3.必然の二人
長い落下だった。
雲を突き抜け、冷たい雨の中を通り、鳥の群れを散らしながら地上へ向かう。
屋根を突き破った瞬間、李華は自分がただの人間になったことを、心の底から理解した。
古びた屋根が眼下に迫り、李華は咄嗟に受け身を取った。
ドオーーーーーーーン!!!
轟音が山中に響き渡った。
瓦を砕き、梁を折り、供物台らしきものを巻き込んで、李華は、神殿の床へ背中から叩きつけられた。
全身に激痛が走る。
肺から空気が抜け、李華はしばらく息さえできなかった。
「――っ」
息が詰まった。
全身が痛い。
痛いという感覚を、李華は何百年も忘れていた。
目を開けると、崩れかけた天井の向こうに夜空が見える。
雨粒が、開いた穴から頬へ落ちてきた。
「……天帝の、性悪め……殺す気か!」
仰向けになったまま、穴の開いた天井を見上げる。
夜空が見えた。
細い月と、疎らな星。
李華は手を伸ばし、力を込めた。
何も起きなかった。
風一つ呼べない。
折れた梁を退けることもできない。
神力は、本当に欠片も残らず奪われていた。
「まったく、本当に冗談の通じない老人だ。本当に、不死性まで奪ったのか……」
悪態をつきながら、李華は身体を起こした。
***
周囲を見回すと、そこは、ずいぶんと古い神殿だった。
柱は腐り、壁には無数の亀裂が走っている。
屋根の半分は落ち、祭壇を覆う赤い布は、元の色が分からないほど褪せていた。
長い間、参拝者が訪れた形跡もない。
ただ、不思議なことに、床には埃が少なかった。
誰かが掃除をしているようだ。
祭壇の左右には、新しい蝋燭が一本ずつ灯されている。
そして、正面には巨大な神像が鎮座していた。
頭部の半分が欠けている。
それでも、その面持ちには見覚えがあった。
李華はしばらく神像を見上げた。
「……俺か?」
かつての自分を祀った神殿らしい。
彫刻師の腕は悪くない。
しかし、本人より鼻が少し低い気がした。
口元も威厳を意識しすぎて、ひどく不機嫌そうに見える。
「うん。似ていないな」
呟いた、その時だった。
背後で、空気が鳴った。
李華は反射的に身を捻った。
銀色の刃が頬を掠める。
数本の黒髪が宙を舞い、遅れて頬に熱が走った。
触れた指先に、赤い血がつく。
「……ほう」
死角から襲われた。
神であった頃ならば、百里先の殺気さえ感じ取れただろうが、今の李華は、刃が皮膚へ届くまで気づかなかった。
「避けたか」
若い男の声がして、李華は振り返る。
崩れた柱の影に、一人の青年が立っていた。
李華の金色の瞳が、青年へ向けられる。
二人の視線が重なった。
歳は、十八ほどだろうか。
雨の夜のような、青みがかった短い黒髪。
粗末な衣の上から、何度も繕われた外套を羽織っている。
細身ではあるが、剣を構える姿に隙はない。
白い頬には血の気がなく、目の下には薄い隈が浮かんでいた。
何より印象的なのは、その瞳だった。
深い藍色の瞳が、李華を射抜いている。
そこには、驚きも恐れもないーーあるのは、明確な敵意だけだった。
「人の家の屋根を壊しておいて、随分と偉そうだな」
「ここは神殿ではないのか」
「俺が住んでいる。だから俺の家だ」
青年は剣先を下ろさなかった。
「何者だ」
「その前に、人へ名を尋ねる時は自ら名乗るものだぞ?」
「屋根を突き破ってきた不届きものに、礼儀を説かれたくない」
「……それもそうだ」
李華は衣についた木屑を払い、立ち上がった。




