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ようやくとカフェに着いた時にはすっかり全身が、特に下半身が冷え切っていた。
まだ春が少し遠い、二月末であるが故、寒さばかりは致し方ないと思った。
決して、露出して走っていたから冷え切ったわけでないことは、初めにしっかり弁明しておく。あのあと家に逃げ帰り、ちゃんとパンツ以外は着たのである。
僕は変態ではない。ただ単純に自分の欲望に正直なだけなのだ。どちらかといえば紳士群に属しているのだ。
そんな哺乳類霊長目ノーパン紳士属な僕は、カフェに到着早々、いつもの窓際の席に着き、いつもの昼食を注文した。
かれこれ二年間通っているため、すっかり常連のそれであった。
この店『カフェパステル』を知ったのは、二年前の失恋したクリスマスのことだった。
失恋といっても、一方的に恋焦がれていた芸能人が、クリスマスイブに馬の骨と結婚しただけのことであったが、あのころを思い出すと今でも胸が痛んだ。
初恋であり、初の失恋だったのだ。
今でこそ元気に駆け回る息子であるが、そのころは鳴かず飛ばずそして勃たずで、心身ともに落ち込んでいた。
そんなとき、ふと羽休めのため立ち寄ったカフェだったのだが、店内は特殊なところがない、どこにでもあるようなものだった。常連になるほどのものではなかった。
しかし、ただ一点特別なところがあった。それは、天使が働いている、という点であった。
「お待たせしました。ランチセットでーす」
二年前が天使ならば、成長した今の彼女はまさに大天使であろう。さらに二年後は、もしかして女神ヴィーナスかな?
そう思わせるほどの磨きがかかった、純白のエプロンを着こなす彼女の美貌に思わず胸が、恥ずかしながら息子も弾んだ。
「ありがとう、白雪ちゃん」
「いえいえ。こちらこそ、いつもありがとうございます!」
億千万カラットの輝きを放つ眩しい笑顔に当てられ、僕の心臓は止まった。オーマイゴッド、ジーザスクライスト。
あぁ、神よ仏よメソポタミアよ。彼女をこの世に遣わせてくださり感謝いたします。思い残すことはもうありません。
彼女の笑顔を見るたび、僕は八百万の神々に祈りと心臓を捧げた。
僕の心臓を毎度止める彼女こと冬野白雪こそ、二年前にこの店で出会った天使であった。何を隠そう僕が、この店の常連になった原因である。
「大丈夫ですか。息が止まっていますけれど」
心臓と共に呼吸を止めていると、肩にまで伸びた黒髪を揺らしながら、天使白雪が心配そうに僕の顔を覗き込んだ。
海のように深く、真珠のように美しい瞳と視線が合い、緊張のあまり心臓が口から少し出た。
それを悟られまいと、震える唇から無事であるとの返事を紡ぐ。
「デュフフ。大丈夫でござる」
これが恋する二十一歳から紡がれた言葉であった。死にたい。
「息をしていなかったので驚きました。ちゃんと呼吸はしてくださいね。死んじゃいますから」
されど彼女は僕の口調など気にも留めず、細い腰に手を当てながら相好を崩した。
僕は確信した。彼女はまさしく本物の天使なのだと。
背中に天使の羽根が生えていることは、確かめるまでもなく間違いない。ということは頭上にない天使の輪っかは、どこかに落としたのであろう。
のちほど最寄りの交番で聞いてみるのがいいかもしれない。お巡りさん、天使の輪っかが落ちていませんでしたか、いいえ違います、変質者じゃないです、今日はちゃんと服着てます。
「そういえば聖夜さん。四月から大学四年生でしたっけ。やっぱり忙しくなるのですか」
脳内で警察に確保されていると、天使白雪が首を傾げ問いかけた。
「忙しくなるけれど大丈夫。それでもここには通うから。こ、この日差しが入る窓際の席が気に入っているし」
「よかったです。寂しくなるかと心配していたのですよ」
彼女の満天の星空を思わせるきらびやかな笑顔に、僕は本日二度目の心臓発作を起こした。
正式な病名はキミニコ・イシテイルデ症候群、略してキミコイである。主な症状は不整脈とそれに伴う窒息、ついでに息子が起き上がる。
しかし、このまま心臓を止めたならば、彼女に再び気苦労をかけさせてしまう。
僕は冷静になるため、舌をかみ切り半ば無理やり緊張を解いた。
「聖夜さん、口から何か赤い液体が流れているのですが……」
「ら、らいじょうぶ。ちょっと口の中を切っちゃっただけだから。そんなことより」
口に溢れ出す愛という名の甘い血を、苦いコーヒーで流し込み、僕は巧みに話を戻した。
「白雪ちゃんこそ今年高校三年、受験生でしょ。ここのアルバイトをやめたりしないよね? しないよね?」
「ふふっ、心配しなくたって大丈夫ですよ。こう見えても勉強得意なんです。アルバイトと受験勉強の両立だってしてみせます!」
えっへんと、ない胸を誇らしげに張るその仕草が、僕にとどめを刺した。
先ほど冷静を取り戻したかに見えた心臓から、動悸およびロマンティックが止まらない。
このままでは命が危ない。トキメキに殺されてしまう。
僕は覚悟を決めて、辞世の句を詠むことにした。
花開く薄雪草へ思ひおく、ことなしにけり悔いもまたなし。
さらば青春、ありがとう両親。我が生涯に一片の悔いなしとは、このことかと今悟った。
完。




