22. 不均衡な同盟 (4)
会談終了時にまとめられた合意文書は、驚くほど具体的で、同時に決定的なことを何一つ約束していなかった。
日本側とセレス海盟側は、以下について実務レベルの先行合意に達する。
一、長崎西方から海盟中継港までの一部海域で、試験的な限定護衛航路を設定する。
二、海盟側は最新の海図、潮流、帝国監視点、危険海域の情報を継続提供する。
三、日本側は船団修理、医療支援、避難民輸送、対竜騎早期警戒と港湾防護助言を提供する。
四、殺傷兵器の供与は継続協議とし、現時点では見送る。
五、日本の管理区域・護衛水域・船舶内において、人身の売買、債務による身柄拘束、強制移送を認めない。
六、港湾慣行と捕虜・労働慣行に関する共同調査を行う。
七、正式な高位会談の準備を進める。
同盟ではない。
互いに相手を完全には信用していない。
それでも、紙の上には線が引かれた。線は細いが、存在する。細い線は切れやすいが、最初から線がないよりはずっと強い。
◆
使節団に割り当てられた控室で、ハルヴェンは外した指輪を机へ置き、ようやく露骨に不満を見せた。
「港の外まで法を伸ばす気だ」
彼は低く言う。
「今日はこちらが困っているから飲んだ。だが、あれは必ず癖になる」
メリアドが壁にもたれたまま返す。
「癖になる前に帝国に焼かれるよりましだ」
「軍人はいつもそう言う。今日を凌ぐために、明日の商いを売る」
アルシアは二人の間に視線を落とした。どちらも間違っていない。それがいちばん厄介だった。
「ニホンは、こちらを救うために条件を出しているわけじゃない」
彼女は言う。
「自分たちが責任を負える線を引いている」
ハルヴェンは鼻で笑った。
「強い国が線を引く時、弱い港はたいてい従う側だ」
「だから席を取るのよ」
アルシアは即座に返した。
「従うだけで終わらないために」
しばらく沈黙が落ちた。ユーノスだけが書板へ何かを走り書きしている。後で議会向けの報告案にするのだろう。
やがてメリアドが短く言った。
「次に同じ場を作るなら、海盟側も条件を増やすべきだ。港の保護だけじゃない。誰が会議の席に着くかまで」
アルシアは頷いた。その一言が、今日の本質だった。日本は巨大だ。便利でもある。だが便利であるほど、放っておけば相手の議題に沿って秩序が組み上がる。
不均衡な同盟で生き延びるには、助けられる側に留まらないことだ。
◆
夜、会議棟の灯りが落ちる頃、アルシアは一人で港の端まで歩いた。
海は暗い。日本の港は夜でも死なないが、それでも海そのものは黒い水のままだ。遠くに護衛艦の灯、岸壁のクレーン、整然と積まれたコンテナ。異国の秩序が、夜へ染み出している。
足音が近づき、東郷が隣に立った。今日はこれで三度目だ。偶然というには多いが、意図的に会うには少なすぎる回数。
「今日は、ありがとう」
彼が言う。
アルシアはすぐには答えなかった。
「礼を言うには、まだ早い」
「そうかもしれません」
彼女は海を見たまま言う。
「ハルヴェンは、あなたたちを嫌う。メリアドは、必要と思う。私は……まだ決めていない」
「正しいと思います」
「あなたは?」
東郷が視線だけで問い返す。
「海盟をどう見る」
彼は少し考えた。
「助ける価値がある、とは思う」
アルシアはそこで初めて彼を見た。
「価値」
「ええ。価値です」
東郷は言葉を濁さなかった。
「善悪だけで言えば、どの勢力にも問題がある。でも、どの勢力がこの地域で帝国に対抗し、秩序の受け皿になりうるかと考えると、海盟には価値がある」
アルシアはしばらく黙り、それから乾いた笑いをこぼした。
「優しい言葉ではない」
「外交官ではないので」
「でも、本当」
その通りだった。
東郷は彼女の横顔を見ながら、ふと思う。アルシア個人に対して抱く敬意と、海盟という政治体に対する計算は、どこまで分けられるのだろう。たぶん完全には分けられない。人は相手を制度だけで理解できず、同時に個人だけでも判断できない。
「あなたは?」
今度は東郷が訊いた。
「日本をどう見る」
アルシアは少しだけ考え、答えた。
「大きな港」
「港?」
「港は、船を守る。税を取る。選ぶ。入れる者と、入れぬ者を」
彼女は護衛艦の灯を見つめた。
「良い港も、悪い港も、最初は区別がつかない。でも、一つだけ早くわかる。嵐の夜に、本当に門を開くかどうか」
東郷はその比喩を胸の中で反芻した。
日本は今、この世界で巨大な港になりつつある。海を渡ってくるものを選別し、守り、拒み、税ではなく条件を課し、周辺秩序を再編する港。そう考えれば、アルシアの見立ては正確だった。
正確すぎる、と思った。港は人を救う。だが同時に、誰を入れて誰を待たせるかを決める。巨大な港になるという比喩は、そのまま日本がこの世界で判断の集積点になるということでもあった。
「なら、こちらも試されているわけですね」
「ええ」
彼女は静かに頷く。
「嵐は、まだ来ていないから」
◆
翌朝未明、佐世保の海上警戒網が、西方外海で複数の異常反応を捉える。低速だが数が多い。金属反応は乏しい。熱源も弱い。木造船団、あるいは浮体構造物。だが通常の船舶群にしては隊形が異様だった。
さらに、沿岸監視ドローンの一機が、海上へ漂うように浮かぶ巨大な黒い影を捉える。鯨に似ているが、背部に構造物のような突起。そこから、小型飛翔体が数十、散る。
榊原遼は即座に呼び出され、モニターを見るなり顔をしかめた。
「海獣か、浮遊巣か」
情報士官が答える。
「アルシア側の資料にある“潮喰い”の記述と一部一致します」
「帝国が使う可能性は」
「あります。私掠や沿岸攪乱に使われることがあると」
榊原は艦橋の記憶を呼び起こす。竜騎、木造船、魔法。次は海そのものが武器になるのかもしれない。
彼は即断した。
「港内警戒を一段上げろ。会談で浮ついた頭を全部叩き起こせ。船団も、商人も、政治家も関係ない。海から来るやつは、全員まとめて面倒を見る準備だ」
港の空気が変わる。会談で引かれた細い線の上へ、もう次の試練が押し寄せている。アルシアが言った「門を開くかどうか」は、夜明けを待たずに試されることになった。
不均衡な同盟は紙の上では成立した。次に問われるのは、それがどれだけ持つかではない。最初に誰をその紙の外へこぼすのかだった。
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