第20話 初めての、外の世界
朝から、神殿の玄関前が騒がしかった。
ミアが俺の廊下を三往復している。
何かを持っては戻り、また持っては戻り。
「お家様、お弁当は持った方がいいですか? あと、上着は? 外って、どのくらい寒いんですか?」
(……今は暖かい季節だ。上着はいらない。弁当はアイテムボックスから出せる)
俺は柱を一度鳴らした。
ミアは「そっか!」と言って、持っていた荷物を全部置いた。
ルカは既に車の周りをぐるぐる歩き回っている。
昨日から三回は「明日、乗れる?」と確認しに来た。
カシムは帳簿を三冊と、サンプル用の小瓶をいくつか革袋に詰めながら、俺の柱に話しかけていた。
「お家様、今日は私が商談の全権を担います。ミア様とルカ様は外の世界に慣れていらっしゃいませんから、くれぐれも驚いても飛び出さないよう……まあ、車の中にいれば安全ですが」
カシムは一瞬だけ真顔になった。
「お家様、念のため申し上げておきますが。今日のこれは、一般の行商ではありません。アイテムボックス完備、魔導自走車、上空にドローン護衛付き。……普通の行商人がこれを見たら、泣きますからね。絶対に、外でこれが当たり前だと思わないよう、お二人によくよく言い聞かせておいてください」
(……分かった)
俺は柱を鳴らした。
カシムは満足げに頷いて、革袋を肩にかけた。
さて、出発前にもう一つ。
俺が格納スペースの扉を開けると、ドローンがゆっくりと浮き上がった。
今日は上空護衛として並走する予定だ。
意識を二つに分ける。
家の俺は村を守る。
ドローンの俺は空を行く。
車の俺は……運転する。
(……三分割か。並列思考も板についてきたな)
◇
城門が開いた瞬間、ミアの肩がぴくりと上がった。
彼女は助手席から、外の世界を静かに見ていた。
城壁の外。
石畳が途切れて、街道の土の道が始まる。
左右に森が続いていて、木漏れ日が地面に模様を作っている。
「……外だ」
ミアが、小さくそう言った。
ルカが後部座席から身を乗り出した。
「お姉ちゃん、見て! 木がいっぱい!」
「……うん」
ミアの返事は短かった。
でも、その目がじっと森を追いかけているのが、俺には分かった。
この森を、二人は走ったことがある。
雨の中を。泥の中を。ルカを抱えて、終わりのない夜を。
今は、同じ森が窓の外でゆっくり流れていく。
濡れていない。冷たくない。怖くない。
ミアが窓に手を当てた。
「……綺麗だね、ルカ」
「うん」
二人が並んで、同じ景色を見ていた。
チャリン。
【通知:家人の幸福感によるBP還元 ――+10BP】
(……走るだけでBPが出た。これは良い)
カシムが助手席から身を乗り出して、帳簿を開いた。
「お家様、最初の立ち寄り先は東の街道沿いの集落でよろしいですか。お家様が訪問した貧しい村は、そこからさらに北に二時間ほどです」
(そうしよう)
俺はエンジン音を少し上げた。
◇
最初の集落に差しかかった時、街道脇の茂みが揺れた。
俺のセンサーが反応する。
魔物ではない。
大きな、灰色の影。
(……あいつか)
サロン狼だ。
彼は街道の端に悠然と座って、こちらを見ていた。
その毛並みは今日も艶やかで、朝の光を浴びてきらきらしている。
「あ! お狼さん!!」
ルカが窓を叩いた。
サロン狼は立ち上がり、車と並走し始めた。
四本足でこともなげに車と同じ速度で走りながら、こちらをちらりと見た。
「……ついてきてる!!」
「本当だ。……お家様、狼さんも一緒に行くんですか?」
(……そのつもりらしい)
俺はドローンで上空から見下ろした。
車と、並走する狼と、空のドローン。
(……初期メンバーが揃ったな)
チャリン。
【通知:仲間との同行によるBP還元 ――+10BP】
カシムが苦笑いした。
「……狼まで連れて行商とは。本当に、普通ではありませんな。カッカッカ」
◇
集落に入ると、住民たちが車を見て一斉に固まった。
「な、なんじゃあれは」
「馬のいない馬車が……」
「しかも、上に変な鳥が飛んでる!」
ドローンの俺が上空からゆっくりと旋回すると、集落の老人が目を細めた。
「……あの飛ぶやつ、見たことがある」
「え、本当に?」
「ああ。先週、街道で盗賊に囲まれた馬車を助けたって話、聞いたろ。あれじゃないか」
噂は広がっていたらしい。
