第一部第一章第十六幕 命を打つ炎、神を饗する膳
その後も、脳髄を直接削り取るような神の呪詛と、死と隣り合わせの試練は波状攻撃のように続いた。
しかし、どれほど理不尽な罠が牙を剥こうとも、ミクトルの静寂なる制圧と、ロッキルの獣の如き突破力――二人の頼もしい勇士の助けもあり、一行は致命的な足止めを食らうことなく、冷徹な月読宮の深奥へと歩を進めていった。
やがて、分厚い黒曜石の扉を越えた先で、彼らは一際広大な空間へと足を踏み入れた。
「ここは……倉か?」
武が、壁際に立ち並ぶ巨大な棚や、見慣れぬ古い木箱の山を見上げて呟く。
「なんか焼き入れでもする場所? ほら、あそこ。火を焚く炉があるし、鍛冶場みたいな……」
ロッキルが亜麻色の尻尾を揺らしながら、部屋の中央に鎮座する石造りの炉を指差した。
「いや、これは……」
村正は、その炉の形状と、周囲に無造作に置かれた刃物やまな板、そして土鍋の数々を見回し、呆れたように息を吐いた。
「鍛冶場なんかじゃない。ここは『台所』だ。……それも、とびきり古い時代のな」
祖先たる刀鍛冶の血と記憶をその身に宿してはいるものの、村正自身はあくまで現代を生きるただの若者だ。だからこそ、鉄を打つための火床と、煮炊きをするための竈の違いなど、一目見れば容易に判別がついた。
なぜ、神の宮の最深部に古めかしい台所があるのか。
その疑問を口にするよりも早く、再び『それ』はやってきた。
『――■■■■■■■■■』
空気をガラスの破片で引っ掻くような、冒涜的で不可解な神のノイズ。
「うっ……!」
椿がギュッと両目を瞑り、耳を押さえながら、その重苦しい意志を人間の言葉へと翻訳する。
「『……我が強固なる拒絶の意志に逆らってまで、参上したいとはな』……」
『――■■■■■■■■■■■■』
「『ならば……そこの倉にある食材を使い、我が舌を満足させる物を捧げよ』……と、言っています」
椿が恐る恐る紡ぎ出した試練の内容に、その場にいた全員の動きが、まるで時を止められたかのようにピタリと静止した。
「……は?」
村正の口から、間抜けな声が漏れる。
絶対の勝利を運命づけられた邪神を打ち倒すため、死地に仲間を置いてまで辿り着いた、月神の領域。
そこで突きつけられた最終試練は、武力による証明でも、神話の謎解きでもなく――まさかの『料理』であった。
「いやいやいや! ちょっと待ってよ!」
ロッキルが耐えきれずに声を荒らげる。
「私たち、世界を救うためのとんでもない力を借りに来たんだよ!? なんで急に料理対決になってんの!」
「神話において、ツクヨミは食物の神である保食神と深い因縁がある……」
武が、自身の持つ知識と目の前の不条理な状況を必死にすり合わせながら、険しい顔で推測を口にする。
「神を己の料理でもてなすこと。それが、この神殿における最大の儀式であり、彼に認められるための唯一の条件ということか……」
「理屈は分かったが……」
村正は、頭をガシガシと乱暴に掻きむしった。
先祖から受け継いだ力で、鉄を打つための炎の扱いなら分かる。だが、彼自身は本職の刀鍛冶でなければ、ましてや料理人でもない。純粋な『料理』となれば話は別だ。
「……この中で、神様の舌を唸らせるようなメシを作れる奴はいるか?」
村正の問いかけに、広大な古代の台所に、再び気まずい沈黙が降りた。
武は静かに目を逸らし、ロッキルは「私は食べる専門だし」と耳を伏せる。ミクトルは「栄養を点滴で補給することなら……」と物騒なことを呟いている。
「あ、あの……」
重苦しい沈黙が支配する古代の台所に、消え入りそうな、しかし確かな芯のある声が響いた。
全員の視線が集中する中、椿はおずおずと、けれど真っ直ぐに村正を見上げていた。
「村正さんが……作ってみては、どうですか?」
「……え?」
突拍子もない指名に、村正の口から間抜けな声が漏れる。
(いやいやいや、なんで!? 俺、刀の打ち方は血に刻まれてるかもしれないけど、神様を唸らせるメシなんて完全に専門外だぞ!?)
内心で激しくツッコミを入れる村正だったが、その狼狽をよそに、隣で腕を組んでいた武が深く、真剣な面持ちで頷いた。
「俺も、ここは村正が適任だと思う」
「おいおい、お前まで何言ってんだよ!?」
村正は慌てて武の方へと向き直る。
「こういう時こそ、武先生の番だろ! 前に作ってくれた中華料理とか、めちゃくちゃ美味かったじゃないか!」
すがるような村正の抗議に対し、武は戦況を分析するような冷徹な眼差しのまま、静かに首を横に振った。
「確かに、中華料理を作らせるなら、俺の方がお前より美味く作れるかもしれない。……だが、求められているのが『日本食』となれば話は別だ」
武は視線を上げ、虚空――見えざる月神の気配へと目を向ける。
「其は、遥か昔よりこの地に座す日本の神だ。ならば、奇を衒うよりも、その舌に最も馴染んでいるであろう『日本食』を献上するのが、礼儀であり筋だろう」
「いやいや! ずっと和食ばっかり食ってきた引きこもりの神様なら、逆に異国のスパイスの効いた中華料理を出した方が、味の新しさでワンチャン――」
「……私も」
村正の必死の弁明を、椿の穏やかな声が優しく遮った。
彼女は自身の胸元で両手をぎゅっと握り締め、どこか懐かしむような、温かい微笑みを浮かべている。
「私も以前……村正さんに、料理を教えてもらいました。村正さんの作るご飯、すごく……温かくて、美味しかったから」
それは、戦術的な計算も理屈もない、純粋な信頼と実績の証明だった。
かつて心を閉ざし、虚ろだった少女の心を解きほぐした、不器用で優しい味。その紛れもない事実を真っ直ぐな瞳で突きつけられては、村正も反論の言葉を見失ってしまう。
「はい、じゃあ満場一致で決まりだね~!」
ここぞとばかりに、ロッキルが村正の背中をバンッ!と勢いよく叩いた。
「頼りにしてるよ、我らが天才料理人・村正!」
(誰が料理人だ!!)
