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予言書の救世主  作者: 骨山仙人
滞りし新生の旅路
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第一部第一章第二十幕 届かぬ知識と、口伝の希望

ロッキルによって運ばれて抜け出すと、月読宮の絶対的な静寂と冷気から一転し、視界を覆ったのは、黄金に輝く聖都の景色だった。

遠くでは未だ、ヘレウクレスとリーが命を削って稼いでいるであろう『絶望の足音』が微かに響いているように錯覚させられる。

だが、帰還した勇士たちの顔に、もはや迷いや絶望の影はなかった。

「さて……」

村正は肩で一つ大きな息を吐き出すと、乱れた襟元を正しながら、足元で鼻をヒクつかせている白ウサギ――ミユを見下ろした。

ここへ戻還するまでの道中、村正と武の二人は、己たちの記憶の底から『ギリシャ神話』――特に、今まさに立ち向かおうとしている同じ存在であろうテュポーンにまつわる逸話や、神々の歴史について、持てる限りの知識をこの小さな神の使いへと語り聞かせていた。過去へ遡るための、唯一の道標として。

「ここにくるまでの間に、俺と武の知ってる限りの『ギリシャ神話』について語り聞かせてきたわけだが。……どうだ? お前の力で、俺たちが望む過去の座標を『再現』できそうか?」

村正の問いかけに、ミユは長い耳をピンと立て、ルビーのような赤い瞳でじっと彼を見つめ返した。

『クークー』

(あってる。ちがう。すこし……ここは、べつ)

「えっと……」

椿がふわりと身を屈め、ミユの小さな体を優しく抱き上げる。かつての鋭い棘を完全に失い、すっかり穏やかで温かな眼差しを取り戻した彼女は、腕の中の小さな命と波長を合わせ、慎重に言葉を紡ぎ出した。

「『大体は合っているけれど……少し、違うみたい』だそうです。私たちが語った物語と、この子が視ている過去の形が、完全には重なっていないみたいで……」

椿は少し不安げに村正を見上げた。彼女のその視線には、「彼なら絶対にこの状況を打破してくれる」という、すでに確立された深く揺るぎない信頼が満ちている。

「なるほど」

椿の言葉を受け、武が顎に手を当てて深く頷いた。彼の眼鏡の奥で光る知的な双眸が、鋭い考察の光を帯びて周囲の景色――戦火に焼かれ、瓦礫の山と化した聖都ヒエロファニーの惨状を見渡す。

「やはり、俺たちが知識として知っている『史実(現実世界)通りの神話』と、この異世界に深く刻まれた『実際の歴史』との間には、少なからず乖離かいりがあるらしい」

武は、淡々と、しかし事態の核心を突くように言葉を紡ぐ。

「神話とはそもそも、後世の人間が都合よく編纂し、語り継ぐ過程で形を変え、歪んでいくものだ。ましてやここは、俺たちのいた世界とは根幹のことわりからして違う。あの邪神テポーンが『勝利の果実』を喰らったという絶対的な事実がある時点で、既に俺たちの知る世界線とは大きく異なってしまっている」

武の言葉は、冷酷なまでに論理的だった。

「大筋の出来事は同じでも、そこに至るまでの過程や細かな事象……つまり、ミユを使って過去へ跳躍するための『座標の鍵』に、決定的なズレが生じている。入力する情報が異なっていれば、正しい時代へ移動することができないのも仕方ないだろうな」

「……それじゃあ、どうするんだよ」

村正は忌々しげに舌打ちをし、自身の頭をガシガシと乱暴に掻きむしった。

彼の脳裏には、今この瞬間も瓦礫の向こうで命を削り、理不尽な死と戦い続けているヘレウクレスとリーの姿が焼き付いている。ピンポイントで『テポーンが果実を喰らう直前』の過去へ跳ばなければ、この世界を覆う絶対の敗北を覆すことはおろか彼らを救うこともこともできないのだ。