カシムが車から降りて、にこやかに手を挙げた。
「皆さん、ご安心ください。私どもはカザン村、聖域の者です。今日は通りがかりに立ち寄らせていただきました」
「聖域の……!?」
その言葉で、住民たちの表情が変わった。
カザン村の噂は、この集落にも届いているようだ。
カシムが手際よく荷物を広げ始める。
俺はアイテムボックスから食料と薬草パックを取り出して、カシムの前に並べた。
「おお……! またどこからともなく!」
「これがお家様の魔法か……」
住民たちが口々に言いながら、恐る恐る近づいてくる。
その間、ミアとルカは車から降りて、集落をそっと歩いていた。
ミアが、水汲みをしていた女の子と目が合った。
女の子は、ミアと同じくらいの年齢だ。
でも、手がひび割れていて、顔が疲れている。
ミアはしばらくその子を見ていた。
(……分かるんだろうな)
あの夜、ミアの手もひび割れていた。
川で洗い物をして、冷たい風に晒されて、乾くたびに痛んでいた。
ミアが女の子に近づいた。
「……こんにちは」
「……こんにちは」
女の子が、警戒しながら答えた。
「手、痛くない?」
女の子が驚いたように俯いた。
「……痛い、けど。普通だから」
「普通じゃないよ」
ミアがアイテムボックスから、高保湿の美容液を一本取り出した。
カザン村のサロンで使っている、あの小瓶だ。
「これ、塗ってみて。すぐに楽になるから」
女の子が恐る恐る受け取って、一滴だけ手に落とした。
数秒後。
「……あ」
女の子の目が丸くなった。
「……痛くない。なんで? なんで急に……」
「お家様の魔法だよ」
ミアが笑った。
チャリン。
【通知:家人による善意の提供 ――+50BP】
(……ミア、いつの間にか一人前の「お家様の使者」になってるじゃないか)
俺は少しだけ、誇らしい気持ちになった。
◇
集落を出て、さらに街道を東へ進む。
ルカが後部座席でうとうとし始めた。
カシムが帳簿に何かを書き込んでいる。
ミアは窓の外をずっと見ていた。
しばらくして、前方に街の外壁が見えてきた。
「……わあ」
ミアが息を呑んだ。
カザン村より大きい。
城壁の向こうに、建物が密集していて、煙突から煙が立ち上っている。
街道の入り口には、行商人の列が並んでいる。
「……人がいっぱいいる」
「そりゃあ、街ですからな」
カシムが帳簿から顔を上げた。
「ミア様、街に入る時は、くれぐれも財布に気をつけてください。それと、知らない人についていかないこと。あと、私から離れないこと。商談中は口を挟まないこと。笑顔は常に保つこと。ルカ様は――」
「分かりました、カシムさん」
「まだ言い終わっていませんが」
「全部分かりました」
ミアが笑った。
ルカが目を覚まして、窓に顔を押しつけた。
「……すごい。人がいっぱいだ。あの人、何してるの?」
「売り物を並べてるんだよ」
「あの食べ物、なに?」
「さあ……お家様、あれ何ですか?」
(……焼き魚だよ)
俺は柱を鳴らした。
「焼き魚! 食べたい!!」
「ルカ、後でね」
◇
街の中心部に差しかかった時、前方から馬車が近づいてきた。
品のある馬車だ。
紋章が入っている。
俺のデータベースが照合する。
【照合:ヴァンクール子爵家】
(……来た)
馬車が止まった。
窓が開いて、顔が出た。
若い女性。
こちらを見て、目を丸くしている。
「……あの、もしかして」
彼女は俺(車)を見て、上空のドローンを見て、並走するサロン狼を見た。
「先日、街道で助けていただいた……あの、不思議な飛ぶものと、同じ方ですか?」
カシムが車窓から顔を出して、にこやかに答えた。
「左様でございます。私どもはカザン村、聖魔導居住圏の者でございます。先日はドローンがご迷惑を……いえ、お役に立てたようで何よりです」
リディアは少し驚いた顔をしてから、馬車から降りてきた。
彼女はカシムではなく、車全体に向かって頭を下げた。
「……改めて、お礼を申し上げます。あの時は本当に、助けていただきました。おかげで無事に目的地まで辿り着くことができました」
その礼儀正しさに、ミアが少し背筋を伸ばした。
チャリン。
【通知:救助への感謝によるBP還元 ――+180BP】
「実は、お礼をしたいとずっと思っておりました。よろしければ、私どもの屋敷にお立ち寄りいただけませんか。父も、ぜひお礼がしたいと申しております」
