第3節:調査開始——白狐亭の親分
## 第3節:調査開始——白狐亭の親分
翌日の昼。
マルクスは旧市街の裏通りを歩いていた。
ギルド街から北へ少し入った一角。古い石造りの建物が軒を連ね、狭い路地に午後の日差しが差し込んでいる。表通りほどの華やかさはないが、住人たちが丁寧に暮らしている気配がある。窓辺に花を飾った家、路地の角で井戸端話をする女たち。旧市街の中でも、落ち着いた界隈だった。
路地の奥に、「白狐亭」の看板が見えた。
宿付きの飲食店だ。石造り三階建て、一階が酒場兼食堂、二階と三階が宿泊用の部屋になっている。建物は古いが手入れが行き届いており、入口の木の扉は磨き込まれて飴色に光っていた。
扉を開けると、煮込み料理の良い匂いが出迎えた。昼時の店内には、近所の職人や商人たちが席についている。奥のテーブルでは旅装の男が二人、地図を広げて何やら相談していた。旧市街を訪れる旅人の定宿にもなっている店だ。
「おう、マルクス。珍しいな、昼から」
カウンターの奥から、低い声が掛かった。
ヤン。六十歳。白狐亭の主人だ。
だが、ただの宿屋の主人ではない。旧市街のデサートニク——十人隊長。街区の治安と秩序を預かる、自治組織の顔役だ。この界隈で何か事件があれば真っ先に駆けつけ、行政局の衛兵に引き渡すまでの一切を取り仕切る。住人たちからは「白狐亭の親分」と呼ばれ、人望が厚い。
痩せた体躯だが、骨格はしっかりしている。若い頃は冒険者で、戦士として腕を鳴らしたという。白髪混じりの髪を後ろで束ね、袖をまくった腕には古い傷痕が幾筋か走っていた。今でも捕縛術の心得があり、並大抵の悪党なら苦もなく取り押さえる。
六十になった今も、その目だけは——若い頃と変わらぬ鋭さを湛えていた。起きている時は常に周囲に気を配り、勘を磨き続けている男だ。
「昼飯を食いに来た。——それと、少し聞きたいことがある」
「ほう」
ヤンは短く応じた。カウンターに肘をつき、マルクスの顔をじっと見る。
「まずは飯だ。今日のおすすめは?」
「ああ、今日はスヴィーチコヴァーが上出来だ。——おい、ハナ。マルクスにスヴィーチコヴァーだ。クネドリーキもつけてやってくれ」
厨房に向かって声を掛けると、奥から「はいはい」と女の声が返ってきた。ヤンの女房、ハナだ。白狐亭の厨房を一手に切り盛りしている。この店が繁盛しているのは、ヤンの人望もさることながら、ハナの料理の腕によるところが大きい。
しばらくして、皿が運ばれてきた。
スヴィーチコヴァー。牛肉をじっくりと煮込み、濃厚なクリームソースで仕上げた伝統料理だ。肉の上には、たっぷりのホイップクリームとクランベリーソースが添えられている。付け合わせのクネドリーキ——蒸しパンのような茹で団子——が、ソースを受け止めるように並んでいた。
マルクスはフォークで肉を切った。ほろりと崩れ、ソースの香りが立ち上る。一口含むと、肉の旨味とクリームのまろやかさが舌の上で溶け合った。
「……旨い」
静かに呟く。ハナの料理は、いつも裏切らない。
クネドリーキにソースを絡め、もう一口。根菜の甘みが、肉の味を引き立てている。
マルクスは食事を進めながら、自然な声で切り出した。
「最近、女を使った恐喝事件が増えているそうだな」
ヤンの表情が、わずかに引き締まった。
デサートニクの顔だ。街区の治安に関わる話題には、職業的に反応する。
「——ああ。こっちも目をつけている」
「心当たりがあるか」
「赤猫のヴァーツラフだ」
ヤンは声を落とした。周囲の客に聞こえないよう、だが隠すそぶりは見せない。デサートニクが仕事の話をしているだけだ。
「旧市街の裏路地を根城にしている無頼漢。三十代半ば。元は賭場の用心棒崩れだったが、ここ半年ほど——急にやり口が変わった」
マルクスは、スヴィーチコヴァーを口に運びながら聞いていた。
「やり口が変わった、というと」
