SS④ 昔語り
静香は一抱えもある紙袋を両手で持って、榎本総合研究所の前で車を降りた。そうして歩道で振り返り、彼女の後に続こうとした新見に告げる。
「一時間ほどしたら迎えにいらしてください」
「私も参りますとも」
めっそうもない、と言わんばかりの新見が断固とした口調でかぶりを振った。
当然、予想していた返事だ。
静香はにっこりとほほ笑み、もう一度繰り返す。
「お迎え、お待ちしておりますわ。杉田さん、お願いします」
反論を許さぬ笑顔のままでドアを開けてくれた運転手の杉田にそう言うと、彼はしたり顔で頷いた。
「ええ、きっかり一時間でお迎えに上がります。ごゆっくり。あ、新見さん、閉めますよ、気を付けて」
その言葉と共に、杉田は出てこようとした新見を押し戻すようにしてドアを閉める。そしてそそくさと運転席に戻ると、間髪容れずにエンジンをかけた。
車の中で肩越しに新見が何か言っているのが見て取れたが、杉田はどこ吹く風、といった風情で車を発進させる。
車が走り去るのを見送って、静香は改めて目当てのビルを見上げた。
それは五階建ての古びた雑居ビルで、三階に『榎本総合研究所』の看板が上がっている。そこが、これから彼女が行こうとしている場所だった。
エントランスはなく、一階の店舗の脇にエレベーターと階段が並んでいる。
少し考え、静香はエレベーターのドアを開くボタンを押した。
中は狭く、五人入ればいっぱいだろう。彼女が乗った箱は、微かな音を立てて上がっていく。
エレベーターを降りてすぐに、小さな一枚扉がある。そこにも『榎本総合研究所』の文字があった。
静香はノックをし、一拍おいてから扉を開ける。
「いらっしゃいませ――あら」
明るい声で迎えてくれたのは、三十そこそこの女性だ。
先日、恭介から紹介されたばかりで、佐野香奈という名前だった。背が高く、きりりとした美しさのある人だ。
もう一人静香に目を向けているのは、多分、高嶋直也という人だろう。銀縁のメガネをかけて、若干几帳面そうな眼差しで彼女を見ている。
「こんにちは。おじゃまいたします」
静香が挨拶と共に一礼すると、その間に香奈は机をぐるりと回って彼女の前にやってきた。
「静香ちゃんだっけ。武藤君に用だよね」
「はい。今日はお昼をご一緒できると伺っておりますの」
「さっきまで、そこにいたよ」
香奈は言いながら事務所の中を振り返る。
「武藤――ありゃ、寝てる」
「まあ」
香奈が見る方へ静香も目を向ければ、確かに見慣れた背中が机に突っ伏していた。
「ああ……昨日徹夜したって言ってたから。五分前までは普通にしてたのに」
そう言って彼の元へ向かおうとする香奈を、静香はそっと引き止めた。
「そのままに」
「え、でもいいの? しばらく逢えてなかったんでしょ?」
「少し眠るだけでもずいぶん違いますもの」
「ふうん……?」
微笑む静香を、腕を組んだ香奈が見つめる。と、何か思いついたらしくにんまりと笑うと、もう一人の同僚、高嶋の方へ向かった。
「ちょっと、高嶋君」
「何ですか?」
彼も昼食時だったと見えて、左手に缶コーヒー、右手に携帯栄養食を持っている。
「お昼ご飯行くよ」
「え? 僕にはこれが――」
「いっつもそんなの食べてないで、たまには人間らしいものにしなさいよ」
「はあ?」
怪訝な顔で彼女を見上げている高嶋に構わずに、香奈は彼の手からさっさとコーヒーと携帯栄養食を取り上げ、その腕を掴んで引っ張り上げる。
そうして殆ど引きずるようにして彼を連れて行きながら、戸口で静香に笑いかけた。
「じゃ、ごゆっくり。うちのお昼は一時半までだから」
そう残し、ヒラヒラと片手を振って高嶋と共に扉の向こうへと姿を消す。
その一連の騒ぎの中でも、恭介の背中はピクリとも動いていなかった。
静香は足音を忍ばせて彼の机に近付く。その上は書類で溢れていて、どちらかと言えば几帳面に片付けをしていた以前の彼の姿と少し違う。
