に、青白く脈打つ『光の球体』がぽつりと浮かんでいるだけだ。確かな実体を持たず、周囲の空間を絶対零度に凍りつかせるような、冷酷なまでの輝き。それこそが、永劫の孤独を生きる月神・ツクヨミの本来の姿であった。
「……持ってきたぞ。アンタが所望した、供物だ」
村正は、実体のない神威が放つ重圧に魂を軋ませながらも、一歩も退かずに祭壇へと盆を置いた。
青白い光の球体が、ゆっくりと、ふわりと盆の上へと降下してくる。
言葉はない。ただ、圧倒的な神の気配が供物を包み込んだかと思うと――異様な光景が広がった。
まるで凍てつく月そのものが眼前に迫ってきたかのような、呼吸すら困難になるほどの神威。
ほかほかと立ち上っていた白米の湯気も、鼻腔をくすぐる出汁の香りも、表面で弾けていた干し魚の脂も。物質としての形は全くそのままなのに、その内に秘められていた『命の熱と旨味』だけが、神の光に吸い込まれるようにスゥッと消失していったのだ。
残されたのは、完全に冷え切り、色褪せた『概念の抜け殻』だけ。
味に対する称賛の言葉など、一切ない。
ただ、狂気的なまでに冷たかった光の明滅がほんの少しだけ和らいだことで、村正は、己の作った飯が神の舌を確かに満足させたのだと直感的に理解した。
『――■■■■■』
直後、村正の脳内に、極寒の突風のような意志が吹き荒れた。
(……『食い終わった。契約は果たされた、さっさと帰れ』……だと?)
通訳である椿がいなくとも、その明確すぎる『拒絶』の波長は、村正の肌をビリビリと刺した。あくまで供物を食しただけであり、穢れ多き人の子に力を貸す気など毛頭ないという、神の身勝手極まりない幕引き。
「ふざけんな!」
村正の堪忍袋の緒が切れた。彼は空になった盆を蹴り飛ばさんばかりの勢いで踏み込み、実体のない光の球体へと鋭く指を突きつけた。
「俺たちはアンタのメシ炊き係をしに来たわけじゃねぇ! 瓦礫の向こうじゃ、今この瞬間も仲間が命懸けで時間を稼いでんだよ! あの化け物の『勝利の果実』を覆す力を――」
村正が、血を吐くような怒号を祭壇に響かせた、まさにその時だった。
「村正さんッ!」
パァンッ!!!
背後で、見えない絶対の境界が、巨大なガラス細工のように砕け散る甲高い音が響いた。
振り返ると、ミクトルの杖が放つ極光、ロッキルの魔力を乗せた蹴撃、そして武の渾身の力で押し込まれた盾の一撃――それらが一点に集中し、ついに神域の壁を完全に粉砕していた。
「お前ら……!」
「無事か、村正! 食事が終わって結界の強度が急に落ちたんでな、力尽くでこじ開けさせてもらった!」
武が息を切らしながらも、油断なく盾を構え、祭壇の光の球体――ツクヨミへと強烈な警戒の視線を向ける。四人が一斉に祭壇へと駆け込んでくる。
『――■■■■……!?』
神域を土足で踏み荒らされたツクヨミが、激しい怒りの波長を放とうと、青白い光を暴発的に膨張させた。空間の温度が急激に下がり、致死の神威が放たれようとした――その、刹那である。
荒れ狂おうとしていた光の球体が、ピタリと。
不自然なほど完全に、その動きと明滅を静止させた。
光の焦点が、啖呵を切った村正でも、盾を構える武でもなく――彼らの背後から、おずおずと顔を出した一人の少女へと、磁石のように吸い寄せられて固定されたのだ。
「え……?」
椿は、自分ただ一人に向けられた、途方もない質量の『視線』を感じ取り、ビクッと華奢な肩を震わせた。
かつては他者を拒絶し、鋭い言葉の棘で己を武装していた彼女だが、今は違う。彼女はすがるように、すでに絶対の信頼を築き上げている村正の背中へと身を寄せ、その広い背に隠れながら、不安げに青白い光を見つめ返し村正も彼女を完全に庇うように半歩身をずらして壁となった。
『――■■■■■……!!』
空間を震わせたのは、怒りでも、拒絶でもなかった。
数千、数万年もの間、ただ独りで永遠の夜を統べ、決して揺らぐことのなかった孤独な月神の波長。それが今、明確な『驚愕』と、信じられないものを見るような激しい『動揺』を孕んで、かつてないほど激しく明滅し始めたのだ。
「つ、椿……?」
村正がただならぬ空気に気づき、背後の少女を完全に庇い守るように、半歩身を乗り出して立ち塞がる。
椿は自身の胸の衣服をきつく握り締めながら、頭の中に直接、津波のように流れ込んでくる神の声を、震える唇で紡ぎ出した。
「ツクヨミさまが……言っています……」
椿の虚ろだった瞳が、驚きに見開かれる。
「『なぜ……。なぜ、お前がそこにいる……?』って」
絶対零度の静寂に閉ざされていた月読宮に、神自身の動揺という、かつてない波紋が広がっていた。