「聞いた話じゃ主神ゼウスが倒されてから、もうかなりの年数が経ってるって話じゃないか。そんな大昔の詳細な出来事を、正確に覚えてる奴なんているのか?」

村正は焦燥感を隠しきれない声で、周囲の虚無を見回す。

「ましてやそこは、とっくに滅びちまった都市だぞ。生き残りを見つけるだけでも至難の業だってのに……正確な『歴史の証人』を探し出すなんて、砂漠で針を探すようなものじゃないか……!」

重苦しい沈黙が落ちる。

椿は、苛立ちと焦りに唇を噛む村正の痛みを我が事のように感じ取り、彼の背中に寄り添うようにして、腕の中のミユをぎゅっと抱きしめた。かつてのように心を閉ざすことはしない。ただ、彼の隣で共にこの絶望を乗り越えようとする、静かで確かな決意がその横顔にはあった。

突破口が見えず、重い空気が一行を包み込もうとした、その時。

「皆さん。……ここはひとまず、ニギハヤヒと合流するのはいかがですか?」

涼やかな、それでいて芯のある声が空気を震わせた。

振り返ると、ミクトルが静かに歩み出ていた。彼女の表情は、周囲の荒涼とした景色の中にあっても、死者の魂をいたわる聖女のようにどこまでも穏やかで、揺るぎない。

「正しい時代へ遡るための術も、歴史の正しい知識も、今の私たちには不足しています。ですが……どちらにせよ、移動するためには、天磐舟あめのいわふねを駆る『彼の力』が必ず必要になるわけですし」

ミクトルの極めて現実的で冷静な提案。

その言葉は、焦りで狭くなっていた村正たちの視界を、スッと押し広げる確かな光だった。

瓦礫の山を越え、灰色の乾いた風が吹き抜ける広場へと足を踏み入れると、ひび割れた大理石の柱に背を預けるようにして待つ青年の姿があった。

過去と現在を繋ぐ天磐舟あめのいわふねを駆る神霊――ニギハヤヒだ。

「皆さん、戻りましたか」

足音に気づいた彼が、静かに顔を上げる。その声は荒涼とした景色の中にあって一際涼やかで穏やかな響きを持っていたが、元より透き通るような肌は普段よりもさらに蒼白く、その目元には隠しきれない深い疲労の色が色濃く落ちていた。

「ニギハヤヒこそ、体調は大丈夫なのか?」

村正が瓦礫を無造作に踏み越えながら歩み寄る。ぶっきらぼうな口調ではあるが、その鋭い眼差しには、無理を押して待っていてくれた仲間への真っ直ぐで不器用な気遣いが滲み出ていた。

「はい。……万全というわけではありませんが、案ずるほどでもありませんよ」

ニギハヤヒは微かに目を伏せ、春風のような薄い微笑みを浮かべて自らの不調を静かに濁した。そして、村正の背後に続く武やロッキル、ミクトル――そして、椿の腕の中に大事そうに抱かれている見慣れぬ白ウサギ(ミユ)へと、思深げな視線を向ける。

「それで……過去へ跳ぶための準備ができたのですか? それとも、何か想定外の事態が起きて、相談でも?」

「実はな……」

村正に代わり、武が一歩前へと進み出た。彼は極めて冷静な手つきで淀みない理路整然とした口調で、今現在の状況を語り始めた。

月読宮での絶対的な拒絶と、思いがけず供物によって開かれた対話の道。

椿の記憶の底から顕現した、ミユという『時の道標』の獲得。

そして――最も致命的な障壁である、自分たちの知る『神話の知識』と、この異世界における『実際の歴史』の間に生じている、決定的な情報のズレについて。

武の説明を聞きながら、ニギハヤヒは一つ一つの事実を噛み砕くように、静かに相槌を打っていた。やがて説明がすべて終わると、彼はフッと痛ましげな息を吐き出し、焼け焦げた空と周囲の虚無たる廃墟をゆっくりと見渡した。

