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落華祈雨  作者: 桔梗


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5.自らの力で

雨は、夜明けまで降り続いた。

山の端が白み始める頃、神殿の中には雨垂れの音と、薪の爆ぜる音だけが残っていた。


李華は寝台の脇に座ったまま、いつの間にか眠っていた。

背を柱へ預け、腕を組んでいる。

神であった頃には、眠ろうと思えば百年でも眠れた。

目を閉じれば夢も見ず、身体が痛むことも、冷えに震えることもなかった。

だが、人間の眠りというものは、ひどく浅い。

首は痛み、腰は軋み、床から這い上がってくる冷気が容赦なく身体を冷やしている。


「……体が石のようだな」


体の痛みで、李華は目を覚ました。


寝台の上で、藍雨がこちらを見ている。

顔色は依然として悪かった。


「……なぜ、まだいる」


「命を救ってやった恩人に向ける最初の言葉が、それか?」


李華は欠伸を噛み殺しながら立ち上がった。

全身が痛む。

昨夜、空から落ちたうえ、慣れぬ治療で一晩中屈んでいたせいだ。

人間とは、少し働いただけでこれほど身体が痛むものなのかーーと、李華は改めて人間という生き物に同情した。


藍雨が怪訝そうに目を細めた。

李華は答えず、藍雨の額へ手を伸ばした。


李華の手のひらが、藍雨の汗ばんだ額へ触れる。

昨夜よりは下がっていたが、それでもまだ熱は高かった。


「毒はまだ抜ききれていないようだな」


「……あぁ」


藍雨は寝台から起き上がろうとした。

だが、左腕へ力を入れた途端、肩に痛みが走ったらしい。

小さく息を呑み、身体を戻した。


李華はその様子を見て、昨夜巻き直した包帯へ目を落とす。

黒紫色の筋は薄くなっていたものの、完全には消えていない。

応急処置で毒が心臓へ回るのを遅らせただけだ。

このまま放っておけば、再び毒が回るだろう。


李華は右手首を見た。

三本の赤い輪のうち、一つ目はまだ消えていない。


"神の力を使わず、百人の命を救うこと"という試練は、とりあえず夜明けまで生かしておけばよい、というほど甘くはないらしい。

天帝の性格を考えれば、当然のことだった。


「医者に行く以外に方法はあるか?紫牙狼の毒を完全に消す薬はないのか?」


李華が尋ねると、藍雨は黙った。


「……あるにはある」


「どこに?」


「山頂近くに、夜露蘭(よろらん)と言う花が咲いている」


「夜露蘭?」


「夜露を吸って、夜明け前にだけ花を開く。紫牙狼の毒を消せるのは、あれだけだ」


李華は屋根の穴から空を見上げた。

雨は止み、空は明るくなり始めていた。


「夜明け前にだけ、か」


「……もう遅い」


「まだ日は昇りきっていないだろう」


「北壁までは、ここから一刻はかかる」


「走ればよい」


藍雨は、何を言っているのか分からないという顔をした。


「この山の北壁には、紫牙狼の巣があるんだぞ」


「そうか。まぁ、なんとかなるだろう」


李華は自分を見下ろした。


血に汚れた白衣。

片方だけの履物。

空から落ちた際にできた無数の傷。

神力も武器もない。

確かに、今の姿だけを見れば、山中で狼と戦える者には見えないだろう。


「なんだ、俺の心配をしているのか?」


「……そんなわけないだろう!」


李華は笑った。

藍雨は眉を寄せる。


「何がおかしい」


「いや。そなたにも、人を案じる心があったのだなと思ってな」


「……案じてなどいない」


「そういうことにしておこう」


李華は床へ置かれていた藍雨の剣を手に取った。

鞘から少しだけ抜き、刃を確かめる。

よく研がれてはいるが、刃こぼれが多い。

大切に手入れされている一方で、長い間、酷使されてきた剣だった。


「借りるぞ」


「……勝手に触るな」


「丸腰で狼の巣へ行かせるつもりか?」


藍雨が黙る。


李華は剣を腰へ差した。

かつて使っていた神剣なら、鞘から抜かずとも妖獣の群れを消し飛ばせたがーーしかし、今はこの古びた剣一本だけだ。


「道を教えろ」


藍雨はしばらく李華を睨んでいた。

やがて諦めたように息を吐く。


