18
それから一週間、地獄のような日々が続いた。
あの銀次すら僕に気を使って、毎日のようにバイアグラやマムシドリンクを買ってきた。気遣いとは、ときに人を深く傷つけるものである。
僕の精神が限界を迎え、股間に効くからとスッポンを捕まえに行った帰り道、一人逃げるように繁華街へと向かったのは至極自然なことであった。
そして現在、慣れないバーでひたすら酒を浴び続けていた。
「すごい飲みっぷりね」
相当目立っていたようで、隅で飲んでいた女性が話しかけてきた。彼女は胸元の開いた、体のラインがはっきりわかる派手なドレスで、チェリーな僕ならば目のやり場に困りオロオロすること想像に難しくない。
しかし、EDになった僕には怖いものなど存在しない。僕はこれでもかと、ひたすら胸元を凝視した。
妖艶な胸元に覗くほくろが、妙な色気を醸し出していた。これならばといわずもがなに力を入れるが、息子は黙秘権を行使した。
「飲まないとやってられないよ」
僕は肩を落としたあと、バーテンダーにお代わりを要求し、すぐさま呷った。
「何があったのか知らないけど、バーでそんな飲み方はよくないと思うな」
「ほっといてくださいよ! こちとら悩んでいるんじゃい!」
「お姉さんでよければ、悩み聞くよ」
異性に優しくされて喜ばない男はいない。僕は即座に手のひらをドリルの如く回転させた。
「じゃあ聞いてくださいよー! これ、友達の話なんですけどー!」
僕はペラペラと不全になるまでのあらましを、脚色を交えつつ彼女にぶちまけた。
「なかなか面白い話ね」
「面白くなんてないですよ! 失礼な人だなぁ!」
「面白いわよ。特にその白雪ってこの話をするときの声は」
お姉さんはグラスの縁を指でなぞりながら、ゆるく笑った。
「声、ですか」
「そう。その子の話になると、急に大好きな物を見せびらかすみたいな声になる」
「好きなもの……」
「違う?」
違う、と言いたかった。
「でも、その人は男なんですよ」
お姉さんは少しだけ笑い、バーテンダーに軽く目配せした。僕の前に水の入ったグラスが置かれる。酒ではなかった。どうやらこれ以上飲ませる気はないらしい。
僕は水を飲んだ。お酒よりまあまあ美味しかった。
「それで、その子が男だったから、君は悩んでいるのね」
EDの話をしていたはずなのに、いつの間にか恋の相談になっていた。
「そりゃそうですよ。僕は女の子だと思って好きになったんですからね。普通男は男を好きにならないですよ」
「普通って、誰が決めたの?」
「世間とか、常識とか、文部科学省とかでしょう」
「文部科学省は関係ないんじゃないかな」
僕はグラスを両手で包み込んだ。冷たい水の感触が、酔いで熱くなった指先を少しだけ冷ましてくれる。
「でも、分からないんです。白雪ちゃんが男だって知って、ショックでした。今でも思うと胸が痛くなる。でも一緒にいると、やっぱりかわいいし、優しいし、笑ってほしいし、泣かないでほしいし、僕のことで苦しそうな顔をされると、こっちまで苦しくなるんです」
「うん」
「だけどそれは、恋じゃないのかもしれない。勘違いかもしれない。今まで女の子だと思っていた名残というか、惰性というか、残尿感というか」
「最後の例えはやめなさい」
「すみません」
お姉さんは頬杖をつき、真面目な顔になった。
「君は、その子が女の子じゃないと分かったあと、嫌いになれた?」
「……なれませんでした」
「もう会いたくないと思った?」
「思わないですそんなこと」
「その子が誰か別の人と仲良くしていたら?」
想像した瞬間、胸の奥で月が欠けた。
白雪が、僕以外の誰かにあの笑顔を向ける。僕以外の誰かのために、心配そうに眉を下げる。僕以外の誰かのために料理を作る。
料理は別にいいかもしれないが、それ以外は嫌だった。
「嫌ですね」
「じゃあ答えは出ているんじゃない?」
「でも、同性同士です。男が男に恋することなんてあるんですか」
「お姉さんは、分からなくもないかなぁ。好きだった相手が、偶然同性だったってだけだと思うの」
お姉さんは静かに言った。
「君は、女の子だからその子を好きになったの?」
答えは既に、胸の中にあった。
僕は白雪の笑顔が好きだった。心配そうに覗き込んでくれるところが好きだった。怒ると頬を膨らませるところが好きだった。意外と嫉妬深いところも、料理が壊滅的なところも、全部、どうしようもなく胸を締め付けた。
女の子だからではない。
白雪だから、好きだったのだ。
「君は認めてしまっていいと思うよ」
僕は、彼のことが好きなのだ。恋しているのだ。愛しているのだ。
トクンと胸に、温かいものを感じる。
トクンと息子に、温かいものを感じる。
自覚した瞬間、ちゃっかり、右手に、相棒が戻ってきていた。
「我、完全復活!」
そう言って、前よりもぎらぎら光る抜身のエクスカリバーさんが現れた。彼が戻ってきたということは、まさしく我が息子が元気に熱り立っていることに同義である。
「こうしちゃいられない!!」
僕は席を立ち、お勘定を済ませようとするが、焦る気持ちが邪魔をして、財布を上手に取り出せない。今すぐ駆け出して白雪のもとへ行きたかった。
「ふふっ、いいよ。早く行ってあげて。ここは私が払っておくから」