恭介の机の上には置く場所がなくて、静香は近くのコピー機の上に紙袋を置いた。それにはサンドウィッチやちょっとしたデザート――今日、昼食を一緒に摂ろうと言ってくれた彼の為に作ってきた諸々のものが入っている。
静香は椅子をそっと引き寄せ、座った。微かにキャスターが軋んだけれど、恭介はやはり目覚める気配を見せない。
右腕を頬の下に敷いているから、起きた時にはさぞかし痺れていることだろう。
静香は小さく笑って、その寝顔を見つめる。
当然、恭介が寝ているところなど、今まで目にしたことがない。
そうやっていると年よりも少し若く見えて、静香は七年という年の差がほんの少しだけ縮まったような気がする。
恭介が彼の方が年上なのを気にしていたのと同じように、静香も自分が随分と幼いことを気にしていた。
何しろ、初めて彼と出逢ったのは彼女が八歳の時なのだから。
八歳と、十五歳。
少女は少年に恋心を抱いても、その逆は、普通は有り得ない。
成就する確信なんて持てない気持ちだった。
それが今は、共に過ごす未来を約束した相手として、すぐ傍にいてくれる。
想った相手に想われるなんて、なんて幸運なことだろうと、静香は思う。
初めて出逢って仄かな想いを抱いた時から、静香の恭介に対する気持ちは膨らむばかりだった。
――そう、雨に濡れた前髪の間から彼を見上げたあの時から。
*
最初に気付いたのは、小さな鳴き声。
それは気の所為かと思うほど、微かなものだった。
部屋の中で宿題をしていた静香は手を止めて、窓から庭を見回した。何も動くものはない。
耳を澄ましていると、もう一度、「ニィ」という声。
目を凝らして声がした辺りを探すと、アジサイの茂みの下に小さな白い姿があった。それはあまりに小さくて、少し目を放したらすぐに見失ってしまいそうなほどだ。
静香は急いで靴を持ってくると、庭に出て仔猫をすくい上げた。フルフルと震える細い手足で、懸命に彼女の胸元にしがみついてくる。
目は開いているけれど、まだ、生まれて何日も経っていないに違いない。庭の中を見渡しても親猫の姿はなく、どうやらはぐれてここに迷い込んでしまったようだった。
母の雅が猫に対するアレルギーがあるから、この家で飼うわけにはいかない。
――どうしよう?
小さな毛の塊を抱き締めながら自問しても、まだ八歳の静香にはいい方法が思い浮かばなかった。
どちらにしても、家の中には置いておけない。
雅が体調を崩してしまう。
迷った末に、静香はそのまま屋敷を抜け出した。
どうやって、この子を飼ってくれる人を見つけたらいいのだろう。
それだけが頭の中にあって、自分がどこに向かっているのかも理解していなかった。
おりしも時期は、梅雨が明ける少し前。
元々どんよりと厚い雲が垂れ込めていた空から、ポツリポツリと滴が落ちてくる。
やがて雨足は強まって、じきに彼女はずぶ濡れになった。
仔猫を上着の下に入れ、庇いながら近くの店の軒先に走り込む。
雨は降り続き、足元を見ながら行き交う人々は、佇む静香のことになど全く目もくれない。
――まるで彼女と仔猫など、透明な存在であるかのように。
幼い頃から、静香は他者に注目されてきた。
人が集まる中に行けば、常に誰かしらが声をかけてくる。「可愛い」「賢い」そんなありきたりな褒め言葉と共に目を細め、まるで特別な宝物か何かのように扱われるのだ。
けれど、今は、独りきりだった。
早熟な彼女は、自分がもてはやされるのは『綾小路』静香だからなのだということを、その頃から理解していた。
ちやほやされるのは、父と家名の影響なのだということを。
――ただの『静香』は、こんなにも取るに足らない存在なのだ。
こうやって世界から弾き出されていると、改めてそれを実感した。
胸元でもぞもぞと動いている温もりにすがるように、抱き締める。
「だいじょうぶ、ちゃんと守ってあげるから」
自信もないのに、静香が仔猫に向けてそう囁いた時だった。
