27. 東京湾封鎖戦 (3)
東京湾口でも、海は別の形で荒れていた。
こちらでは竜騎より、漂流物と海中接近が主だった。夜明け前から浮流してきた木片や壺、樽、死魚、布切れ。それ自体は害のないものも多い。だが一部に術式罠や発煙剤が仕込まれており、港湾作業船やタグボートが近づくたび小規模爆裂を起こす。
さらに厄介なのは、東京湾という場の性質だった。
ここは西方外洋のように軍だけの海ではない。物流、通勤、漁業、フェリー、補給船、浄水施設、発電燃料、コンテナ、工業地帯。日本の首都圏を支える血管が集中している。だから一時的な規制でさえ、経済と生活へすぐ響く。
海保第三管区の指揮所では、巡視船と港則と湾岸警察と消防が、ほとんど怒鳴らない怒鳴り声で同じ海図を囲んでいた。
「湾口を全面止めれば、LNG船の着きが遅れます」
「止めなければ突っ込まれる」
「浮流物を全部処理する時間がない」
「じゃあ優先レーンだけでも開けろ」
そこへ官邸からの回線がつながる。東郷の声は疲れているが、語尾はまだ切れていない。
「湾口は、完全封鎖ではなく時間帯制御で」
彼が言う。
「医療、燃料、食料、電力関連の優先通航を先に。民間には理由を説明して」
「理由を言えばパニックになります」
「言わなければ陰謀論になる」
正しかった。危機時には、隠した情報の空白へ人が一番勝手な物語を書く。
結果、東京湾では史上初めて、異世界由来脅威を理由とする時限的な物流統制が実施された。ニュース速報が流れ、都民はスマートフォンで「東京湾口 一時規制」「海上保安庁 警戒強化」を見る。まだ戦争の実感は薄い。だがスーパーの物流が半日遅れ、ガソリンスタンドにまた列が伸び、工場の一部が荷待ちで止まる。大都市は、銃声より先に“少し不便になる”ことで戦争を知る。
川崎の湾岸道路沿いでは、配送待ちのトラックがいつもより長く並んでいた。コンビニ向けの弁当便、ドラッグストア向けの日用品、工場向けの部材便。どの運転手も車外には出ないが、窓越しにスマートフォンを見ている。何が起きているのか、公式発表より先に、互いの既読速度で不安が伝染する。
「また止まるのかよ」
若い運転手が前方を見ながら呟く。
「前みたいに二時間で済めばいいけどな」
隣の車線の中年運転手が窓を少しだけ開けて返す。
「荷受け先、もう現場止まってるって」
会話はそれだけで終わる。皆、苛立っている。だが本当に怖いのは遅延そのものではない。遅延が続けば、店頭の棚が薄くなる。棚が薄くなれば、客の手が早くなる。手が早くなれば、ニュースより先に生活が崩れたように見える。
都内のマンションでは、出勤前の会社員が玄関先で宅配アプリの遅配通知を見て眉をひそめ、保育園へ子を送る母親がガソリン残量を確かめ、コンビニ店長が今日の納品欠品一覧を見てため息をつく。異世界の海獣も竜騎も知らない人間たちが、同じ朝に少しずつ不便を受け取っている。
それが首都圏の戦場の入り口だった。
◆
小早川澪はNHKの臨時編集卓で、その「少し不便」が持つ爆発力を理解していた。
「東京湾、全面封鎖って書いてるアカウントが回ってます」
ADが言う。
「全面じゃない。修正記事を先に出して」
「でも“異世界の海獣”は」
「まだ公共ではそう言わない」
小早川は歯噛みしたくなるのを抑えた。映像はある。波間の巨大影、割れる小舟、上空の飛翔体。だが、その断片をそのまま見せれば、社会の理解は追いつかず、恐怖だけが先に届く。
「現場映像はどこまで」
デスクが問う。
「負傷者は絞る。救助のシーンを中心に」
「政府寄りと言われる」
「救助より殺し合いを先に出せば、もっと悪い」
テレビ局はいつも、何を見せないかで倫理を問われる。だが危機の最中、その選択は国家の心拍数に直結する。小早川は、編集の判断が人命にまで影響することを、ここへ来て初めて本当に理解し始めていた。
彼女は新しく届いた西方海域の映像を止めた。救助艇へ引き上げられる幼い子供。水に沈む手。奥で爆ぜる白い閃光。画面に映らないところに、何人の死者がいるのか分からない。
「これは、使う」
彼女は決めた。
「ただしナレーションは“戦闘”より“救難妨害”を前に出す」
デスクが一度だけ目を閉じ、頷いた。
戦争を伝える時、相手が何を壊そうとしているかを示すことは重要だ。ただ敵を強く見せるのでも、こちらの勇敢さを飾るのでもなく、何が狙われているのか。今回、狙われているのは船ではなく、救難の規範そのものだった。
◆
西方海域の戦闘は、正午前にさらに激しくなった。
潮喰いは二体確認された。一体はデコイと音響で沖へ逸らせたが、もう一体は損傷した小舟群へ居着くように回遊し続けた。上空の竜騎は二騎撃墜、一騎離脱、一騎不明。工作船三隻のうち二隻を無力化、一隻は爆発。溺者多数。海盟真正の難民も混じっていることが、救助後の聞き取りで判明する。
つまり、全てが偽装ではなかった。
それが一番きつい。
本物が混じる偽装ほど、守る側を疲弊させるものはない。
「港へ戻す船を選別しろ」
榊原は命じた。
「負傷、幼児、術式反応なし、武装なしを優先。残りは外縁待機」
「それでは死ぬ者が出ます」
若い海保幹部が言う。責めているのではない。ただ事実を言っている。
「分かってる」
榊原は返した。
「だが全部を一度に入れたら、港が死ぬ」
その言葉を口にした瞬間、彼は自分の中で何かが一段階重くなるのを感じた。海自の指揮官として、海保と港湾と海盟をまとめる立場として、どの命を先に引き上げ、どの船を外で待たせるかを決める。どれだけ理屈があっても、その決断は人間を削る。
午後零時十四分、最悪の報が入った。
損傷した海保巡視船の後部甲板で救助支援にあたっていた若い機関員が、二次爆発による飛散片で致命傷を負った。
名前は、巡査長・高瀬悠人。二十六歳。
転移後、海上脅威対応中の初の明確な公務死者だった。
報告を受けた調整所は、数秒だけ静まり返った。誰も大声を出さない。ただ、皆の肩がわずかに落ちた。
榊原は目を閉じなかった。閉じると、そのまま数秒を失う気がした。
「記録」
彼は言う。
「全部残せ。経緯、位置、時刻、支援状況、家族連絡系統。何一つ曖昧にするな」
怒りより先に、職務が出る。そうしないと持たない。だが心の底の方では、別の感情が静かに育っていた。
海は、もう仕事場ではなく戦場になった。
毎日21:00更新です。合いそうでしたらブックマークで追ってください。




