25. 東京湾封鎖戦 (1)
第七章 東京湾封鎖戦
戦争の顔は、たいてい最初、あまり勇ましくない。
砲煙や突撃ではなく、救難信号の断続音、混線する回線、曇天の海、判断を急がせる曖昧な目標として現れる。後になれば人はそれを会戦と呼ぶが、その瞬間にいる者にとっては、ただ次の五分を間違えないことが全てだった。
日本列島転移から十六日目の早朝、佐世保を含む西方海域と、東京湾へ至る沿岸警戒網に、ほぼ同時に異常が走った。
その少し前、西方海域外縁の巡視船では、当直交代の静かな時間が流れていた。
空はまだ青みきらず、甲板には夜露と塩が薄く残っている。機関員の高瀬悠人は、後部甲板の手すりへ寄りかかり、紙コップのぬるいコーヒーを一口飲んだ。二十六歳。転移前は密輸対策や海難救助が主な任務で、異世界の竜騎や海獣を相手にする日が来るなど想像したこともない。
「寝ましたか」
先任の海曹が訊く。
「三時間くらい」
高瀬は苦笑した。
「この仕事では十分です」
「十分ってことにしないと回らないですからね」
遠くの海は静かだった。静かすぎる海ほど信用できないと、ここ数日で皆が学び始めている。それでも出港前の船には、日常の癖が残る。ボルトの緩みを触って確かめる手。救命具の位置を確認する声。朝食の味噌汁が薄いとぼやく誰か。そういう小さな反復があるから、人は非常時の中でも立っていられる。
高瀬はスマートフォンの保存画面を一度だけ開いた。家族との短いメッセージ。帰ったらまた連絡する。まだ送っていない文面が、そのまま残っている。送るほどでもないと思ったのだ。今日も昨日の続きの警戒任務で、たぶん夕方には戻るはずだったから。
前夜、仮設桟橋で海盟の子どもが泣き止まず、高瀬は自分の作業用タオルを渡した。相手は言葉が通じなくても二度頭を下げた。濡れた布は、まだ機関室の隅で乾き切っていないはずだった。
その直後に、艦内へ第一報が走った。
最初の報は長崎西方から来た。低速で接近する十数の木造小船。救難信号あり。船上には海盟系言語らしき呼び声。だが隊形が不自然で、後方に大型の黒い影。さらに上空には竜騎らしき反応。
次いで、伊豆諸島南方を巡回中の海上保安庁大型巡視船から、不審漂流物の群れと海上発光現象を確認という通報が入る。東京湾口でも、民間船から「夜明け前に海面下を移動する巨大な影を見た」との報告。単独なら誤認に分類できる。だが三つ重なると話が変わる。
榊原遼は佐世保の臨時海上連絡調整所で、その同時性を見た瞬間に嫌な予感ではなく確信を得た。
来た。
帝国か、その周辺勢力かはともかく、こちらの救難基準と海上防護能力を試す本格的な攻勢だ。
「状況図を一枚にまとめろ」
彼は言った。
「西方海域、東京湾口、伊豆南方、全部同じ時間軸で」
スクリーンに海図が重なる。佐世保から外洋へ伸びる護衛試験航路。東京湾へ入る商船ルート。伊豆南方の潮流。日本がこの十数日でようやく引き始めた“守る海”の線。その線の節目ごとに、今朝の異常が置かれている。
「分散です」
情報士官が言う。
「こちらの戦力を割らせる意図が明白です」
「救難を装って近づけば、撃ちづらい」
副長が続ける。
「港湾へ漂流物や海獣を押し込めば、物流も止まる」
榊原は短くうなずいた。海の戦いは、敵艦を沈めることだけではない。通れなくする、怖がらせる、保険料を上げる、港の人間を眠れなくする。それだけで十分に勝てることがある。
「海保、海自、港湾管理、海盟側修理船、全部つなげ」
「指揮系統が複雑になります」
「複雑でいい。切れてるよりましだ」
海上自衛隊の護衛艦群、海上保安庁の巡視船、航空自衛隊の警戒支援、港湾管理、自治体危機管理、さらに佐世保にいる海盟側の通訳と水先案内。平時なら縦割りだ何だと揉める人間たちが、今は一つのボードの上へ押し込められている。
「アルシアを呼べ」
榊原は言った。
「海の顔は、向こうの人間の方が早く読む」
◆
東京、官邸危機管理センターでも同じ時刻、赤い表示が増え始めていた。
東郷真尋は、徹夜続きの脳にコーヒーを流し込みながら、海上状況パネルとSNS監視パネルを行き来していた。すでにネット上では「異世界側が東京湾に来た」「政府が封鎖を隠している」「難民船を見捨てるのか」という断片的な言葉が走り始めている。現実の海より速く、噂の海は荒れる。
「西方海域は」
彼が訊く。
防衛省連絡官が答える。
「榊原艦長が現地統合対応に入っています。海盟側助言も併用」
「東京湾口」
「海保主導で巡視強化。湾口一時規制を検討中。ただし物流への影響が大きい」
「伊豆南方」
「航空偵察中」
東郷はスクリーンの隅に映る気象データを見た。海は荒れすぎていない。つまり小型木造船でも意図的に動ける。最悪だ。荒天なら自然のせいにできる曖昧さがあるが、凪ぎに近い海は、意図の形をよく見せる。
横で真田圭吾が静かに言った。
「相手は、日本の海を“道”ではなく“責任の場”として見始めていますね」
「ええ」
「救難信号にどう応えるか、難民船にどう距離を取るか、全部が外交です」
東郷は頷いた。帝国の手口は正面戦だけではないと読んでいた。だが予測していたからといって、楽になるわけではない。予測していた最悪が本当に来た時、人はむしろ余計に疲れる。
「メディア対策を」
彼は総務省と広報班へ向けて言う。
「事実は隠すな」
「ただ、先に出す順番は選ぶ。海上救難のルール、湾口規制の理由、保護と警戒が両立すること。そこを先に置いてください」
「“難民偽装の可能性”は」
「表現を選ぶ。救難対象全てを疑えとは言えない」
「しかし疑わなければ」
「現場が死ぬ」
部屋の空気が少し固まる。こういう瞬間に、言葉はどれも半分しか正しくない。
国家が人道を掲げながら安全保障を守る時、どうしても残酷な文脈が混ざる。助けるべき者の中に、助けるふりをして近づく敵がいるかもしれない。だからといって、全てを敵扱いすれば日本の掲げる秩序そのものが壊れる。
守る線を引くということは、線の外で間に合わない者が出る可能性まで引き受けるということだった。
東郷は喉の奥に上がってくる疲労を飲み下した。
「難しい国でいたいなら、難しい判断をするしかない」
誰に向けた言葉でもなかった。
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