第一部第一章第十三幕 月は影より時を導く
絶望的な推測が玉座の間を重く支配する中、これまで静観を貫いていた神武帝が、水を打ったような静寂を破った。
「――覆せばよい」
あまりにも平坦で、まるで明日の天気を語るかのような何気ない一言。
その響きに、村正は耳を疑ったように顔を上げた。
「……は?」
素っ頓狂な声が漏れる。村正の顔には「この緊急事態に何を馬鹿なことを」という明確な苛立ちが浮かんでいた。絶対的な敗北が約束されているからこそ、英傑二人が命を捨ててまで足止めをしているのだ。精神論でどうにかなる盤面ではない。
そんな村正の鋭い視線を受け流し、神武帝は玉座の肘掛けに静かに身を預けたまま、底知れぬ漆黒の双眸を細めた。
「今は『無い』のだろう? その果実は」
「ああ、だから困ってるんじゃないか! 奴の腹の中に入っちまった以上、もう手の出しようが……」
言いかけて、村正はハッと息を呑んだ。
帝のその口ぶり。決して狂人の戯言ではない。全てを見通した上で、あえてその言葉を盤上に置いているような、不気味なほどの確信がそこにはあった。
「って……アンタ、まさかその口ぶり。何か『策』があるっていうのか?」
「余の祖となる神……主神アマテラスが、かつてこの世から姿を消した。この崩壊しゆく天を支えんがために。……その話は知っておるか?」
唐突な神話の引用。帝の言葉の真意を計りかねながらも、村正は警戒を解かずに頷いた。
「ああ。ニギハヤヒから聞いた。太陽の神が自らを犠牲にして、この世界を繋ぎ止めてるって」
その言葉が落ちた瞬間。
隣で沈思黙考していた武の脳内に、一つの強烈な閃きが走った。彼は雷に打たれたように顔を上げ、帝と、そして己の足元――この巨大な『聖都』そのものへと視線を巡らせた。
「……待て。主神が天を支えるために消えたというのなら、今、この『聖都』を支えている神は……一体誰なんだ?」
武の鋭い指摘に、その場にいた全員の空気がピタリと止まった。
「いるんですか……? 『いない』のではなく……今も、この場所に」
ミクトルが、信じられないものを見るように両手で口元を覆う。
「俺たちが外から来て、英傑たちが前線で戦って守っていると言えばそれまでだ」
武は己の顎に手を当て、冷徹な論理を組み立てていく。
「だが、あのテポーンをはじめとする化け物どもの執拗な侵攻がある中で、この巨大な聖都が狂いなく維持されている。それなのに『要となる神が不在』というのは……少々おかしい気がしていたんだ」
これほどの規模の結界と繁栄を維持するための、莫大なエネルギー源。それが単なる自然の力や残滓であるはずがない。この足元のどこかに、今も聖都の心臓として機能している強大な『存在』が隠されているのではないか。
その推論に行き着いた瞬間、最も大きな衝撃を受けたのは、他ならぬニギハヤヒだった。
疲労で青ざめていた彼の顔に、驚愕の色が浮かぶ。
「では、その隠された神が……テポーンの『勝利』の法則を覆す力を持っているとでも!?」
ニギハヤヒはふらつく足で一歩前に進み出た。長年この聖都の中枢で指揮を執ってきた彼ですら、その事実は完全に伏せられていたのだ。
「しかし……! 我々の知る限り、神話においてあの『勝利の果実』に抗い得る力……相反する権能を手にしている神など――………」
ニギハヤヒの言葉が、絶望の淵を覗き込んだように途切れた。
息の詰まるような重い静寂が玉座の間に降りた、その時。
「……月の神……ツクヨミ」
静かな水面に小石を落としたような、細く、しかしよく通る声が響いた。
全員の視線が一点に集まる。声の主は、村正の背後に隠れるようにして立っていた少女、椿だった。
彼女は皆の視線を一身に浴びてビクッと肩を震わせながらも、絞り出すように言葉を続ける。
