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26. 東京湾封鎖戦 (2)

佐世保の調整所へ呼ばれたアルシアは、スクリーンに映る海図を一目見て、表情を変えた。


「潮喰い」


 彼女は大型黒影を指した。


「帝国が飼うのではなく、寄せる」


 通訳が意味を整える。


 潮喰い。海盟側資料にもあった海獣の一種。普段は深海性で、死肉や大きな魚群に寄る。だが一部の導潮術や血餌で沿岸へ誘導できるらしい。船を直接襲うというより、海面下で群れを乱し、小船を転覆させ、港湾の出入りを恐れさせる存在。


「後ろの船は」


 榊原が訊く。


「偽装もある。本当の難民もある」


 アルシアは躊躇なく答えた。


「海盟の言葉を叫ぶ者がいても、海盟の民とは限らぬ」


 その冷静さに、調整所の空気が一瞬だけ硬くなる。自分の文化圏の言葉を使う難民船をも疑えと言っているのだ。だが彼女は続けた。


「だから、近くで選ぶ。遠くで撃たぬ。だが近づかせすぎるな」


「検査線を二段にするか」


 榊原がつぶやく。


「外縁で無人機確認、内縁で海保と医療班待機」


「海獣が来れば、船は散る」


 アルシアが言う。


「散ると、本物の弱い者が死ぬ」


 つまり、海獣は戦術目標ですらない。救難体系を崩すための道具だ。


 榊原は苦いものを噛みしめるように言った。


「いやらしい」


「帝国は、海を汚して勝つ」


 アルシアの声は低かった。


「昔から」


 その一言で、榊原は理解する。自分たちが相対しているのは、思いつきの奇襲ではない。長い時間の中で磨かれた、沿岸秩序を破壊する技法だ。日本はまだ、この海の汚れ方を知らない。


「各船へ通達」


 榊原が命じる。


「西方海域入域目標は全て、外縁停止。言語確認、人数確認、熱源確認、上空監視。海保と医療班は防護下で待機。潮喰い確認時は救難より先に海獣分離」


「非難されますよ」


 若い士官が思わず言った。


「構わん。沈んだ後に非難されるよりましだ」


 榊原はそう言ったが、その言葉が後で自分自身へ返ってくることを、この時すでに予感していた。


     ◆


 午前八時十分。西方海域外縁。


 最初の接触は、教科書に載せられない種類のものだった。


 海自哨戒ヘリの上空映像には、波間に揺れる小舟が映っている。船体は海盟の沿岸漁船に似ている。だが積み方が不自然だ。甲板に人が密集しすぎている船もあれば、逆に空荷に近いのに喫水だけ深い船もある。漂流を装っているのか、本当に漂流しているのか、一目で断定できない。


 その間を、海面下の巨大な影がゆっくり回遊していた。


「熱源、複数。人員相当」


 オペレーターが言う。


「でも一部、動きが少なすぎます」


「囮か、死体か」


 榊原が吐き捨てる。


 海保巡視船が拡声器で停止と救命準備を呼びかける。海盟側通訳が同じ内容を叫ぶ。応答はある。泣き声。助けを求める声。だが、二隻だけ、不自然なほど沈黙したまま、潮に抗うようにじわじわ近づいてくる。


「無人艇を前へ」


 小型無人水上艇が進み、外縁の船団へセンサーを向ける。映像が寄る。甲板の布の下に、樽が並んでいる。水や食糧にしては配置が規則的すぎる。


「爆薬か」


「分かりません。ただし高熱源が複数」


 次の瞬間、海面が割れた。


 潮喰いだ。


 鯨に似た巨体が小舟の一隻を下から突き上げ、船体が割れて人影が海へ投げ出される。悲鳴。別の船が慌てて方向を変え、隊形が崩れる。上空では二騎の竜騎が雲を裂いて降りてくる。低い。速い。以前のような誇示ではなく、混乱に合わせた刺突だ。