「……ここを出て、北の獣道を真っ直ぐ登れ。二つ目の沢を越えた先に……黒い岩壁がある。その近くの大きな枯れ木の根元に……夜露蘭が咲いているはずだ」


「分かった」


「……おい。お前……履物はどうしたんだ」


藍雨は、李華の片方しかない履物をじっと見ている。


「あぁ、ちょっと忘れてきてな」


藍雨は大きく息を吐くと、自分の履物を指差した。


「……俺の履物を使え」


「いいのか?これは助かる。では、借りていくぞ」


李華はそう言って、自分の履物を脱ぎ、代わりに藍雨の履物を履いた。


「では、行ってくるからな」


「……」


藍雨は何か言いかけているように見えたが、李華は、足早に神殿を出た。


***


雨上がりの山道は、ひどく滑った。

一歩進むたびに泥へ足を取られ、枝が衣へ絡みつく。


神であった頃なら、雲に乗って一息で山頂へ着けただろう。

今は、自分の足で登らなければならない。


「なんと不便な……」


李華は一人で悪態をつきながら山道を進んだ。

二つ目の沢を越えた頃には、空がさらに明るくなり始めていた。

急がなければならない。


北壁へ近づくにつれ、獣の臭いが濃くなる。

血と湿った毛皮が混じったような臭いだ。

李華は足を止めた。

正面の茂みから、低い唸り声が聞こえる。


一頭。

右手の岩陰に二頭。

背後にも、もう一頭。

神力は失っても、勘までは奪われていないようだ。


「四頭か」


茂みの奥から、紫牙狼が姿を現した。

普通の狼より一回り大きい。

黒い毛並みの間に紫色の斑紋が浮かび、口元からは粘ついた唾液が垂れている。

黄色い瞳が、李華を獲物として見据えていた。


一頭が地面を蹴り、跳びかかってくる。

李華は剣を抜いた。

その牙が喉へ届く寸前、李華は半歩だけ身を逸らし、紫牙狼の腹を割いた。

紫牙狼の黒い血が飛び散る。


二頭目が左から迫る。

李華は剣を返そうとしたが、間に合わない。

咄嗟に地面へ身を投げる。

爪が肩口を掠め、白い衣が裂けた。

皮膚が焼けるように痛む。

李華は転がりながら、剣の柄で狼の背を打った。

鈍い音がし、狼が怯んだ隙に立ち上がる。

呼吸が乱れている。

心臓が激しく脈打ち、肺が熱い。

李華は自分の胸へ手を当てた。

この身体は、油断すればすぐに死んでしまうーー気をつけねば。


背後から三頭目が迫る。

李華は振り返らず、濡れた地面へ剣を突き立てた。

刃を支えに身体を捻り、狼の顎を裸足で蹴り上げる。

足裏に激痛が走ったが、狼の身体は近くの岩へ叩きつけられた。


残る一頭が、動きを止めた。

李華は血に濡れた剣を構える。


「来るなら来い!」


紫牙狼は低く唸った。

だが、仲間の死体を一瞥すると、身を翻して森の奥へ消えていった。


李華は、剣を地面へ突き、荒い息を整える。

肩の傷から、血が流れていた。

李華は、自嘲するように笑うと、剣を抜き、再び歩き出した。

黒い岩壁へ着いた頃、東の空から朝日が差し始めていた。


藍雨が言っていた枯れ木を見つける。

だが、夜露蘭は見当たらない。

李華は枯れ木に近づき、その根元から崖を覗き込むと、遥か下の岩肌に、小さな白い花が咲いていた。

朝露をまとい、淡く輝いているーー夜露蘭だ。


「……おいおい、随分と面倒な場所に咲くものだな」


崖には、足をかけられる場所がほとんどない。

李華は近くの蔓を切り、腰へ巻きつけ、反対側を枯れ木へ結ぶ。


ーー落ちれば死ぬ。

死がこれほど明確に感じられることに、李華は恐怖と同時に、胸の高鳴りを感じていた。


李華はゆっくりと崖を下りる。

夜露蘭まで、あと少しーー朝日が岩壁へ届き始めている。

李華は身体を大きく振り、岩の突起へ飛び移った。


指先が夜露蘭へ届く。

白い花を手にした瞬間、結んでいた蔓が切れ、李華の身体が崖を落ちていく。

李華は、咄嗟に岩の亀裂へ剣を突き刺した。


腕が抜けそうなほどの衝撃が走り、宙吊りになったまま、李華は下を見た。

底は霧に隠れ、全く見えない。


「……危なかったな」


片手には夜露蘭、もう片方の手には、岩へ食い込んだ剣。

李華は歯を食いしばり、自分の身体を必死に引き上げた。

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