2.天より堕ちた花
凌霄殿には、天上に名を連ねる神々が集められていた。
位の高い神々がこれほど一堂に会することは滅多にない。
玉座に座る天帝を中心に、左右には武神と文神が整然と並んでいる。
かつてであれば、李華は天帝のすぐ下に席を与えられていた。
今では、彼のための席すらない。
殿内を満たす荘厳な空気の中、たった一人、片方の履物を失った男が悠然と入ってきた。
李華が姿を現すと、ざわめきが走る。
かつてならば、そのざわめきには畏敬と羨望が混じっていた。
ーー天帝に最も近い大神。
ーー百戦無敗の戦勝神。
地上に千を超える神殿を持ち、毎日、空を埋め尽くすほどの祈りを捧げられた男。
そう呼ばれていたのは、もう遠い昔の話である。
李華は、周囲を見回した。
「ずいぶん集まっているな。宴でも始まるのか?」
答える者はいない。
皆、関わり合いになるまいと視線を伏せている。
玉座の天帝だけが、鋭い眼差しを李華へ向けていた。
「これはこれは、天帝陛下」
片手を胸に当て、優雅に頭を下げる。
履き物が両方ありさえすれば、絵になる姿だった。
「わざわざ大勢を集めて、何のご用でしょう。俺はまだ眠いのですが」
天帝のこめかみが、わずかに動いた。
「李華よ」
「はい」
「この百年、地上からそなたに届いた祈願の数を知っているか?」
「千ほどでしょうか?」
殿内のあちこちから、息を呑む音がした。
「九百九十九万九十九だ」
「おお。では、あと一で千万というわけですね。それはめでたい」
天帝の指が玉座の肘掛けへ食い込んだ。
「そのうち、おまえが応えた願いはいくつだ?」
李華は少し考えるふりをした。
「十ほどでしょうか?」
「ゼロだ」
殿内の空気が凍りついた。
李華は悪びれもせず、肩をすくめる。
「人の欲には際限がありません。金が欲しい。愛されたい。病を治せ。戦に勝たせろ。死者を生き返らせろ。己では何もせぬくせに、口を開けば神頼みだ」
「人の願いを聞くことこそ、そなたの務めであろう」
「聞くだけなら聞いていますよ」
「そなたはいつも、耳を塞いで酒を飲み、眠っておるばかりではないか」
信仰は神の力の源だ。
多くの者に祀られるほど神力は増し、名は永く残る。
つまりーー信徒を失うことは、神にとって死に近づくことを意味するのだ。
天帝は静かに目を閉じた。
その顔に浮かんだのは、怒りではなかった。
長い年月をかけ、ついに見放した者の表情だった。
「李華ーーそなたから、神力と不死性を奪い、下界へ堕とすこととする」
「待ってください。いくらなんでも、話が急ではないですか」
「百年待ったのだぞ」
「神にとっての百年など、一眠りではありませんか」
「下界で、同じように言い訳をしてくるがよい」
李華の足元に、巨大な陣が現れた。
朱色の光が殿内を照らす。
「天界へ戻りたければ、三つの試練を果たせ」
天帝の声が響いた。
「一つ。神の力を使わず、百人の命を救うこと」
李華の右手首に、赤い輪が刻まれる。
「一つ。嘘偽りのない、心からの祈りを捧げられること」
二つ目の輪が刻まれた。
「一つ。おまえが天へ還る日、別れを心から悲しみ、涙を流す人間をつくること」
三つ目の輪が刻まれる。
「それだけですか?」
天帝の眉が動く。
「造作もないことだ」
回廊に並ぶ神たちの目が、一斉に冷たくなった。
「そなたは何も理解しておらぬな」
「……っ」
李華は初めて顔を歪めた。
身体を満たしていた神力が、凄まじい勢いで失われていく。
永遠に脈打つはずだった神の心臓が、一度、大きく止まった。
次に鼓動した時、それはもう不死者のものではなかった。
血と肉でできた、脆い人間の心臓だった。
「では、行け」
天帝が袖を振った。
陣の光が強くなる。
李華の身体が、足元から沈み始めた。
「せめて履物を――」
最後まで言い終える前に、李華の姿は凌霄殿から消えた。




