天城緋鷹
夕陽が街を赤く染めていた。
三人は断界戦線本部の屋上に登ってきていた。
吹き抜ける風がフェンスを揺らし、空には茜色の雲が流れている。
迅は自販機の前に立つと、迷うことなくブラックコーヒーのボタンを押した。
缶が落ちる音が屋上に響く。
「蒼真もブラックでいいか?」
その横で蒼真は腕を組みながら唸っていた。
「……どうした」
迅が缶を取り出しながら聞く。
「いや」
蒼真は自販機を見つめたまま言った。
「俺カフェオレでもいいですか?」
少し沈黙が続いてから答える。
「好きにしろ」
蒼真は言葉を探すように黙り込んだ。
「なんかこう……」
蒼真は少し気まずそうに頭を掻く。
「ブラック飲めないと子供っぽくないですか?」
「子供だろ」
「うるさいです」
即答されて蒼真は眉をひそめた。
自販機の前で考えた後、結局蒼真はカフェオレのボタンを押す。
蒼真が缶を取り出したところで、迅はもう一本ブラックコーヒーを買った。
そして振り向きもせずに後ろへ放り投げる。
飛んできた缶を時夜が片手で受け取った。
「雑だな」
「取れるだろ」
「そういう問題じゃないんだよ」
時夜は小さくため息を吐く。
三人はフェンス際まで歩いた。
夕陽が街並みを照らしているのが見える。
蒼真が缶を開けると、甘い香りが漂った。
一口飲み、満足そうに表情を緩める。
「うま」
「ガキだな」
「だからうるさいですって」
蒼真が迅に言い返した後、二人とも少しだけ真面目な顔になった。
沈む太陽の光の中、冷たい風が頬を掠める。
蒼真は夕焼け空を見上げたまま口を開いた。
「あの」
迅が視線だけ向け、時夜も黙って聞いている。
蒼真は少し間を空けて言った。
「俺の兄ちゃんって」
二人の表情が僅かに変わる。
「名前、なんて言うんですか?」
迅は缶コーヒーを一口飲んだ。
そして静かに蒼真に振り向きながら答える。
「……天城緋鷹」
蒼真はその名前を繰り返した。
「……緋鷹」
初めて聞く名前だった。
自分の兄の筈なのに、名前すら知らない。
「天城緋鷹……」
その名前を口の中で転がす。
不思議な感覚だった。
知らないはずなのにどこか懐かしい気がしていた。
「どんな人だったんですか」
迅と時夜は顔を見合わせる。
先に口を開いたのは迅だった。
「うるさい奴だったよ」
「え?」
蒼真が思わず聞き返す。
「うるさい?」
「ああ」
迅は即答した。
「うるさかったな」
時夜も頷く。
「本当にうるさい」
「なんですかそれ」
蒼真は思わず笑ってしまった。
「常に誰かと喋っていたな」
時夜が言う。
「静かだった記憶がほとんどない」
「初対面でも、相手が魔獣でも、あいつは平気で話しかける」
迅が続けた。
「敵にもですか?」
訝しむように蒼真が聞いた。
「敵にもだ」
迅は即答する。
「というかあいつは敵を助ける」
「は?」
「何回もだ」
蒼真は目を丸くした。
「魔獣ですよね?」
「魔獣だな」
蒼真が理解できなさそうに迅に尋ねる。
「……じゃあなんで助けるんですか?」
「助けたいからだろ」
迅は当然のように言った。
蒼真は呆れたように笑う。
「意味分かんないですね」
「俺達も最初はそう思ったよ」
時夜が珍しく苦笑した。
「何度怒られてもやめなかったしな」
「馬鹿じゃないですか」
「馬鹿だったな」
三人の間に少しだけだが笑いが生まれる。
蒼真の知らない兄が頭の中で形になっていくのを感じた。
「壱番隊ってどんなんだったんですか?」
今度は時夜が吹き出す。
「どうしたんですか」
「いや」
時夜は笑いを堪えながら言った。
「問題児の集まりだったなぁって」
「今の弐番隊より?」
「比べるな、今の弐番隊がまともに見えるくらいだ」