カシムの目が光った。
(……カシム、落ち着け)
俺は柱を一度鳴らした。
(……行こう)
カシムが恭しく頭を下げた。
「喜んでお伺いいたします、リディア様」
◇
ヴァンクール子爵の屋敷は、街の中心に近い場所にあった。
カザン村の神殿商館と比べれば小さいが、それでも立派な石造りの建物だ。
ミアが車を降りて、屋敷を見上げた。
「……大きい」
「カザン村の方が大きいですよ」
カシムが耳打ちした。
「そ、そうなんですか」
「ええ。ミア様は、すでに王国でも有数の建物に住んでおられます。胸を張ってください」
ミアが少しだけ、誇らしそうな顔をした。
屋敷の中に通されると、初老の男性が出迎えた。
ヴァンクール子爵本人だ。
彼は一行を見て、サロン狼を見て、ドローンが屋敷の外でホバリングしているのを見て、少し固まったが、すぐに笑顔を作った。
「……ようこそ。リディアが大変お世話になりました」
カシムが前に出た。
「ローゼルス伯爵家とも懇意にしております、カザン村の者でございます」
ローゼルス、という名前を聞いた瞬間、子爵の表情が変わった。
「……ローゼルス伯爵家と?」
「左様です。エレノア夫人には、定期的にお越しいただいております」
子爵が、カシムをじっくりと見た。
それから、俺(車)を見た。
それから、上空のドローンを見た。
「……なるほど。あの噂の『聖域』か」
彼は深く頷いた。
「リディアが助けていただいたこと、改めて感謝いたします。何かお礼ができれば……」
カシムが革袋から小瓶を取り出した。
「では、こちらをぜひ。奥様と、リディア様に」
高保湿の美容液だ。
透明な小瓶に、均一に詰められた液体。
リディアが受け取って、一滴だけ手に落とした。
数秒後。
「……これ」
彼女の目が丸くなった。
「……先日、あの、不思議な飛ぶもの……に助けていただいた時から、肌の調子が良くて……もしかして、あの時も?」
(……スタン砲の煙に美容成分でも混ざったか?)
(いや、それはない。ただ制圧しただけだ)
俺は少し首を傾げた。
「……こちら、エレノア夫人も愛用されているのですか?」
「左様でございます」
リディアの頬がほんのり赤くなった。
「……あの、お父様。私、カザン村に伺ってみたいのですが」
子爵が苦笑いした。
「……またリディアに振り回されそうだな」
チャリン、チャリン。
【通知:新たな上客候補の獲得 ――+250BP】
【通知:貴族間ネットワークの強化 ――+300BP】
(……カシム、やるじゃないか)
◇
屋敷を出たのは、夕方近くだった。
街の外れで、見覚えのある顔があった。
先日ドローンが助けた冒険者パーティだ。
四人が街の入り口付近で装備の手入れをしていた。
一人が顔を上げて、車を見て、上空のドローンを見て、固まった。
「……あの飛ぶやつ」
「え?」
「先週、森で俺たちを助けてくれた、あの飛ぶやつだ。あの車と一緒にいる」
四人がこちらを見ていた。
俺はドローンの機体を一度だけ上下に揺らした。
冒険者たちが顔を見合わせた。
「……覚えててくれたのか」
負傷していた冒険者が、包帯の巻かれた腕を軽く上げた。
「薬、助かりました。おかげで化膿しなかった」
チャリン。
【通知:再会による感謝 ――+120BP】
ミアが車窓から顔を出した。
「あの、お家様が先週助けた方ですか?」
「お家様……? あの飛ぶやつの?」
「はい。私たちの家が、不思議な形で飛んでるんです」
冒険者たちがまた顔を見合わせた。
「……家が飛ぶのか」
「家が車にもなるのか」
「……その村、どうなってるんだ」
カシムが窓から顔を出した。
「聖魔導居住圏カザン村です。よろしければ、いつでもお越しください」
冒険者の一人が、ぽかんとした顔のまま頷いた。
◇
帰路の車内は、行きよりずっと賑やかだった。
ルカが焼き魚を両手に持って、満足そうに食べている。
カシムが帳簿に数字を書き込みながら、満足げに鼻歌を歌っている。
サロン狼が窓の外を並走しながら、時々こちらを見ている。
ミアだけが、少し静かだった。
俺は気になって、車内の空気をそっと読んだ。
悲しんでいるわけじゃない。
怖がっているわけでもない。
ただ、何かを考えている。
夕暮れの街道を走りながら、ミアが口を開いた。
「……お家様」
(……なに?)
