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23. 帝国の目 (1)

第六章 帝国の目


 朝の冷えで、インク壺の縁が薄く白んでいた。


 カルド帝国東征軍前進司令地は、もともと辺境伯の夏営地だった石造りの城塞を接収して使っている。高い城壁、井戸のある内庭、穀物倉、竜舎、礼拝堂、そして粗末な行政棟。夜明け前の石壁は冷たく、吐いた息がしばらく白く残った。


 ソフィア・レンヴァルトは、その冷えを気にも留めず、机上の書類を順に並べ替えていた。軍報、沿岸港の寄港記録、海盟方面から流れた価格変動表、漂着民の聞き取り、宗務院の意見書。どれも同じ相手を指しているのに、書かれた呼び名は揃っていない。


 神敵の海上顕現。


 東方異常現象域内新出勢力。


 海の鬼城。


 東海新興鋼鉄国家。


 長い名は、たいてい責任逃れのために生まれる。誰の所管か曖昧にし、決裁を遅らせ、敗北した時には先に言葉のほうを言い換えられるからだ。だがそれでは遅い。相手をどう呼ぶかが決まらなければ、帝国はまともに噛みつけない。


 ソフィアは羽根ペンを取り、表題へ短く書いた。


 東海鋼国。


 書記官が息を飲む。


「それで落としますか」


「短いほうが兵も商人も使います」


「宗務院は反発します」


「させておきなさい。神敵と書けば宗務院が前へ出る。異常現象と書けば内務院が境界封鎖を主張する。新興国家と鋼、この二語なら軍務院と徴税と商会が同時に動ける」


 彼女は別紙へ簡潔に行政帰結を書き分けた。呼び名は、札であり、予算であり、担当部署だった。どの言葉を選ぶかで、誰が会議室へ呼ばれ、誰がまだ交渉相手として残り、誰が討伐対象にされるかが決まる。


 東海鋼国。


 怪物ではなく国家。神意の問題ではなく、まずは戦略と行政の問題。そう定義した瞬間から、日本は帝国にとって“処理すべき相手”になる。


 扉が叩かれ、若い伝令が入ってきた。


「第三鐘で戦略会合です。総監も、政戦官もすでに内庭へ」


「宗務院は」


「二人来ています。片方は学識派だと」


 ソフィアは紙を重ね、蝋印を軽く押した。東海鋼国。短い名のほうが流通は早い。流通が早ければ、恐怖も利害も同じ机に載せやすい。


 老いた国家は、未知の獣を見た時、まず牙より先に帳簿を開く。


     ◆


 内庭では、竜の汗と獣脂と焼けた革の匂いが混じっていた。


 ユリウス・カーン総監は、訓練から戻った飛竜の前で足を止め、鞍具の留め革を自分の手で引いた。焦げ跡が残っている。最初の交戦で鉄の雷を浴びた時、竜が暴れ、騎手が片腕を失いながら帰してきた個体だ。獣はまだ右肩を触られるのを嫌がり、低く喉を鳴らした。


「高く上がるな。雲へ逃げるな。見られたら終わりだ」


 若い騎手が唇を噛む。


「ですが、低ければ火球の間合いに」


「火球を見せる仕事は終わった」


 ユリウスは留め革を放し、竜の首筋へ掌を当てた。分厚い皮膚の下で筋肉がぴくりと動く。日本と戦ってからというもの、竜騎兵団は誇りより先に距離を学ばねばならなくなった。近づいて威圧する兵科ではない。見つからず、揺さぶり、夜へ紛れ、工作を支える兵科へ変わらねばならない。


「相手は槍の長さで戦っていない。空を見上げた時には、もう撃っている」


 副官が低く言う。


「それでは、兵の顔が立ちません」


「顔で死ぬよりましだ」


 ユリウスは吐き捨てるように答えた。竜騎兵は帝国の栄光だった。だからこそ、主役の座から降ろす時の軋みは大きい。だが役割を変えなければ、本当に終わる。誇りで埋まる墓穴を、彼はもう何度も見てきた。


 そこへソフィアが現れた。裾を汚さぬぎりぎりの速さで歩き、訓練場の砂を一瞥する。


「まだ飛ばせますか」


「飛ばせる」


 ユリウスは焦げた革片を親指で弾いた。


「ただし、見せ物ではなくなる」


「それでいい」


「宗務院はよくない顔をするぞ。敗けを神学へ逃がしたがる」


「会議で黙らせます」


 彼女の言い方に、ユリウスは短く笑った。


「黙らせろ。現場へ説教が降りてくると、血が増える」


 竜が鼻息を吐き、熱い湿気が二人の腕にかかった。ソフィアは袖を払わなかった。日本を相手にするには、軍も官僚も、自分たちが何を失い始めているかを先に認める必要がある。


     ◆


 戦略会合の部屋は、朝から羊皮紙と湿った外套の匂いで重かった。


 卓には、軍報のほかに塩価の変動表、東方海路税の試算、教会施療院の患者数、漂着民の聞き取り、海盟港湾の寄港記録まで並んでいる。東海鋼国は、もう軍だけの問題ではない。海路、病、税、噂、救難まで含めて辺境の値段を動かし始めていた。


