第10話 賢者の家の「超・生活体験」
カーテンの隙間から差し込む朝日ではなく。
寝室の天井全体が、乳白色の淡い光を帯びて「ほのかに明るくなる」ことで、ミアは目を覚ました。
昨晩、俺が設定した【擬似日光・覚醒照明】だ。
「……ん、えっ……!?」
ミアが布団から這い出した瞬間、彼女の身体を襲ったのは、いつもの「拒絶」ではなかった。
これまでの朝は、肺に刺さるような冷気を吸い込み、震えながら薪を焚べ、凍ったような床板に恐る恐る足をつくのが、この世界で生きるための「最初の苦行」だった。
冬の朝、喉の奥がヒリつくような冷気の中で目を覚ますたび、彼女は「今日もまだ生きている」という安堵と同時に、終わりのない重労働への絶望を味わってきたのだ。
だが今は、室温は完璧な春の陽だまりのように管理されている。
裸足で踏みしめるフローリングからは、ほんのりと吸い付くような温かみすら感じた。
それは、厳しい冬に支配されたこの異世界では、王族ですら味わえない「無風の春」だった。
「あたたかい……嘘みたい。ねえ、ルカ、起きて! お部屋が……お部屋が冬じゃないわ!」
隣のベッドで丸まっていたルカも、寝ぼけ眼で起き上がった。
二人は、昨日までとは「密度」が違う、絹のように滑らかな壁や、角がすべて丸く加工された美しい家具を、信じられないものを見るような手つきで撫で回した。
「お姉ちゃん、壁が……ツルツルしてる。トゲが刺さらないよ」
「ええ、本当ね。隅から隅まで、磨き上げられた宝石の中にいるみたい……」
二人は、夢遊病者のような足取りでリビングへと向かった。
キッチンに立ったミアが、俺の教えた通りに、銀色に輝く蛇口を捻る。
鏡のように自分の顔が映るほど、磨き上げられた蛇口だ。
「…………っ!!」
ドバババッ! と勢いよく溢れ出したのは、一点の濁りもない、宝石のように透明な水。
そして数秒後には、心地よい湯気を立てる「温水」に変わった。
ミアはその場に立ち尽くし、流れるお湯に両手を浸して震えていた。
彼女の指は、長年の水仕事でひび割れ、赤く腫れていた。
冷たい水に触れるたびに痛みが走るその指を、温かいお湯が優しく包み込んでいく。
(トントン!)
俺は「さあ、顔を洗え」と優しく床を鳴らす。
「家さん……これ、本当にお湯よね? 魔法使い様が一生懸命火を焚いてくれているわけじゃないのよね……?」
ミアにとって、お湯とは「重い桶を抱えて川へ行き、氷を割って水を汲み、斧を振って硬い薪を割り、何十分も火の番をして、煙に目を痛めながらようやく得られる貴重品」だった。
お湯が手に入るのは、誰かが病気になった時か、数週間に一度の、煤けた桶での行水の時だけだ。
それが、指先一つの操作で、無限に溢れてくる。
ミアは震える手でそのお湯を掬い、顔を埋めた。
「ああ……あったかい……っ。身体の中まで、溶けていくみたい……」
彼女は泣きそうになりながら、その温かい水で顔を洗い、ルカの顔も拭いてやった。
ルカもまた、お湯の感触に驚き、子猫のように目を細めている。
「……あたたかくて、気持ちいいね。お姉ちゃん。お顔がポカポカするよ」
「ええ。……神様でも、こんなに贅沢な朝は過ごしてないんじゃないかしら。……ねえ、家さん。私、こんなに幸せでいいの? 罰が当たったりしない?」
ミアの不安げな問いかけに、俺は優しく扉を「バタン」と閉めて応えた。
罰なんて当たるか。これは、俺が勝ち取ったBP(報酬)の結果なんだ。
朝食の後、ミアはいつもの癖で、昨日のうちに汚れた服を抱えて凍りついた川へ行こうとした。
だが、俺は脱衣所のドアをガタガタッ! と鳴らして彼女を止めた。
俺が示したのは、壁に埋め込まれた銀色のドラム。
――【魔導式・全自動洗濯乾燥機】だ。
「ここに……入れるの? こんなに綺麗な箱の中に、泥だらけの服を?」
ミアは、自分の薄汚れた服をその「高価そうな装置」に入れることを躊躇った。
だが俺がスイッチをピカピカ光らせて催促すると、彼女は恐る恐る服を放り込み、指示通りにボタンを押した。
グォォォ……と静かな重低音が響き、中でお湯と洗浄泡が踊り始める。
「わあ! 泡がいっぱい! お洋服がダンスしてるみたい!」
ルカが窓にかぶりついて、回転するドラムを眺める。
ミアはその横で、洗濯機が放つ微かな振動を、魔法の儀式を見守るような敬虔な面持ちで見つめていた。
彼女にとって洗濯とは、腰を曲げて石に服を叩きつけ、手の皮が剥けるまで擦り洗いをする「重労働」だったのだ。
一時間後、電子音が鳴り、取り出された服をミアは手に取った。
「……うそ。叩いてもいないのに、泥汚れが一つもない。……それに、冷たくない。あたたかくて、綿毛みたいに柔らかい……」
ミアはその服を顔に押し当てた。
柔軟剤の淡い香りと、乾燥機で蓄えられた温もりが彼女を包む。
「……川で洗うと、乾いてもゴワゴワして痛かったのに。これは……まるでお日様そのものを着ているみたい……」
彼女はその服を胸に抱きしめ、しばし言葉を失った。
家事という名の「苦行」を、俺が完全に奪い去ったのだ。
ミアの目からこぼれた一滴の涙が、乾いたばかりの服に吸い込まれた。
昼食の時間、ミアは俺が用意した【セラミック・スライサー】と【ステンレス包丁】の虜になっていた。
サクッ。サクサクサクッ。
これまで彼女が使っていたのは、錆び付いて刃こぼれし、力任せに押し切らなければならない鉄の板のようなものだった。
それが今、硬い根菜が、まるで見えない魔法の刃で切られたように薄く、完璧な等間隔に並んでいく。
「これ……私が上手くなったのかしら。吸い込まれるみたいに切れるわ。お野菜が、自分の意思で切れていくみたい……」
さらに、俺は彼女に【電子レンジ(風)加熱ボックス】を披露した。
昨日の残りのシチューを入れ、ボタンを押す。
チーン!
