第2節:依頼人の来訪
その日の午後だった。
マルクスが黄金の盾から回された魔法陣の修正案をまとめ終え、書類を封筒に戻した頃——階下から、受付の声が聞こえた。
「マルクスさん、お客様です」
ギルドに来客とは珍しい。依頼は普通、掲示板に貼り出されるか、ヴェルナーを通じて持ち込まれる。個人を名指しで訪ねてくる者がいるとすれば——よほどの事情がある。
階段を下りると、一階のカウンター前に一人の男が立っていた。
三十代半ば。中背、やや痩せ型。きちんと整えた短い茶髪に、落ち着いた灰色の上着。飾り気のない、しかし仕立ての良い服だった。上着の襟元に、小さな紋章の刺繍がある。——貴族の家に仕える者の身なりだ。
表情は穏やかだが、目の奥にわずかな焦りがある。マルクスはそれを見て取った。
「ディートリヒ」
「お久しぶりです、マルクスさん」
ディートリヒ・ランゲ。元老院議員ベッカー子爵家の侍従で、主家の対外的な用向きを取り仕切る実務家だ。城下街のベッカー邸から橋を渡って、わざわざ旧市街まで足を運んできたことになる。
二年ほど前、ベッカー家が所蔵する古い魔道具の鑑定をギルドに依頼してきた際に知り合った。真面目で実直。貴族社会の政治的な駆け引きには疎いが、仕事は丁寧に、確実にやる。マルクスにとっては、貴族の家中では数少ない信頼の置ける相手だった。
「上で話しましょう」
二階の会議室に案内した。狭いが、扉を閉めれば話は外に漏れない。
厨房からコーヒーを二つ運ばせ、向かい合って座る。ディートリヒは出されたカップに手をつけず、しばらく視線を落としていた。
「……マルクスさんに、折り入ってお願いしたいことがあります」
「見れば分かる。顔に書いてある」
ディートリヒが、小さく苦笑した。
「——相変わらず、お見通しですね」
「普段のお前は、もう少し肩の力が抜けている」
マルクスはコーヒーを一口含み、黙って待った。急かしても良いことはない。ディートリヒは言葉を選ぶ男だ。選ばせてやったほうがいい。
やがて——ディートリヒは、意を決したように口を開いた。
「ベッカー子爵——ハインリヒ・フォン・ベッカー様のご嫡男のことです」
マルクスは表情を変えなかった。ハインリヒ・フォン・ベッカー子爵。元老院議員の中でも堅実な政治姿勢で知られる人物だ。魔道具の鑑定の折に、一度だけ顔を合わせている。
「ご嫡男——カール・フォン・ベッカー様。二十二歳。魔法学院を卒業し、子爵のもとで政務を学び始めたばかりです」
「ああ」
「その方が——脅迫を受けています」
「脅迫」
「はい」
ディートリヒは、声を落とした。
「無頼漢が接触してきまして——『女に暴力を振るい、身ごもらせた。慰謝料と認知を出せ』と」
「……」
「応じなければ、縁談の相手の家と元老院の双方に暴露すると脅しています」
「縁談があるのか」
「はい。有力貴族の令嬢との話が進んでいました」
マルクスは腕を組んだ。
脅迫の材料としては、これ以上ないほど効果的だ。知られれば縁談は破談。元老院にも知れれば家門の名誉は地に落ちる。父である子爵の政治生命にも響く。
「で——息子本人は何と言っている」
ディートリヒの声が、わずかに詰まった。
「……その夜のことを——覚えている、と」
「覚えている」
「はい。身に覚えがあると。そのため否定しきれず、精神的に相当追い詰められているようです」
身に覚えがある。
典型的な美人局であれば、当人に記憶があるのは当然だ。酒と女に溺れ、その弱みを握られる。古典的な手口であり、しかし効果的だ。
だが。
マルクスは、カップの縁を指先でなぞりながら考えた。
(わざわざディートリヒが、橋を渡ってギルド街の魔法使いのところまで来るような案件か?)