「なるほど……。月読宮で、そんなことが……」

ニギハヤヒの呟きが、重苦しい乾いた風に溶けていく。

時間が惜しい今の状況で、過去へ跳躍するための『座標』が確定できないという事実は、あまりにも重い足枷だった。

ニギハヤヒは、背を預けていたひび割れた大理石の柱からゆっくりと身を離した。

その透き通るような双眸が、焦土と化し、死の灰が季節外れの雪のように舞い散る広大な聖都ヒエロファニーの惨状を静かに見渡す。

「勝者が己の都合よく歴史を編纂するように……この世界は、あの邪神テポーンによって『ことわり』そのものを力ずくで書き換えられてしまっている。ですから、あなた方の知る『知識としての神話』が通用しないのも、無理からぬことなのでしょう」

酷薄な事実を告げる神霊の声は、荒涼とした乾いた風に溶けるように穏やかだった。だが、その言葉が突きつける容赦のない現実は、一行の足元を暗く深い絶望の淵へと引きずり込もうとする。

「じゃあ……どうしろって言うんだよ……!」

たまらず、村正が低く唸るような、血を吐くような声を漏らした。

彼は腰に提げた刀の柄を、てのひらに爪が食い込み血が滲むほどの力でギリッと握りしめる。誰かを救いたい。絶対に助け出さなければならない。その強烈な渇望と、それが叶わないかもしれないという焦燥。自らの命を燃やしてでも他者のために剣を取る、その『不器用で真っ直ぐな在り方』こそが、若き刀鍛冶の魂の根底に流れる本質だった。

「俺たちの持ってる知識が使いモンにならないなら、一体誰から正しい歴史を聞き出せばいいってんだ? 瓦礫をひっくり返して、何千年も前の記憶を持った生き残りを探してる暇なんて、今の俺たちには一秒たりともないぞ……!」

悲痛なまでの叫び。焦りに血走る村正の瞳を真っ直ぐに受け止めながらも、ニギハヤヒは静かに、水面を撫でるような涼やかな動作で首を横に振った。

「わざわざ、悠久の時を生きる『長生きの証人』を探し出す必要などありませんよ」


ニギハヤヒは、痛む胸元をそっと押さえながら、張り詰めた絶望の空気を解きほぐすように

「こういう時には……**『語り手』**を探してみるといいでしょう」

「……語り手?」

村正が目を丸くして聞き返す傍らで。

静かに思考の海へと沈んでいた武が、ハッと鋭い眼光を放って口を開いた。

「なるほど……口承文学こうしょうぶんがくか」

武は静かに腕を組み、切れ長で知的な瞳をスッと細める。

研ぎ澄まされた洞察力が、事態の核心を正確に貫く様が際立っていた。常に冷静沈着に戦況を見極める彼らしい、鮮やかな思考の飛躍。

「どれほど権力者が歴史の書物を焚書ふんしょし、邪神が世界の理を根底から書き換えようとも……人々の口から口へ、親から子へと語り継がれる『歌』や『物語』までは、完全に根絶やしにすることはできない。事実が歪められていようとも、そこには必ず、真実に繋がる『原典の欠片』が息づいているはずだ」

武の冷徹で理路整然とした分析に、ニギハヤヒが深く頷く。

「その通りです。真実を直接その目で見た者はとうの昔に絶えていても、その真実を『物語』として唄い継ぐ吟遊詩人や、街の語り部であれば……この荒れ果てた世界にも、まだしぶとく生き残っているはずですから」

「……つまり、何千年も前の生き残りを探すんじゃなくて、この世界の『神話』を語り継いでる奴を見つければいいってことか」

村正の強く握りしめていた拳から、僅かに力が抜けた。

完全に塞がれ、打ちひしがれそうになっていた絶望の壁に、一筋の確かな光明が差し込んだ瞬間だった。

「ええ。彼らの語る物語の欠片をかき集め、このウサギの力でパズルのように繋ぎ合わせれば……必ず、あなた方が望む過去への道標(座標)は定まるはずです」

ニギハヤヒの言葉に呼応するように、椿の腕の中に抱かれたミユが『クークー』と、頼もしげに小さく鳴いた。

死の灰が降り注ぐ荒涼たる廃墟の中で、絶望に染まりかけていた一行の瞳に、再び理不尽な運命を叩き斬るための『反逆』の炎が、力強く灯り始めた。


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