「アマテラスが……この聖都の維持を託したのは、ツクヨミだったり……しますか?」
「どういう意味だ?」
武が、戦術家としての冷徹な思考のままに怪訝な顔をした。
「ツクヨミは夜を統べる神だ。俺たちの現状を打破するような、絶対の『勝利』に対抗する権能など持っていなかったはずだが……」
「いや、その………」
真正面から理論で否定され、椿はしゅんと萎縮してしまった。
虚ろだった瞳がさらに伏せられ、組まれた指先が不安げに白く強張る。やはり自分の考えなど浅はかだったのだと、言葉を飲み込もうとした――その刹那。
「椿」
荒々しかった先ほどまでとは打って変わって、春の陽だまりのような、どこまでも温かい声が彼女を包み込んだ。
村正だった。彼は椿の正面に立ち、目線を合わせるように少しだけ身をかがめる。
「お前の考えを、最後まで聞かせてくれ」
「……でも、違うかも……しれませんし……」
「大丈夫だ」
村正は、怯える少女の心の壁を溶かすように、力強く、そして優しく微笑んだ。
「へ……」
「お前が何を言おうと、誰も間違ってるなんて責めない。……いや、俺が絶対に責めさせない。だから――」
村正の瞳には、かつて彼が救おうと足掻き、守り抜こうとした数多の命へ向けてきたものと同じ、絶対的な『守護』の意志が宿っていた。
「お前の言葉で、聞かせてくれ」
それは、目に見えない鋼の鎧となって椿の背中を押した。
村正の真っ直ぐな温もりに触れ、椿の虚ろだった瞳の奥に、ほんの小さな光が灯る。彼女はこくりと頷き、ゆっくりと顔を上げた。
「……はい。……帝さまは、先ほど言いました。『今は無いのだろ?』と」
椿は記憶の糸をたぐり寄せるように、一つ一つの言葉を紡いでいく。
「テポーンの腹の中にあって、現在の私たちには干渉できない。だったら……干渉できる『過去』に行けばいいというお話じゃないかと思って……」
「過去に……?」
「はい。ツクヨミさまは、月齢……つまり『暦を司る神』としても知られています。時間を遡るような御業を持つのも、そうじゃないかな……と」
「……なるほど。月は時の流れを測る道標だ」
武は顎に手を当て、感心したように唸った。だが、すぐに別の疑問を口にする。
「だが、純粋に『時間』を操る神というのなら、もっと適任な神がいる。例えばギリシャ神話のクロノスなどがそうだ。なぜ、あえてツクヨミなんだ?」
武の鋭い指摘。しかし、今の椿はもう俯かなかった。
彼女は村正の背中に守られているという安心感から、自らの内にある『人間の感情』というフィルターを通して神話の理を読み解いていく。
「あ、あとは……アマテラスとツクヨミは、同じ日本の神話体系に属する神で、意思疎通がとりやすい位置にいるからです」
「意思疎通……」
「はい。神話では、ツクヨミはアマテラスの怒りを買い、昼と夜に分かたれたとされています。……でも」
椿はギュッと胸の前で両手を握りしめ、まるで自分と村正たちとの絆を重ね合わせるように、確かな熱を込めて言った。
「どんなに毛嫌いしている仲でも……世界が終わるかもしれない本当の危機の時には、同じ姉弟として手を取ることだって…………出来るんじゃないかって、そう思ったんです」
神々は完全無欠のシステムではない。彼らにも心があり、情があるはずだという、理屈を超えた少女の願いにも似た推理。
「我々がどれほど知恵を絞っても届かなかった解答に、神話すら知らない少女が『情』から辿り着くとは……」
ニギハヤヒ自身も驚きを隠せないでいる。
「…………」
玉座の間に、深い感嘆の沈黙が落ちた。
やがて、村正が真っ直ぐに顔を上げ、玉座の主を鋭く見据える。
「どうなんだ? 帝さま」
神武帝は、肘掛けに乗せていた指先でトントンと静かに玉座を叩き、やがてフッと、口元に微かな笑みをこぼした。