内心で盛大に毒づきながらも、村正は深過ぎる溜息と共に天を仰いだ。
これ以上、見苦しい言い争いをして時間を浪費している余裕はない。
目を閉じれば、彼の脳裏には、先ほど瓦礫の向こうに取り残してきたヘレウクレスとリーの姿が鮮明に焼き付いている。絶対的な死地において、彼らが命を削って稼ぎ出してくれた一分一秒。それを、己の逃げ腰な問答で無駄にするわけにはいかないのだ。
(……やるしかないか。残ったアイツらのためにも)
村正はバチンッ!と両手で自身の両頬を力強く叩き、迷いを強引に断ち切った。
神をも唸らせる未知の領域。だが、鉄を打つ気合いと、誰かのために火を熾す想いなら、決して負けはしない。若き刀鍛冶改め、即席の料理人は、覚悟を決めた鋭い眼差しで古代の台所へと足を踏み出した。
「お前らはここで待っててくれ。……下手にうろついて、これ以上あの神経質な神様の機嫌を損ねねぇよう、ここは俺一人でやる」
村正は仲間たちを台所の入り口に留め置くと、一人、冷え切った古代の調理場へと足を踏み入れた。
まずは食材の確認だ。部屋の奥にある重厚な木戸に手をかけ、ゆっくりと押し開けて神の倉の中へと入り込む。
そこには、信じがたい光景が広がっていた。永遠かとも思える途方もない時間を経ているはずの月読宮にあって、その倉の中に眠る食材は、一切の腐敗を知らない瑞々しさを保っていたのだ。
雪のように艶やかな白米、仄かに土の匂いを残した逞しい根菜、肉厚で笠の張った茸、そして見事なまでに透き通った琥珀色の昆布や、脂の乗った干し魚。
時の流れが完全に凍りついたこの死の領域において、これらの食材だけが、かつて大地が育んだ『命の息吹』を色濃く残したまま、静かな輝きを放っていた。
「……上等だ。これだけ極上の素材が揃ってりゃ、何だって作れる」
村正は必要な食材を両腕いっぱいに抱え込むと、冷たい石造りの竈の前へと戻った。
(俺は料理人じゃない。神様を感動させるような、繊細で気の利いた味付けなんて知るか)
彼は、ただ薪が組まれただけの冷たく暗い炉を見下ろす。
(だが――『火』の扱いと、魂を込めて何かを『打つ(つくる)』ことにかけては、絶対に誰にも負けない!そうだ!そう思い込むことにする!)
「ふぅ……っ」
村正が短く、鋭い呼気を吐き出し、精神を極限まで研ぎ澄ませる。
彼の血の内に眠る『刀鍛冶』の魂がその意志に呼応し、指先から微かな、しかし確かな熱が放たれた。パチンッ、と指を鳴らした瞬間、炉の中に組まれた薪に赤橙色の炎が勢いよく燃え上がる。
パチパチ、バチッ……!
薪が爆ぜる小気味よい音が、死のように静まり返っていた神の宮に、初めて『生』の鼓動を響き渡らせた。
村正は袖を無造作に捲り上げ、研ぎ澄まされた集中力で作業に取り掛かった。
冷たく澄んだ湧水で米を研ぎ、分厚い土鍋を火にかける。次に、年代物の重く無骨な包丁を手に取ると、年季の入ったまな板に向かった。
*トントントン、トントントントン……。*
硬質な木と鉄がぶつかる規則正しい音が、静寂の空間にリズミカルに響き渡る。
迷いのない手つきで大根を切り出し、茸を裂く。炎に照らされるその横顔には、かつて灼熱の炉の前で鉄を打ち据えていた時と全く同じ、一切の妥協を許さない『職人』としての凄みが宿っていた。
その張り詰めた背中を少し離れた場所から見守りながら、ロッキルが退屈そうに亜麻色の尻尾を揺らした。
おまけ
彼女はふと思い出したように、隣で腕を組んで立つ武を見上げる。
「そういえばさ、ずっと気になってたんだけど。なんでアイツ、アンタのことたまに『先生』って呼ぶわけ?」
ロッキルは不思議そうに小首を傾げた。
「見たところ、アンタたち歳なんてそんなに変わんないでしょ?」
その素朴な疑問に対し、武は村正の包丁捌きから視線を外すことなく、一切の表情を変えずに口を開いた。
「それは、村正が言うには……俺が『大人びて見えるから』だそうだ」
「……え?」
ロッキルはパチクリと瞬きをした。
「それだけ……?」
「ああ」
武は大真面目な顔つきで、深く頷く。
「年齢以上の落ち着きがあるように見えるだけだろう。……あとは純粋な遊びというか、相棒としての『愛称』のようなものだと、俺は解釈している」
微塵の照れもなく、ひどく冷静な自己分析を交えて言い切る武。
緊迫した空気に全くそぐわないその大真面目なトーンに、ロッキルは(さっきのイケおじ発言といい、やっぱりこの人ちょっとズレてる……)と内心で呆れ返りながら、力なく垂れた尻尾を撫でたのだった。




