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落華祈雨  作者: 桔梗


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4.雨は降りそそぐ

李華はわずかに考えた。

神名をそのまま名乗るわけにはいかない。


李華の名は地上ではほとんど忘れ去られているとはいえ、ここはかつて彼を祀っていた神殿だ。

祭具や古い記録に、名が残されている可能性もある。

何より、神名には力が宿る。

今や神力を失った身とはいえ、人間に軽々しく明かすものではない。


李華は屋根に開いた穴を見上げた。

天より堕とされ、神の座を奪われた。

ならば下界では、名も裏返してしまえばいい。


華李(ファイ)だ」


単に神名を裏返しただけの単純なものではあったが、なぜだかしっくりきた。


「俺は名乗ったぞ」


李華は言った。


「次は、そなたの番だ」


「聞いてどうする」


「いつまでも『おい』や『そなた』では不便だろう」


藍雨(ランユー)


ーー雨。


その名を耳にした途端、屋根の穴から一粒の雫が落ち、李華の額を打った。


「名のとおり、雨を連れてくる男らしい」


「その雨を入れたのは、おまえだろうが」


李華は藍雨の剣先へ目を落とす。


「ところで……、いつまでそれを向けているつもりだ?」


藍雨が剣先で戸口を示す。

どうやら、”出ていけ”ーーということらしい。


李華は戸口の向こうを見た。

山には細い雨が降り続いている。

木々の間には白い霧が立ちこめ、獣の遠吠えらしきものまで聞こえてきた。

神力を失ったばかりの身体で歩くには、いささか厳しい。


ーーその時、藍雨が苦しそうに膝をついた。


***


「藍雨、そなた怪我をしているのか」


「していない」


「なぜ強がる」


李華は藍雨の左肩を見た。

腕の付け根あたりから、床へ一滴、赤黒いものが落ちた。

藍雨はさりげなく身体をずらし、それを隠した。


「何にやられた」


「お前には、関係ない」


「狼か?」


神力を失っても、数千年にわたり身につけた感覚までは消えていないらしい。

藍雨は警戒するように、李華を見つめた。


李華が一歩近づくと、藍雨は剣の柄へ手を伸ばした。

だが、指が柄を掴む前に、膝から力が抜けた。

藍雨の身体が傾き、李華は反射的に腕を伸ばした。

藍雨の身体が、その胸元へ倒れ込む。


「……っ」


李華はよろめいた。

力を失った人間の身体は、見た目以上に重い。

しかも李華自身も、落下の痛みで全身が悲鳴を上げている。

二人揃って倒れそうになりながら、どうにか藍雨を支えた。


「随分と体が熱いな」


額に手を当てる。

火に触れたような熱があった。

藍雨は薄く目を開く。


「……放せ」


「放せば、お前はこの濡れた床の上に倒れてしまうぞ?」


「……かまわない」


藍雨の顔色は白い。

それとは対照的に、首筋には不自然な赤みが広がっていた。


李華は外套をずらし、左肩を見る。

藍雨が腕を振り払おうとした。


「……触るな」


「いいから、動くな」


外套の下には、粗末な布が幾重にも巻かれていた。

その布は血と膿で濡れ、周囲の皮膚には黒紫色の筋が走っている。

李華の表情から、笑みが消えた。


紫牙狼(しがろう)か」


藍雨の瞼がわずかに上がる。


「……知っているのか」


「牙に毒を持つ狼の仲間だな。噛まれてから数刻以内に毒を抜かなければ、心の臓まで回るぞ」


「……まだ……一刻だ」


「薬は?」


「……ない」


「この辺に医者は」


「……ここから歩いて……三刻はかかる」


「その身体では、山を半分も下りられぬな」


李華は神殿の外を見た。

雨は先ほどより激しくなっている。


「なぜ、すぐに行かなかった?このままでは、夜明けまで持たぬぞ」


藍雨は驚かなかった。

まるで、初めから分かっていたような顔だった。


「……そうか」


「そうか、ではないだろう」


「……人間、死ぬ時は死ぬもんだ」


「随分と潔のいい餓鬼だ」


その時、手首に焼けるような痛みが走った。


***


「……っ」


三本の赤い輪のうち、一つが淡く光っている。

その上に、李華にだけ見える金色の文字が浮かんだ。


”神の力を使わず、百人の命を救うこと”


李華は文字を見つめた。

それから腕の中の青年へ目を落とす。


「……なるほどな」


李華は呟いた。


「何が……だ」


藍雨が苦しげに尋ねる。


「いや。こちらの話だ」


李華は天井の穴を見上げた。

雨粒が容赦なく頬へ落ちてくる。


李華は藍雨の腰に差してあった短剣を抜いた。

刃に指を滑らせ、切れ味を確かめる。


「火を起こすぞ」


「何をするつもりだ」


「毒に侵された肉を切り、穢れた血を出す」


「……医者なのか?」


「医者でなければ、人を救ってはならぬという決まりでもあるのか?」


李華は火打ち石を探した。

見つからない。

神であった頃なら、火など指先からいくらでも出せたものをーー李華は無意識に指を鳴らしたが、当然、何も起こらなかった。


「……」


藍雨が寝台から見ている。


「……今、何をして……たんだ?」


「……指の具合を確かめただけだ」


結局、李華は藍雨に火打ち石の場所を聞き、何度も失敗した末に、ようやく小さな火を起こした。


刃先を炎で炙る。

赤く熱せられていく短剣を見て、藍雨の顔が僅かに強張った。


「痛むぞ」


「分かっている」


「暴れるなよ。これでも咥えておけ」


李華は自分の袖を破り、藍雨に咥えさせると、赤く熱した刃を毒に染まった傷へ当てた。

雨の音を切り裂くように、藍雨の呻き声が廃神殿へ響いた。


***


どれほど時間が過ぎたのか。

李華が落ちてきた屋根の穴から見える空は、真っ暗で雨が降っているせいで星も見えない。


李華は藍雨を雨に当たらない場所に寝かしつけ、時折、自分の衣で藍雨の額の汗を拭いてやった。

藍雨は熱に浮かされ、何度も起きては意識を失った。

神力があれば、人間の傷の治療など一瞬で済んだだろうに。

李華の白い衣は藍雨の血で赤く汚れていた。


夜が深くなる頃、藍雨の呼吸はようやく穏やかになった。

紫色に浮かんでいた筋も、胸元へ達する前に止まっている。

李華は寝台の脇へ腰を下ろした。


「これで、朝までは持つだろう」


藍雨は眠っていた。

敵意に満ちていた顔も、眠ってしまえば年相応に幼く見える。


李華は自分の手を見た。

赤い血に濡れている。

右手首の赤い輪は、光らない。

試練が終わっていないということだろう。

この人間の命を救えたかどうかは、夜が明けるまで分からないということだ。


「まったく、出だしから面倒な人間に当たったものだ」


雨は、いつまでも降り続けていた。

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