俺はエンジン音を少し落とした。
「今日、あの集落で、あの子に会ったじゃないですか。手がひび割れてた、私と同じくらいの歳の子」
(……うん)
「あの子、『普通だから』って言ってたんです。痛いのが普通だって」
ミアが窓の外を見た。
「私もそう思ってた。お家様に会う前は。痛いのも、寒いのも、怖いのも、全部普通だって思ってた」
(……そうだったな)
「でも、普通じゃなかったんですよね」
ミアが振り返って、俺を見た。
「お家様が、教えてくれたんです。普通じゃないって。もっと良くなれるって」
チャリン。
【通知:家人の深い感謝 ――+200BP】
俺は何も答えなかった。
ただ、車内の温度をほんの少しだけ上げた。
ルカが焼き魚から顔を上げた。
「……あったかくなった」
「……うん」
ミアが微笑んだ。
城壁が見えてきた。
夕日を受けて、白亜の壁がオレンジ色に染まっている。
城門が開く。
住民たちが「おかえりなさい」と手を振っている。
サロン狼が一度だけこちらを見て、森の方へ走っていった。
また明日、納品に来るのだろう。
ルカが窓から顔を出した。
「ただいまー!!」
「ルカ、顔出しすぎ」
「いいじゃん!」
カシムが帳簿を閉じながら、満足そうに言った。
「本日の商談、大変実りある一日でございました。ヴァンクール子爵家との繋がり、冒険者パーティとの縁、そして……」
彼は少し間を置いた。
「ミア様とルカ様が、外の世界を自分の目で見た。これが一番の収穫かもしれません」
ミアが少し驚いた顔でカシムを見た。
「カシムさんにしては、珍しいことを言いますね」
「私だって、たまにはいいことを言いますよ。カッカッカ」
俺は車を格納スペースへと収めた。
意識が、ゆっくりと「家の俺」へと戻っていく。
石畳の温度。
住民の気配。
夕食の匂い。
(……良い一日だったな)
俺は満足げに、梁を一度だけ鳴らした。
――トン。
外は広い。
でも、ここが一番落ち着く。
ミアとルカが、玄関をくぐっていく。
翌朝。カシムが珍しく、帳簿ではなく一枚の書状を手に持って現れた。
「お家様。……少し、よろしいですか」
ミアとルカがまだ眠っている時間帯だ。カシムは声を落として、俺の大黒柱に向き直った。
「王都から、古い知人を通じて情報が入りました。カミール子爵の息のかかった商人が、王都の物資流通に食い込みつつあるようです。……このまま放置すれば、いずれカザン村への物資ルートを絞られる可能性があります」
俺は梁を一度鳴らした。
「ローゼルス伯爵家の庇護は、確かに強い。……ですが、それは領地の話です。王都では、別の力学が動いています。伯爵家の名だけでは届かない場所が、まだある」
カシムが書状を折りたたんだ。
「先手を打ちましょう。王都に、お家様商会の拠点を作る。そうすれば、誰も流通の首根っこを掴むことはできません」
俺は少し考えた。
カザン村の暮らしは安定している。ミアとルカも笑っている。このままでいい、という気持ちもある。
だが、守るためには、攻めなければならない時がある。
(……行くか)
俺は石畳を、力強く一度だけ温めた。
「……承知いたしました」
カシムが小さく頷き、帳簿を開いた。
「ミア様とルカ様には、王都見物として話しましょう。……あのお二人、外の世界をまだ知りませんから。それも、悪くない理由です」




