第一部第一章第十四幕 命の残響、急ぎ往く神殿
青白い月光が照らし出す、果てしない静寂。黒曜石の柱が林立し、白亜の屋根は銀糸のごとく輝く。村正は息を呑み、己の呟きを訂正した。火と鉄の匂いなど欠片もない、完全なる孤独と冷気が支配する領域。
「『住まい』って規模じゃない……。雰囲気的に『神殿』じゃないか」
村正の言葉に、神武帝は振り返ることもなく、神殿の奥、さらに深き闇へと視線を向けたまま、静かに告げた。
「座す場所は伝えた。余が導くのはここまでよ。後は、其方たちが己が意志で、道を進むがよい……」
その冷徹な言葉に、最初に反応したのはミクトルだった。彼女は両手を胸の前で合わせ、この静寂の中に潜む『死』の気配を、敏感に感じ取っていた。
「お供いたします」
ミクトルの声は、鈴の音のように凛としていた。
「この場所は……裏の世界、死と酷く似た雰囲気が満ちている。魂を労る使命を持つ身として、私も手を尽くさせてください」
続いて、椿が小さく、しかし確かな一歩を踏み出した。
「わ、私も……行きます。ここに来ることを提案したのは、私、ですし……最後まで、見届けないと」
村正の背中を、見失わないように。
「ん? ん? あーはいはい、そういう流れね」
ロッキルは呆れたように肩をすくめ、亜麻色の尻尾を揺らした。
「筋肉バカやリーがいないのは不便だしさ。転移役が必要でしょ? 行くよ、行けばいいんでしょ」
最後に、武に支えられ、青白い顔をしたニギハヤヒが、ふらつく足で前に出ようとした。
「では、私も、案内役として――」
「其方は戻れ」
神武帝の鋭い一喝が、ニギハヤヒの言葉を途中で叩き斬った。玉座の間を凍らせたあの絶対的な威圧が、再び場を支配する。
「しかし、帝……」
「其方も、予言を知らぬわけではあるまい」
帝はゆっくりと振り返り、ニギハヤヒを射貫くような眼光で見据えた。
「『光の鴉は地に落ち、天を仰ぐ』……予言の通り、余の下から離れ、ここで尽き果てるつもりか?」
ニギハヤヒは唇を噛み締めた。天磐舟を駆り、十種の神宝を展開し続けたその体は、すでに限界を迎え、魂の輝きすら薄れかけている。
「……ですが私は。この若き勇士たちに……あの死地へと向かわせた責任があるのです。彼らの力になりたい、見届けたいのです」
それは、指導者としての責務を超えた、人間としての情だった。
帝は沈黙した。その漆黒の双眸の奥にある感情は、誰にも読み取れない。ただ、無限の時間を生きてきた者だけが持つ、重苦しい諦念だけがそこにあった。
やがて、帝は静かに、だが抗えぬ力を込めて告げた。
「其方の情は理解した。……ならば、尚のこと今は休むがいい」
「え……?」
「其方の神威は、これ以上ないほどに摩耗している。ここで無理を重ね、魂が尽きれば……彼らがツクヨミと会えたとしても、戻るべき場所を失うことになるぞ」
帝の言葉は、氷のように冷たく、しかし残酷なまでに理にかなっていた。
「過去を繋ぎ直し……再び、あの邪神テポーンの元へ、勇士たちを送ろうと志すならばな」
その一言に、ニギハヤヒは声も出なかった。
再び、テポーンの下へ。瓦礫に埋もれた二人を救い出し、勝利を掴むために。そのためには、天磐舟を駆る己の力が、万全でなければならない。ここで死ぬわけにはいかないのだ。
ニギハヤヒは悔しさにワナワナと震えた後、深く、深く頭を下げた。
「……承知いたしました」
帝は、ニギハヤヒを下がらせると、ミクトル、椿、ロッキル、そして村正へと視線を戻した。
「行け。時間は、無情に過ぎ去るのみよ」
村正は、残る二人――ヘレウクレスとリーの覚悟を背負い、まだ手のひらに残る熱せられた刀の残熱を感じながら、月読宮の奥深くへと歩みを進めた。
青白い月光が降り注ぐ、死のように静寂な神殿の奥へ。
冷え切った空気を切り裂くように、武が短く促した。
「行こう。村正」
「ああ」
残された時間は少ない。二人が黒曜石の床を踏み締め、さらなる深淵へと足を踏み入れようとした、まさにその時だった。
**『――■■■■■■■■■』**
突如として、脳髄を直接かき回されるような、おぞましいノイズが空間を震わせた。
それは風の音のようでもあり、幾重にも重なる耳鳴りのようでもある。言語の体を全く成していない、人間には識別不能な『高位の存在の波長』そのものだった。
「な、なんの声だ!?」
村正が顔をしかめ、咄嗟に周囲へ鋭い視線を巡らせる。
「……帰れ?」
張り詰めた空気の中、村正の背中を追うように歩いていた椿が、ふと虚空を見つめて戸惑い気味に呟いた。
その不可解な一言に、村正、武、そしてロッキルの視線が一斉に少女へと集まる。
「いや、違う……ツクヨミさまが、そう言っているんです」
椿は自身の耳を疑うように微かに首を振りながら、脳内に響くその『意味』を、静かな声で紡ぎ出した。
「『帰れ、穢れを纏いし粗野な人の子よ。滅び待つこの時に、余の安寧を妨げるつもりか?』……と」