「何やってんだ?」
唐突なその声に顔を上げて、彼女の視界を占めたのはまるで壁のような大きな身体。
思い切り顔を反らせて、ようやく相手の顔が見える。
父親の元もがっしりしているけれども、背はそれほど高くない。今、目の前にいる男性は上にも横にも大きかった。
制服は高校のものだろうか。
静香を見下ろしているその人は、怒っているのだろうかと思うくらい、ムッとした顔をしている。
前髪が邪魔で何度も瞬きをする彼女に、彼がまた口を開く。
「もう遅いぞ? 親は何やってんだよ。傘は?」
ぞんざいな口調で矢継ぎ早に質問を繰り出されて、静香は面食らいながらも辛うじてその中の一つに答える。
「お父様とお母様は悪くありません」
何がおかしかったのか、静香の返事に彼は一瞬わずかに目を見開いた。
「だったら、さっさと帰れよ」
言われて、静香は唇を噛んで俯く。帰る前に解決しなければならない問題があるのだ。
「おい?」
黙りこくった静香にも、彼は根気強く声をかけてくる。
答える言葉を持たない彼女の代わりに応じたのは、小さな鳴き声だった。服の合わせから、ひょっこりと小さな頭が覗く。
「ニィ」
仔猫がもう一度声を上げた。彼の目がそこに行き、元々刻まれていた眉間の皺が、更に深くなる。
「それか。家で飼えないのか?」
納得顔で訊いてきた彼に、今度は静香もコクリと頷きを返す。
と、不意に彼がその大きな手を伸ばしてきた。
思わず身を竦ませた静香に一瞬彼の手は止まったけれど、またすぐに動き出す。そうして、仔猫の首元を掴んで引っ張り出した。
「あ……」
仔猫に向けて両手を伸ばした静香に、彼は代わりに傘を差し出してくる。
「お前はさっさと帰れ」
「でも……」
静香は仔猫から目が離せない。元から小さかったのに、彼の胸元にいるとまるで仔ネズミのようだった。
あまりに儚げな仔猫が心配で口元を震わせた彼女に、彼が微かに笑う。
それは本当に微かな変化だったけれども、途端に彼の印象はガラリと変わって、静香の胸はトクンと音を立てた。
「ちゃんと面倒みてやるよ。クラスの奴らに訊いてみるから」
そう言って、彼は静香の返事を待たずにさっと身を翻して行ってしまう。
名前も知らず、ここで別れてしまったら、きっともう二度と逢えないに違いない。
咄嗟に追い掛けようとした静香だったが、焦燥と若干の怒りを含んだ声で引き止められた。
「お嬢様! こんな所にいらっしゃって! 屋敷の者総出で探していたのですよ?」
息を切らした新見が静香の元へ駆けてくる。
いつも冷静で身だしなみにも厳しい彼が、髪を乱していた。
全然彼らしくないその姿に、静香の中には申し訳なさが込み上げてくる。
「ごめんなさい」
項垂れた彼女に、新見は小さく息をついた。
「とにかく、御無事でようございました。帰りましょう。雅様も大層心配しておられます」
「はい……」
彼に背を押されて歩き出しながら、静香はもう一度肩越しに振り返った。あの大きな背中は、とうにない。
「お嬢様?」
「何でもないの」
そう言いながらも、静香は小さな息をつく。それは仄かに甘みを帯びているような気がした。
――あの時彼にもらった大きな黒い傘は、今でもクローゼットの奥にしまってある。
一度恭介にそれを見られて、何故、男物の傘がこんな所にあるのかと訊かれたことがあった。
その時、彼にとっては本当に些細な出来事に過ぎなかったのだと切なく感じたことを、静香は今も覚えている。
*
その小さな出逢いと別れの後も、人の波の中にいつも彼の姿を探していた。
そうして、再会は十四の時。
時折――本当に時折、新見の目を盗んで屋敷を抜け出して、初めて彼に逢った場所に行っていた。
いつもすぐに見つかってしまうのだけれど、その日は目ざといお目付け役がなかなか姿を現さなかった。
代わりに彼女の前に立ったのは、少々厄介な者達で。
十四歳という年齢よりも大人びていた上に、誰もが美しいとほめそやす容姿。