「……身内に手をかけるような、好ましくない神だから余はずっと嫌っておったのだが。まさか、異界の……それもかようなうら若き少女が、たった一つの答えに至るとはな」
それは、椿の推理が完全に的を射ているという、帝からの絶対の肯定だった。
帝の漆黒の瞳が、村正と、その後ろでホッと息をつく椿を交互に見つめる。
「其と、月(少女)は……一体どういった関係なのだ?」
それは神話の謎を解き明かした事への純粋な興味か、あるいは不器用なほどに互いを庇い合う二人の絆への問いかけか。
しかし、村正はその揶揄を含んだ帝の問いを、真剣な表情のまま正面から叩き斬った。
「その言葉、正解と取っていいんだな」
村正の脳裏には、今も瓦礫の中で邪神の雷に焼かれながら耐え忍んでいるヘレウクレスとリーの姿がある。一秒の無駄話すら惜しかった。
「教えてくれ。どこだ……どこに行けば、その『ツクヨミ』に会える!」
村正の悲痛なまでの決意を前に、神武帝はゆっくりと玉座から立ち上がり、聖都のさらに奥深く――決して立ち入ってはならないとされる最深部へと、静かにその視線を向けた。
「目を瞑れ」
神武帝の静かで、しかし一切の抗いを許さない絶対的な言霊が、玉座の間に響き渡った。
村正たちが反射的にまぶたを閉じた、その瞬間――。
フッと、足元の確かな石畳の感覚が消え失せた。
落下しているのか、上昇しているのかすら定かではない。まるで冷たい氷海へと肉体ごと沈み込んでいくような、奇妙な浮遊感と無重力の錯覚。肺を満たしていた白檀の香りはいつの間にか掻き消え、代わりに、骨の髄まで凍てつくような、研ぎ澄まされた冷気が肌を撫でる。
「――なっ!」
唐突に足裏に硬い感触が戻り、村正は弾かれたように目を開き、そして――あまりの光景に絶句し、その場に立ち尽くした。
「驚いたか」
茫然自失の若き刀鍛冶の背後から、帝の平坦な声が静かに響く。
村正の眼前に広がっていたのは、先ほどまでの豪奢な玉座の間でも、戦火と毒雲に焼かれる外の空でもなかった。
見渡す限りの漆黒。星一つ存在しない、完全なる絶対の闇夜。
しかし、その頭上には、世界すべてを青白く照らし出すほどの、狂気的なまでに巨大で美しい『満月』がただ一つ、圧倒的な存在感を放って浮かんでいた。
「ここが、夜見之国……【月読宮】だ」
帝の漆黒の瞳に、頭上の冷酷なまでの月光が反射する。
「表舞台である陽の当たる天へと上がることを決して許されず……こうして光の届かぬ裏側から、人知れずこの聖都と世界を永劫に守護することを強いられし、哀れな神の住まい」
その響きには、同じ神の端くれとしての悼みか、あるいは歴史の残酷さに対する冷徹な諦観か、重々しい静寂が込められていた。
「ここが、月を統べる神――月読命の座す場所よ」
村正は息を呑んだまま、目の前の絶景から目を離すことができなかった。
青白い月光に照らし出され、闇の底に静かに鎮座するその建造物は、帝が口にした『住まい』などという質素な言葉に収まる規模ではなかったのだ。
天を突くほどに高くそびえ立つ、黒曜石のように磨き上げられた巨大な柱の数々。
銀糸を編み込んだように輝く白亜の屋根。一切の生命の息吹を感じさせない無音の空間に、神々しさと途方もない孤独を抱えて佇む、荘厳にして巨大な不可侵の領域。
ヘレウクレスとリーが命を削っている戦場の熱気とは正反対の、絶対零度の静寂がそこにはあった。
「なんつーか……」
村正は、無意識のうちにひどく乾いた唇を舐め、呆然と呟きを漏らした。
「『住まい』ってより……とんでもねぇ規模の、神殿じゃないか」
死の淵で戦う仲間を救うための、最後の希望。
絶対の勝利を運命づけられた邪神の理を、過去へと遡って叩き斬るための奇跡を求め、彼らはついに、神話の影に封じられし月神の領域へと足を踏み入れたのだった。