「でも僕いっぱい飲みましたよ」
「大人の女がいいって言ってるの。恥をかかせるつもり?」
優しい微笑みに背中を押された。
「ありがとうございます! また来ますので、そのときはお返しさせてくださいね!」
「うん。また面白い話を聞かせてね」
店を飛び出した。
愛の前では不全など、こうも脆いものなのだ。来たときには曇っていた空は、今はすっかり晴れ渡って、きれいな月が世界を照らしていた。
視界が広い。愛の処方箋はこれほどまでに、効果があるのか。
白雪のことを改めて考えた。
顔が、胸が、頭が、体が、心臓が、三十九度八分の高熱を上げ、息子は火が着いたように熱かった。
息を切らして部屋へ戻ると、銀次が水槽に指を突っ込んだまま、僕を出迎えた。
「ほら、戻ってきたやろ」
銀次は得意げに笑った。
ただし、指先にはスッポンが噛みついていた。痛くないのだろうか。
「心配かけたかな」
「まあな。でも、その顔見たら分かるわ。吹っ切れたんやろ」
僕は返事の代わりに、右手に握られている息子の化身を前に出した。
白銀の光が部屋に満ちる。以前よりも、どこか輝きが強く、妙に自信に満ちあふれている気がした。
「我、完全復活である!」
「戻っとるやんけ! ええやん!」
銀次が歓声を上げた拍子に、スッポンがさらに強く噛みついた。
「いだだだだだ! 離せやこの亀もどき!」
「というか、それ何?」
「何ってスッポンや。聖夜の不全に効く思うて、捕まえてきたんやろ」
そういえば、精神が限界を迎えた僕の、股間に効くからとスッポンを捕まえに行ったのだった。朦朧としていた僕は、逃げるように繁華街へ向かい、バーでお姉さんに人生相談をしたのであった。
水槽の中で、スッポンがぬるりと動いた。首を伸ばしたスッポンが、僕と目が合った瞬間、すっと甲羅の中へ引っ込む。
だぼだぼと余った皮が、首の周りに寄った。その姿が他人とは思えなかった。
「ねえ、銀次」
「なんや」
「この子、僕に似ているよ」
「どこがや」
「引っ込んだときの感じが」
「言われてみればそうやけど、言ってて悲しくないんか」
割と悲しかった。
が、同時に不思議な親近感が胸に満ちていた。
「決めた。この子の名前はペニーだ」
「可愛い名前やけど、わいは絶対呼ばんからな」
水槽の中のペニーは、何も知らない顔でこちらを見ていた。ただ僕には、彼が新たな名前を受け入れたように見えたのであった。
「おかえりなさい、聖夜さん」
キッチンの方から白雪が顔を出した。
エプロン姿だった。
その姿を見た瞬間、エクスカリバーさんが更にきらめいた。
白雪は僕の右手に握られているエクスカリバーさんを見て、ぱっと顔を明るくした。
「戻ったのですね!」
「うん。心配をかけたね」
「よかった……本当に、よかったです」
白雪は胸元で両手を握り、ほっと息を吐いた。その表情を見た瞬間、僕は思った。
やっぱり好きだ。
どうしようもなく、好きだ。
「聖夜さん、もう大丈夫なのですね」
「うん、大丈夫。色々とごめんね」
白雪の瞳が潤んだ。泣きそうな顔を見て、僕は慌てて笑った。
「ほら、白雪ちゃんの顔を見て、エクスカリバーさんが光っているし! 大丈夫、大丈夫!」
言ってから、自分がとんでもない発言をしたことに気づいた。
白雪の顔が一瞬で赤くなる。銀次が口笛を吹く。エクスカリバーさんが無駄に光る。ペニーだけが水槽の中で無関係そうに泡を吐いた。
「そ、それは、よかった、です」
「いや違うんだ。違わないけど違うというか」
「どっちやねん」
銀次の茶々を無視し、僕は咳払いをした。
そうだ。言わなくてはならない。
バーでお姉さんに背中を押された。僕は逃げるのをやめた。白雪が男だとか、僕が男だとか、そういうものを全部脇に置いて、それでも残った気持ちを認めたのだ。
白雪に伝えたい。
君が好きだと叫びたい。
君が男でも、女でも、冬野白雪という人を愛しているのだと。
「白雪ちゃん、話があるんだ」
「はい?」
白雪が小首を傾げた。
その仕草だけで吐血しそうになった。かわいい。あまりにもかわいい。
「白雪ちゃん」
「はい」
「僕は、君に伝えたいことがあって」
白雪が真剣な顔になる。
銀次が空気を読んだのか、テレビを消そうとリモコンを手に取った。
その瞬間だった。
『続いてのニュースです。昨夜未明より、市内で男性の下半身を狙った連続傷害事件が発生しています』
部屋の空気が止まった。
テレビ画面には、見慣れた町の風景が映っていた。駅前の通り。僕たちがよく使う商店街。そのすぐ近くに、黄色い規制線が張られている。
『被害者はいずれも男性で、犯人は下半身を集中的に狙っていることから、警察は同一犯の可能性もあると見て捜査を進めています。近隣住民からは……』
「息子狩りや」
銀次が呟いた。
ただの通り魔なのかは分からない。だが、下半身を狙うという一点で、僕たちには思い当たる節があった。
そのとき、白雪の顔から血の気が引いていることに気が付いた。
「白雪ちゃん?」
呼びかけても、彼は答えなかった。
ただテレビ画面を見つめたまま、唇をわずかに震わせていた。
その横顔は、驚きというより、もっと違う感情が含まれているように見えた。