 ソフィアは立ったまま、短く切り出した。


「東海鋼国は海盟と限定協力へ入りました。属国化ではありません。相手を飲み込むより、まず使える形へ整えようとしている」


 沿岸徴税監が眉をひそめる。


「ならば東方海路税が削られる」


「すぐには削られません」


 セルディンが答えた。若い政戦官らしい滑らかな声だが、口元の笑みは薄い。


「海盟は庇護に入るのではなく、庇護の噂を値札へ変えたい。東海鋼国は従属を急がない。その分、近づける」


 宗務院の神官が鼻を鳴らした。


「甘い。神敵ならば祈りで割れる」


「割れる前に、港は値段で動きます」


 ソフィアは遮った。


「神敵と叫ぶのは簡単です。だが相手は飢えた村と損傷船と難民を抱えたまま、まだ秩序の顔を保とうとしている。そこを使う」


 商会代理人が身を乗り出す。


「どう使う」


 セルディンが指先で地図の沿岸をなぞった。


「救難信号。漂着民。病の疑い。偽装難民。小さな襲撃。東海鋼国が一つ拾うたび、責任の線は伸びる。線が伸びれば、港湾、病院、通訳、議会、全部が疲れる」


 ユリウスが低く言う。


「武は捨てない」


「もちろん」


 ソフィアは頷いた。


「ただし英雄譚にはしない。正面衝突で東海鋼国の強さを磨くより、救難と警戒と世論の境目を曖昧にさせる。そこへ海から圧をかける」


 学識派の神官が静かに口を挟んだ。


「彼らの技術や医療を、教会が先に意味づけする余地もあります」


「布告文を誤れば、施療院が先に揺れます」


 その神官は続けた。


「神敵と強く打てば、沿岸施療院は漂着民を抱え込むことを恐れて門を絞る。病は別港へ流れ、噂は商宿へ移る。神学の線一本で、海路の線まで痩せます」


 宗務院の別の神官が睨む。


「取り込む気か」


「先に名を与えるだけです」


 学識派の声は低い。


「名を与えぬものは、商人が値を付ける」


 その一言に、商会代理人が口元だけで笑った。


「それは事実です。港で先に効くのは説教より値段だ」


 沿岸徴税監が苛立たしげに机を叩く。


「値段が暴れれば税が痩せる」


「施療院が門を閉じれば、病人は税札を持たずに流れる」


 学識派は引かない。


「今必要なのは神学の勝ち負けではなく、どの文言なら徴税線と港湾秩序を保ったまま相手へ名を被せられるかです」


「拒むだけでは遅れます」


 ソフィアはそこで初めて二人を見た。


「宗務院の中で決着をつけるのは後にしなさい」


 彼女は卓上の意見書を指で揃えた。


「異端審問の書式で行けば施療院が怯える。学識派の論考だけで行けば、沿岸貴族は腰が引ける。今は軍も徴税も商会も同じ文を読める形に落とす。神学の純度より、海路の運用が先です」


 宗務院の保守派は不満げに沈黙し、学識派は視線を伏せた。宗務院も一枚岩ではない。異端と呼びたい者と、先に言葉を与えて支配したい者がいる。その割れ目自体が使い道だった。


「使者は送ります」


 ソフィアが言うと、徴税監が不満げに首を振った。


「まだ話すのか」


「話している間、相手の骨格が見える」


 今度はセルディンが答えた。


「何に礼を返すか。何を条件へ換えるか。恥を感じる場所はどこか。民を切る値段はいくらか。そこが見えれば、戦争は安くなる」


 商会代理人が細い声で割り込む。


「海盟港へ流れる塩と薬はどうする。締めるなら締めるで、沿岸貴族の倉へ先に話を通してほしい」


「締めすぎれば、闇荷が増えるだけです」


 徴税監が忌々しげに返す。


「闇荷が増えれば、今度は誰の帳簿も合わなくなる」


 ユリウスが吐き捨てるように言った。


「帳簿が合わなくなる前に、現場では人が死ぬ。商いの愚痴は、船足を止めぬ形でやれ」


 商会代理人は肩をすくめた。


「総監殿は、いつも銀貨の話を嫌う」


「嫌ってはいない」


 ユリウスは焦げ跡の残る革手袋を卓へ置く。


「銀貨の都合で竜を低く飛ばせと言う連中を嫌うだけだ」


 短い沈黙が生まれた。帝国は同じ敵を前にしても、誰一人同じ損を見ていない。その不揃いのまま卓を囲み続けることが、この国の制度的な強さであり、腐臭でもあった。


 ユリウスは机上の金具を指で一度叩いた。


「安く済まぬ時は、こちらが払うことも忘れるな」


「忘れていません」


 ソフィアは真正面から返した。


「だからこそ、正面だけで払う気はない」


 間が空いた。宗務院は不機嫌に黙り、徴税監は計算を始め、商会代理人は面白そうに目を細める。利害は揃っていない。それでも帝国は進む。誰も同じ理由ではないまま、同じ机へ座り続けられることが、この国のしぶとさだった。


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