立ち上がる湯気に、ミアは飛び上がらんばかりに驚いた。
火を使っていない。煙も出ていない。
なのに、冷え切っていた陶器の器まで、心地よい熱を帯びている。
「火にかけてないのに、中までアツアツよ……!? 魔法よ、これは本当に家さんの魔法だわ……!」
ミアとルカは、俺がBPで生成した「ふっくら炊き上がった白米」と、肉汁が溢れ出す「ハンバーグ」を口にした。
この世界のパンは硬く、肉は筋張って臭みが強いのが当たり前だ。
「……んんぅ! 美味しい! 昨日の黒いお菓子も凄かったけど、このご飯、噛むと甘いわ!」
「お肉も、お外で焼くよりずっと柔らかいね! ほっぺたが落っこちちゃうよ!」
二人の瞳から、異世界での「飢えの恐怖」が完全に消え、代わりに豊かな幸福感が宿っていく。
その幸福感は、即座に俺のBPへと変換され、さらに家を強固にするエネルギーとなった。
午後、俺は二人に「掃除」すらも娯楽に変えてやった。
俺が生成したのは、魔導式のハンディクリーナーだ。
「家さん、この魔法の筒は……?」
ミアがスイッチを入れると、ルカがこぼしたパン屑がシュッと吸い込まれて消える。
「わあ! 食べられちゃった! どこに消えたの!?」
ルカが面白がって掃除を手伝う。
これまでは、硬い箒で土埃を舞い上げ、咳き込みながら格闘していた掃除が、今や楽しいゲームのようだ。
家の中には埃一つ落ちておらず、空気は常に清浄に保たれている。
喘息気味だったルカの呼吸も、驚くほど深く、静かなものになっていた。
そして夜。
俺が最も心血を注いだ【大理石のジェットバス】のお披露目だ。
「きゃあああああ! お湯の中に泡が……! 下からボコボコしてる!」
ルカの叫び声が響く。
ミアも、広い浴槽に肩まで浸かり、身体の芯まで解きほぐされる快感に、意識が遠のきそうになっていた。
これまでは、一生に数回しか味わえないはずの「極上の安らぎ」。
それが、日常のルーチンとして組み込まれている。
「……私、もう、お外では暮らせないかもしれない……」
ミアがぽつりと呟いた。
それは単なる怠惰ではない。
これだけの技術を享受し、清潔な身体を手に入れた彼女たちが、再び泥にまみれた過酷な生活に戻ることは、精神が、そして本能が拒否しているのだ。
彼女たちの肌は、わずか一日で驚くほど白く、瑞々しく輝き始めていた。
入浴後、二人は俺が用意した【最高級羽毛布団】と、身体の形に合わせて沈み込む【低反発マットレス】に身を沈めた。
「……おやすみなさい、家さん。……ありがとう。本当にありがとう」
「……おやすみ、お家……。また明日、お湯、出るよね……?」
二人の穏やかな寝息が聞こえてくる。
明日もお湯は出るし、もっといいものを用意してやる。
俺は、彼女たちが眠った後、窓の防衛シールドを最大出力にし、暗視センサーを森の奥深くまで広げた。
(……いいんだ、ミア。お前たちは、この『家』の心地よさを、ただ全力で楽しんでくれればいい。そのための、俺だ)
外の世界では、カシムが泥にまみれた若者たちを説得し、この「伝説の賢者の家」へと向かっている。
明日には、彼らがこの白亜の巨城を目にし、腰を抜かすことになるだろう。
泥を啜り、寒さに震える彼らにとって、この家は神の降臨に等しい衝撃のはずだ。
だが、今この瞬間だけは、この静かで、規律ある贅沢な時間は、俺たちだけの秘密だ。
(……よぉし。明日はカシムたちが驚く顔を見れるのが楽しみだな)
俺は、さらに快適に、さらに強固に、この日常を拡張し続けてやる。