迅が反射的に答える。
「マジですか?」
「大マジだ」
「よく存続してましたね」
どこか懐かしげに空を見つめた。
「隊長が緋鷹だったからだ」
遠い記憶を辿った迅は壱番隊の頃を思い出し、少し口元を緩める。
「あいつ以外じゃ無理だったな」
蒼真は少し考えた。
「そんなに強かったんですか」
「ああ」
迅が答える。
その声に迷いはない。
「俺が見てきた中で一番強い」
時夜も静かに頷いた。
「同感だ」
蒼真はその返答に少し驚く。
この二人がここまで言う相手が自分の兄だなんて信じられなかった。
「兄ちゃんの技能はどんなのでした?」
二人に質問を投げかけた途端、二人ともの顔から笑みが抜け落ちる。
迅と時夜は黙っていた。
蒼真はその光景に首を傾げる。
「どうしたんですか」
「分からん」
迅が答えた。
「え?」
「分からないんだ」
「見たことはあるんですよね?」
「ああ、何回も見た」
時夜も続く。
「だが何度見ても分からなかったんだ」
迅は少し考えた。
「あいつが動くと、気付いたら魔獣が倒れているんだ」
時夜が迅の言ったことに続ける。
「瞬きしたら別の場所にいるんだ。だから何が起きたのか俺達には説明できない」
「じゃあシンプルに速い技能とかじゃないんですか?瞬間移動とか」
「知らん、でもあの動きを速いだけでは表現できない」
時夜は肩を竦めた。
「確か緋鷹も教えてくれなかった」
蒼真はますます意味が分からなくなり、一旦忘れることにした。
「欠点とかはあったんですか?」
「あったな、よく一人で抱え込む」
迅が言ったことに、時夜も頷く。
「何でも一人で背負って、相談しないし誰も頼らない。それで勝手に全部やろうとする」
蒼真は少し黙った。
なんとなくそれだけは嫌な予感がしていた。
「……死んだ時もですか?」
迅も時夜も答えようとしない。
代わりに迅が別の話を始めた。
「あいつはお前の話ばかりしていたな」
蒼真が顔を上げる。
「俺ですか?」
「ああ」
迅は少し笑った。
「会う度会う度、弟自慢だ」
時夜の表情に、懐かしさだけが淡く滲む。
「蒼真は優しい、蒼真は強くなる、蒼真なら大丈夫だ……そんな話ばかりだった」
蒼真は何も言えなくなった。
顔も知らない。
声も知らない。
話した記憶もない。
それでもずっと、兄は自分を愛していた。
その事実は蒼真の胸に突き刺さるものがあった。
「最後は」
蒼真が静かに聞く。
「どんな感じだったんですか」
夕陽が沈み始めた。
迅の目が記憶をなぞるように細くなる。
「あの日か」
夕暮れの静けさを壊さぬまま、風だけが通り過ぎていった。
「俺達はあの日、緋鷹に逃がされた。あいつはまた抱え込んであの場に一人で残る選択を取ったんだ。それで俺にまだ物心も付いていないお前を託した」
蒼真は黙って聞いている。
「そして」
迅は続けた。
「最後に一度だけ、お前の手を握っていた」
蒼真は自分の手を見る。
もちろん覚えているはずがない。
「何か言ってましたか」
迅は少しだけ黙った。
迅の瞳に夕陽が映る。
「ああ、いつかお前には話さなければいけないと思ってた」
迅は蒼真の顔を見たまま、何かを噛み締めるように吐き出した。
「頼んだぞ、だそうだ」
その言葉だけは、今でも忘れていない。
忘れることの出来ない言葉だった。
蒼真は小さく頷く。
そして最後に聞いた。
「兄ちゃんはどうやって死んだんですか」
迅はまた答えなかった。
時夜も視線を落としている。
その沈黙だけで蒼真にとっては十分だった。
蒼真はそれ以上、二人に緋鷹のことを尋ねようとは思っていなかった。
夕陽が地平線の向こうへ沈んでいく。
空は深い赤に染まっていた。




