第一部第一章第十五幕 哀れみと憎悪の玉座へ
「待て」
闇の底を駆け抜けようとした矢先、先頭を走っていた武が鋭い声と共に足を止め、左腕の盾をスッと前方へ構えた。
張り詰めた沈黙が、ピタリと場を支配する。
青白い月光が差し込む回廊の奥――影のヴェールの向こう側から、無数の赤い光が不気味に浮かび上がった。
歩を進めるたびに、毛皮の下から金属の軋むような無機質な音が漏れる。
チャキッ……チャキッ……。
硬質な金属音が反響する。闇の中から姿を現したのは、銀色の豪奢な甲冑に身を包み、鋭利な長槍を構えた『兎』の群れだった。
愛らしいはずのその姿は、感情の一切を欠いた紅玉のような双眸と、研ぎ澄まされた殺気によって、異様なまでの不気味さを醸し出している。月読宮の絶対の静寂を守る、神の衛兵たちだ。
その時、再びあの脳髄を直接撫で回すような、識別不能な神の波長が空間を揺らした。
「……ッ」
椿が苦しげに眉をひそめ、両手で耳を塞ぎながら、その波長を人間の言葉へと変換して紡ぎ出す。
「『止まれ……。光届かぬ闇、混迷の時で、永劫に彷徨え』……!」
宣告が下された瞬間、周囲の影が意志を持ったようにどす黒く蠢き始め、冷気が刃となって彼らの肌を刺した。
「ここまで人嫌い……いや、俺たちの纏う『穢れ』が気に食わねぇってか……!」
村正は舌打ちをし、無意識のうちに半歩前へ踏み出した。そして、震える椿を完全に己の背中へと隠すように立ち塞がり、腰の刀の柄に手をかける。
問答無用で排除しようとする神の苛烈な拒絶。突破するには、この武装した兎の群れを斬り伏せるしかない――村正がそう覚悟を決めた、まさにその時だった。
「二人とも、下がっていてください」
緊迫した空気を解きほぐすような、慈愛に満ちた静かな声。
村正と椿の前に、ふわりと進み出たのはミクトルだった。
彼女は慌てる様子もなく、手にした杖を静かに天へと掲げる。
その瞬間、杖の先端から、死の安らぎを思わせるような淡く幻想的な光が波紋のように広がった。
「――……」
月光とは違う、生命の根源に干渉するような不可思議な輝き。
冥界の川の水面を思わせる柔らかな青。
その光の波を浴びた武装兎たちは、悲鳴を上げることも、槍を振るうこともなかった。まるで操り人形の糸がプツンと切れたかのように、次々とその場にパタリ、パタリと倒れ伏し、深い眠りへと落ちていったのだ。
「お……おお……」
一滴の血も流さず、一瞬にして大群を無力化してしまったその光景に、刀を抜く寸前だった村正は思わず間の抜けた声を漏らした。
「相変わらず、涼しい顔してえげつなく強いね~」
ロッキルが亜麻色の尻尾を揺らしながら、からかうようにヒューッと口笛を吹く。
「安心してください」
ミクトルは杖を下ろし、倒れ伏した兎たちを見下ろしながら、女神のような穏やかな微笑みを浮かべた。
「殺してはいません。彼らから、ほんの少しだけ『生気』を奪い、眠りについていただいたというだけです。……私たちがこの宮を出る頃には、また元気に起き上がるでしょうから」
常世の理に触れ、魂を労る彼女だからこそできる、あまりにも鮮やかで優しい制圧。
「この先、立ち塞がる邪魔者はすべて私にお任せください」
ミクトルは振り返り、その瞳に静かな、しかし決して揺るがない決意の炎を灯して村正たちを見た。
ヘレウクレスとリーが命を削っている今、ここで一秒たりとも時間を無駄にするわけにはいかない。その想いは、彼女もまた同じなのだ。
「……頼りになるな」
村正は柄から手を放し、フッと口角を上げた。
心強い仲間の背中を追い、彼らは眠れる兎たちの群れを静かに飛び越え、さらに深く冷たい月読宮の奥底へと駆け込んでいった。
『――■■■■■■■■■』