「請求額は」
「……法外です。とても一度では払えない額を吹っかけてきている上に、一度払えば二度三度と——」
「際限がなくなる」
「はい」
典型的な美人局であれば、相場というものがある。吹っかけるにしても、払えない額では脅迫にならない。法外な額を要求しているということは——最初から金だけが目的ではないか、あるいは相手の足元を見て搾り取る気だ。
「行政局の治安部門には」
「それが——噂になるのが何より怖いのです。治安行政に持ち込めば、記録が残る。どこから漏れるか分からない」
「縁談への影響か」
「はい。知られれば破談は確実です。それに元老院にも知れれば、子爵の政治生命にも——」
マルクスは腕を組み直した。
金額が法外で、しかし公にはできない。治安行政には頼れず、貴族社会の内部で人を動かせば噂が広まる。八方塞がりだ。
「家中にも、信用できる者がいないということか」
「……その可能性も含めて、です」
マルクスは、ディートリヒの言葉の選び方に注意を払った。
「その可能性も含めて」——ディートリヒは政治が苦手な男だが、馬鹿ではない。家中に信用できる者がいないどころか、家中に何かがある可能性を——少なくとも、匂わせている。
「それで——貴族社会の外に、口が堅くて信頼できる人間が必要だと」
「はい」
ディートリヒは、真っ直ぐにマルクスの目を見た。
「マルクスさんなら、腕も口も堅い。そう——子爵に推薦させていただきました」
マルクスは、コーヒーを飲み干した。
貴族の揉め事は面倒だ。血統と面子と利権が絡む世界で、ギルドの魔法使いが首を突っ込んでも碌なことはない。そうした案件は、得てして解決しても感謝されず、失敗すれば恨まれる。
だが——ディートリヒの目は、真剣だった。この男が城下街から橋を渡り、わざわざ足を運んで頼みに来たということは、他に頼れる相手がいないということだ。
マルクスは、空になったカップを静かに置いた。
「……わかった。引き受けよう」
ディートリヒの肩から、目に見えて力が抜けた。
「ありがとうございます。——本当に」
「礼はまだ早い。まずは息子に会わせてくれ。本人の話を聞かんことには、動きようがない」
「手配します。場所と日時は追って——」
「目立たないところにしろ。ギルドに呼ぶのは具合が悪い。子爵家の嫡男がギルド街を歩けば、人目につく」
「はい。——心得ております」
ディートリヒは立ち上がり、深く頭を下げた。
「それと——」
マルクスは、立ち去ろうとするディートリヒの背に声を掛けた。
「子爵殿には、こう伝えてくれ。調査の内容は、依頼人にも段階的にしかお伝えしない。こちらの動きを知る人間は、少ないほうがいい——と」
ディートリヒは振り返り、一瞬考え込んだ後——小さく頷いた。
「……承知しました」
その表情は、マルクスの含意を正確に読み取っていた。
——家中に内通者がいるかもしれない以上、依頼人の身辺にも情報を漏らさないということだ。
*
ディートリヒを見送った後、マルクスは一階に下りた。
カウンターでは、ヴェルナーが帳簿をつけていた。マルクスの気配に顔を上げ、一瞥する。
「引き受けたか」
「ええ」
「貴族絡みか」
「……まあ、そんなところです」
ヴェルナーは帳簿に目を戻し、ぼそりと言った。
「依頼料はちゃんと貰えよ」
「わかってますよ」
マルクスは苦笑し、出口に向かった。ヴェルナーはそれ以上何も言わなかった。長年の付き合いだ。マルクスが自分で判断したことに、口を出すつもりはない。
ギルドの扉を開けると、午後の陽光がギルド街の石畳を白く照らしていた。
穏やかな日常に、ひとつの影が差し込んだ。
(第2節 了)
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### 解説:コーヒー(Káva)
連邦では比較的新しい飲み物だ。南方交易路を通じて入ってきた豆を炒り、挽いて湯を注ぐ——普及したのはここ数十年のことで、今でも「南方の飲み物」というイメージが残っている。
**アルカでの飲み方:** 最も一般的なのは、細かく挽いた豆を小鍋で煮出す方式だ。濃く、苦く、底に沈んだ粉ごと器に注ぐ。砂糖を加えて飲む者も多いが、黒いままで飲むのが通とされる風潮もある。ギルド街の事務所や会議室では、手間のかかる煮出し式ではなく、湯を通すだけの簡易な布袋式が普及している。
**ビールとの使い分け:** 旧市街の住人にとって、日常の飲み物はビールだ。昼飯にもビールを飲む。しかしコーヒーは「仕事の場」を意味する——商談、依頼の聞き取り、深刻な話し合い。厨房にコーヒーを頼む時、それは「腰を落ち着けて話を聞く」という意思表示でもある。マルクスがディートリヒに出したのも、そういう理由からだ。
**ギルドとコーヒー:** ストジーブルナー・ルーナでは、来客時にコーヒーを出す習慣がある。茶ほど手軽ではなく、ビールほど砕けてもいない——その中間の距離感が、外部の依頼人との場に向いている。