「対空、接近順」


 榊原の命令と同時に、巡視船の機銃が火を吹く。海自側の小型迎撃ドローンも上がる。だが相手も学習している。竜騎は一直線に突っ込まず、雲と船影と潮喰いの水柱を遮蔽物代わりに使い、照準を散らす。


 海面では人が溺れている。本物の難民もいる。


 榊原は、それを視界の端で数えた。今ここで救える人数と、先に上を落とさなければ増える死者。その計算を始めた瞬間、守るという言葉はもう綺麗ではいられない。


 その間を縫って、沈黙していた二隻のうち一隻が突然進路を変え、巡視船へ向けて突進した。


「工作船」


 榊原が叫ぶ。


「止めろ」


 警告射。なお止まらない。次の射撃で船首が砕ける。だが砕けた瞬間、船体内部が白く閃いた。


 爆発。


 爆薬だけではない。魔導罠か、何かの混合だ。水柱が上がり、巡視船の舷側へ破片と衝撃が叩きつけられる。甲板で隊員が吹き飛ばされる。


「負傷者」


「後部甲板、三」


「救助艇出せ」


「潮喰いが近い」


「分かってる、だから護衛をつけろ」


 指揮は一瞬たりとも止まらない。巡視船の消火班、海自の無人艇、ヘリからの救難浮標、上空の対空戦闘、海面下の海獣。全てが同時に動き、全てが互いの足を引っ張る。これが統合戦だ、と榊原は思った。格好いい意味ではない。人間の容量を超えるものを、一つの画面に押し込んで何とかするという意味で。


 第二の工作船が動こうとした瞬間、海自のレーザー支援艇がその舵周辺を焼いた。舵が固着し、船は横流れになる。だがそこへ、三隻目の小舟から矢のように人影が飛び込む。泳いで来る。手に何か持っている。


「遊泳接近」


「何だあれは」


「爆雷か、罠か」


 海保側の射手が水面を撃つ。血が広がる。だが二人目、三人目。人間魚雷ではないが、ほとんど同じ発想だ。救難現場へ水中から近づき、船腹に何かを付けるつもりだろう。


 榊原は一瞬だけ怒りを覚えた。ここまで来ると卑劣さより、手際の良さが腹立たしい。相手は最初から、こちらの救難手順を殺すためだけに、この構成を組んでいる。


「対水中ソナーを上げろ。微速でもいい、船腹動かせ。止まるな」


 海上救難の常識と、港湾防護の常識と、対テロの常識が、全部中途半端に重なり合っている。どのマニュアルも少しずつ足りない。


 その時、上空の竜騎一騎が奇妙な動きをした。巡視船や海自艇を狙うのではなく、海面で溺れている人々の真上へ低空で入り、何かを撒いたのだ。赤黒い粉が風に散る。


「何だ」


 アルシアが顔色を変える。


「血餌」


 彼女は叫ぶ。


「潮喰いを寄せる」


 最悪だった。溺者がいる場所へ、海獣を誘引する。人道そのものを餌にする戦術。


「竜騎、落とせ」


 榊原の声は、ほとんど怒鳴り声に近かった。


 対空射撃が空を裂く。竜騎の片翼がもげ、海へ落ちる。だが間に合わない。海面下の影が大きく反転し、浮標につかまった人々へ向かってくる。


「くそっ」


 榊原は机を叩きたい衝動を抑えた。


「海獣分離弾を」


 事前に海盟側助言で急造した高音響・発光複合デコイが発射される。海面上で白青の閃光と耳障りな振動が走り、潮喰いの進路がわずかに逸れた。十分ではない。だが、数秒は稼げた。


 救助艇がその数秒へ突っ込み、人を引きずり上げる。艇底を叩く波の振動が腹へ来て、ディーゼルの匂いと焦げた帆の匂いが混じった。濡れた手は滑り、怒鳴り声は機関音と風に裂かれて半分しか届かない。


 何人かは間に合った。何人かは、間に合わなかった。


毎日21:00更新です。合いそうでしたらブックマークで追ってください。

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