再び、空間そのものをきしませるような悍ましい波長が、一行の鼓膜ではなく脳髄を直接激しく殴りつけた。
「うっ……!」
椿が頭を抱え、苦痛に顔を歪めながらも、その神の拒絶を必死に人間の言葉へと紡ぎ出す。
「『余は汝らを呪う……。穢れ多き凡人よ……不遜にして残酷な汝らを、我が聖域には決して近づけさせぬ』……そう、言っています」
その宣告が響き渡った直後だった。
ゴゴゴゴゴ……ッ! と、底知れぬ地鳴りが月読宮を揺るがした。
「なっ……足場が!」
武が鋭く叫ぶ。
彼らが駆け抜けようとしていた黒曜石の回廊が、まるで数千年の時を数秒で早送りされたかのように、急速に風化し始めたのだ。
ピキピキと無数の亀裂が走り、次の瞬間、重力に引かれて足元の道がガラガラと音を立てて底なしの深淵へと崩落していく。逃げ場のない一直線の道。後方へ下がる隙すら与えず、足元から確かな感触が次々と奪い去られていく。
「きゃあっ!」
床が抜け落ち、椿の身体が宙に浮きかけた、その絶体絶命の刹那。
「――まったく、どいつもこいつも神様ってのは短気すぎるでしょ!」
呆れたような声と共に、亜麻色の尻尾が風を切った。
ロッキルだ。彼女は獣人特有のしなやかな筋肉を爆発させ、崩れゆく瓦礫の破片を次々と蹴り渡るという、人間離れした神速の動きを見せた。
「ほら、しっかり掴まってなよ!」
ロッキルは目にも留まらぬ速さで椿の腰を抱き寄せ、そのままの勢いで武と村正の襟首を強引に掴み上げる。
「うおっ!?」
「ぐっ!」
鼓膜が破れそうな風切り音。視界が猛烈な速度で後方へとぶっ飛んでいく。
ロッキルは三人を抱えたまま、完全に崩落しきる寸前の道なき空間を、文字通り『飛ぶ』ような俊足で駆け抜け――崩落の及んでいない向こう岸の硬い床へと、弾丸のような速度で滑り込んだ。
ズザザザザッ! と派手に火花を散らしながら停止する。
背後では、彼らがほんの数秒前まで立っていた広大な回廊が、轟音と共に完全な虚無の底へと飲み込まれていった。
「はぁーっ、危ない危ない。私の美脚に感謝しなさいよね」
ロッキルが額の汗を拭いながら、得意げに胸を張る。
「……助かった、ロッキル。流石だ」
武が乱れた襟元を正しながら、短く、しかし心からの賛辞を送る。
だが、息をつく暇も与えず、再び椿の虚ろな瞳が宙を泳ぎ、重苦しい神の言葉を代弁し始めた。
「『近づくな……。帰れ、立ち去れ……ここに汝らの求めるものはない』……」
椿の声は、先ほどの怒りに満ちたものから一転して、途方もない年月を一人で過ごしてきた者特有の、深い絶望と諦念を帯びていた。
「『ここにあるのは……永遠の徒労と、憎しみ、そして……哀れみのみである』……と」
光の届かない裏側で、世界を支え続けることを強いられた孤独な月神。
その言葉の裏に隠された悲痛なほどの頑なさに、重苦しい沈黙が落ちる。しかし――。
「……やれやれ」
村正は、着地の拍子に汚れた服の埃をパンパンと払いながら、ゆっくりと立ち上がった。
その顔に絶望や躊躇いの色は欠片もなく、むしろ、強大な壁を前にしてさらに燃え上がるような、不敵で力強い笑みが浮かんでいた。
「ミクトルが敵を眠らせ、ロッキルが道を繋ぐ。……おかげで命拾いしたよ」
村正は仲間たちを一度見回し、そして、月光の射す神殿の最深部を真っ直ぐに睨み据えた。
「言葉も通じない、道も壊される。……どうやら、この引きこもりのツクヨミさまから協力を引きずり出すのは、一筋縄じゃいかないらしい」
どんなに拒絶されようと、決して足を止めるつもりはない。
瓦礫の向こうで死闘を繰り広げる英傑たちのため、そして、世界に希望を取り戻すため。村正は刀の柄を強く握り直し、さらなる深淵へと決意の一歩を踏み出した。