「えっ?」
ロッキルが亜麻色の尻尾をピンと立てて、信じられないものを見るように目を丸くした。
「アンタ、神の声が分かるの!?」
「は、はい……。なぜかは、私にも分かりませんけど……どうやら、そのようです」
椿は自身の胸元にそっと手を当て、困惑したように目を伏せた。
かつては棘のある言葉で壁を作っていたこともあった彼女だが、村正との深い絆によって救われた今の彼女の瞳には、ひたすらに仲間を助けたいという純粋で底なしの優しさだけが満ちている。だからこそ、神の放つ拒絶の意思を、波長としてではなく『言葉』として真っ直ぐに受け取ってしまったのかもしれない。
すると、戸惑う彼らの脳内に、つい先ほど別れたばかりの荘厳な声が響き渡った。
**『――おっと、一つ言い忘れておった』**
神武帝の念話だった。相変わらず、世界の危機に瀕しているとは思えないほど平坦で、悪びれた様子が一切ない。
**『ツクヨミは、とにかく「穢れ」をひどく嫌う。必然的に、生きる上で穢れを纏わざるを得ない人の子を激しく嫌悪しておるのだ。ゆえに、容易に協力を得られるなどと思わんことだ』**
そのあまりにも遅すぎる、そして絶望的な追加情報に、村正の堪忍袋の緒がブチリと音を立てて切れた。
「そういう一番大事なことは、もっと早めに言えよクソジジイ!!」
誰もいない青白い虚空に向かって、村正が怒号を叩きつける。
すると、隣で盾を下ろした武が、一切のブレがない、ひどく真面目な顔つきで口を開いた。
「やめろ、村正。帝は決してクソジジイなんかじゃない……」
「あぁ?」
村正が訝しげに眉をひそめる中、武は大真面目なトーンのまま、静かに訂正した。
「あれは、『イケおじ』だ」
「…………」
絶対的な神の拒絶を突きつけられ、絶望的な死地へと向かう道中。
張り詰めていたはずの月読宮に、あまりにも的外れで真剣な言葉が落ち、一瞬の間抜けな沈黙が支配した。
「……どうでもいいわ!!」
耐えきれなくなったロッキルの鋭いツッコミが、美しい満月の輝く静寂の空間に、虚しく、そして小気味よく響き渡った。
「どうでも良くない」
武は、いっそ清々しいほどの真顔で、ロッキルの悲痛なツッコミを真正面から弾き返した。
「顔がイケてる。……あれは、正真正銘の『イケおじ』だ」
その一切のブレもない眼差しは、いかなる強敵を前にしても決して揺るがない、屈強な盾使いのそれである。大真面目な声色と、状況から完全に乖離した単語。だからこそ、余計にタチが悪かった。
「アンタは……この中じゃ一番まともな奴だって信じてたのに……っ」
ロッキルは頭を抱え、誇り高き亜麻色の尻尾をしなしなと力なく床に垂らした。最後の良心を裏切られたような絶望感が、その小さな背中からひしひしと滲み出ている。
「許してやってくれ、ロッキ~……」
村正はこめかみを指で揉み解しながら、盛大な溜息と共にひきつった笑いを浮かべた。
「武先生はな、こういう極限まで張り詰めた真剣な場面に限って、突然どデカいボケをかます悪癖があるんだ。それも、本人には微塵も『ボケている』っていう自覚がない……」
長年の相棒だからこそ知る、この完璧主義者の致命的なバグ。必死にフォローを入れる村正の顔には、強敵と相対した時とはまた別の、酷く世俗的な疲労感が漂っていた。
しかし、当の武はそんな村正の苦労など意に介する様子もない。
「ボケてなどいない。あれは、イケおじだ」
感情の抜け落ちた能面のような顔つきで、先ほどと一言一句違わぬ主張を冷徹にリピートする。
「うるせぇよ! その出来の悪い『イケオジbot』みたいなの、今すぐやめろ!」
青白い月光が降り注ぐ、絶対零度の静寂に包まれた月読宮。その荘厳な空間に、異界の刀鍛冶の情けないツッコミが虚しくこだまする。世界の命運が懸かっているとは思えない、緊張感の欠落したやり取りだった。
しかし、その弛緩しきった空気を、澄み切った声が鋭く一刀両断した。
「皆さん。……時間が、ありません。早く行きましょう」
ミクトルだった。
静かな、しかし確かな切迫感を帯びた声。彼女の胸元で固く組まれた両手は微かに震えており、その憂いを帯びた瞳は、遥か遠くの死地で今この瞬間も命を削り続けている、ヘレウクレスとリーの無事を痛切に祈っていた。
その一言が、冷水のように少年たちの脳髄を叩き起こし、一瞬で現実に引き戻す。
「……あ、ああ、そうだったな」
村正はハッと表情を引き締め、気合を入れるように己の頬をパンッと軽く叩いた。
先ほどまでの呆れ顔はとうに消え失せ、その瞳には再び、理不尽な運命を叩き斬るための『鋭き刃』の光が宿っている。
「ほら、無駄話は終わりだ。急いで奥へ進むぞ!」
振り返ることなく、村正は漆黒の柱が連なる深淵へと向かって力強く足を踏み出した。
背後に迫る世界崩壊の足音と、仲間の命が尽きるカウントダウンを振り切るように、勇士たちは再び、果てしない神の領域の最深部へと駆け出していった。