それが良からぬ輩を引き寄せない筈がない。
護身術は幼い頃からしっかりと身に付けさせられていたから、たかが三人の少年など、撃退することは簡単だった。けれど、できることなら自分の手の内は見せない方がいい。
馴れ馴れしく肩に手をかけ、不快なほどに顔を近づけて誘いをかけてくる少年を、静香は完全な無視でやり過ごそうとした。
もう少し待っていれば、きっと新見がやってくる。
それまで無視を決め込むことにした静香だったが、無反応の彼女に痺れを切らした少年の内の一人がきつく二の腕を掴んできた。
相手をしなければならないのかと彼女がため息をついたその時、少年の手が突然横から現れた手に捻じり上げられたのだ。
振り返り、そこに立つ姿に静香は我が目を疑った。
彼、だった。
学生服ではなくビジネススーツになっていたけれども、間違えようがなかった。
三人をあっという間に追い払い、またあの時のようにさっさと去って行ってしまいそうになったのを、静香を探しに来た車の中に押し込んで。
彼に――恭介に考える余裕を与えず、彼女の元で働くことを了承させた。
そして、それから彼はずっと傍にいてくれる。
静香は未だ眠りから覚めない恭介を見つめた。
あの時再び逢えていなかったら、今、こうしていられなかっただろう。
初めて逢えたことも、一度だけでなく二度も逢えたことも、まるで奇跡のようだった。
どちらが欠けても、きっと、静香の『今』は全く違うものになっていただろう。
そうしたら、こんなにも誰かを愛おしいと想う気持ちを、そしてその想いが通じる嬉しさを知ることができなかったのだ。
もっとも、ようやく想いが通じたと思ったら、恭介は元と妙な約束を交わしてしまったのだけれども。
「勝手にあんなことを決めてしまうだなんて」
平和な寝顔を軽く睨んで、静香は呟く。
こうやって、居眠りするほど働いているのは彼女の為だと判っていても、めっきり逢える時間が減ってしまったことは、やはり寂しい。
恭介は「指一本触れるな」という約束も律儀に守って、二人きりになってもそれを破ろうとはしない。静香としては、すぐに彼の元に嫁いでも良いくらいだったのに。
「わたくしは、そんな約束しておりませんことよ?」
囁いて、静香は彼の横顔を見つめた。そうして身を乗り出して、ほんの少しだけ肉の落ちたその頬に、触れるかどうかの口づけを落とした。
「あまりご無理はしないでくださいね……旦那さま」
と、まるでその声が聞こえたかのように恭介が微かな呻き声を上げる。
ムクリと身体を起こすと、静香を見て幾度か瞬きをした。
その右頬には、シャツの跡がくっきりと付いていた。それが可愛らしくて、静香はこっそりと笑いをかみ殺す。
「あれ……静香? ――っと、俺は寝てたか?」
「ええ、それはもう、ぐっすりと」
「悪い。起こしてくれたらよかったのに」
「でも、わたくしもたった今参ったばかりですの」
「そうか……? ああ、コーヒーを淹れるから、ちょっと待っててくれ」
立ち上がった恭介は、コピー機の上に置かれた紙袋に目を留める。中を覗いた彼は静香を振り返った。
「これ、お前が作ったのか?」
「はい」
静香がにっこり笑ってそう返すと、恭介は口元を微かに緩めた。そうして彼は、そそくさとコーヒーを淹れにいく。
サンドウィッチを作るとか、そんな些細なことで彼が喜んでくれることが、静香にはこの上ない幸せを感じさせてくれる。
大きなものはいらない。
ただ、彼が傍にいて、笑いかけてくれること。それだけで充分だった。
「早くわたくしをお連れになってくださいましね」
小さな声で、そうお願いする。
――それは、空気に溶けて消えるほどの囁きで。
振り返った恭介が、首をかしげる。
「何か言ったか?」
「いいえ、何も」
静香は溢れる幸福と共に微笑んだ。
これにてSSも終了です。
最後までお付き合いくださった方々、ありがとうございました。