「以前はただのチンピラだった。賭博のイカサマ、酔っぱらいの財布抜き——小悪党の範疇だ。だが最近は手口が巧妙になった」
ヤンは腕を組んだ。
「女を使って若い男を誘い込む。酒を飲ませて——いや、**薬を盛って**眠らせる。目が覚めた時には、もう何が何だか分からない。それで脅して金を巻き上げる」
「……典型的な美人局か」
「それだけなら、まだ分かるんだがな」
ヤンの目が、鋭くなった。
「最近の被害者がおかしなことを言うんだ。——**やってもいないことを覚えている**、とな」
マルクスの手が、一瞬止まった。
「——やってもいないことを、覚えている」
「ああ。身に覚えがねえはずなのに、『確かにやった』と思い込んでいる。だから否定できねえ。脅されれば、払うしかねえ」
マルクスは、フォークを置いた。
クネドリーキにソースを絡める仕草で、考えを巡らせる。
——やってもいないことを、覚えている。
それは単なる薬の効果ではない。意識を朦朧とさせるだけなら、記憶は曖昧になるはずだ。「やっていない」ことを「やった」と確信させるには——。
(記憶への干渉か)
精神干渉魔法。認知ハック。
本来は治癒魔法の応用として発展した技術だ。戦場で負った心的外傷を緩和するため、記憶の鮮烈さを和らげる術式——それを攻撃的に転用すれば、偽の記憶を植え付けることも、理論上は可能だ。
だが、それには高度な術式と、術師が必要になる。ただの無頼漢に使える技術ではない。
「ヴァーツラフに、腕のいい術師がついている可能性がある」
「……魔法絡みか」
ヤンの声に、わずかな緊張が混じった。この男の経験と勘は、剣や拳で片がつく相手には無類の強さを発揮する。だが、魔法が絡む案件は——勝手が違う。
だからこそ、マルクスとの協力関係がある。以前、旧市街で魔法を使った犯罪が発生した際、ヤンはマルクスに助けを求め、マルクスはそれに応えた。以来、二人の間には——言葉にはしないが——確かな信頼がある。
「ヴァーツラフが最近出入りしている場所は、押さえているか」
「当然だ」
ヤンはカウンターの下から、小さな羊皮紙の切れ端を取り出した。
「旧市街の裏通りにある安酒場が二軒。歓楽街の賭場が一軒。——それと、ヴァーツラフがよく女を連れ込む宿がある」
マルクスは羊皮紙を受け取り、一瞥して懐にしまった。
「助かる」
「こっちもあの野郎には手を焼いてたところだ。薬やら魔法やらが出てくると、俺の手に余る。——頼んだぞ、マルクス」
「ああ」
マルクスは残りのスヴィーチコヴァーを平らげ、クネドリーキでソースを拭った。最後の一口を飲み込み、立ち上がる。
懐から銀貨を数枚取り出し、カウンターに置いた。飯代にしては明らかに多い。
「ごちそうさま。——釣りは息子に何か買ってやれ」
「馬鹿言え、こんなに要らねえよ」
「ハナの飯は値段以上だ。文句を言うな」
ヤンは一瞬、何か言いかけたが——結局、ぶっきらぼうに銀貨を回収した。
「……何か分かったら、知らせてくれ」
「もちろんだ」
マルクスは小さく頷き、白狐亭を後にした。
*
表通りに出ると、午後の日差しが眩しかった。
マルクスは路地を歩きながら、頭の中で情報を整理していた。
赤猫のヴァーツラフ。女を使った美人局。そして——**やってもいないことを覚えている**という異常。
ヤンの情報と、ディートリヒから聞いた話が符合する。カール・フォン・ベッカーは、ヴァーツラフの被害者だ。そして、その手口には——記憶への干渉が使われている可能性が高い。
だが、それだけでは足りない。
まずはカール本人に会い、話を聞く必要がある。「覚えている」という記憶が、本物なのか偽物なのか——それを見極めるには、本人の証言を直接聞くしかない。
マルクスは懐から羊皮紙を取り出し、もう一度確認した。
ヴァーツラフの行動範囲。安酒場、賭場、宿——。
まずはカールとの面会を手配し、その後でヴァーツラフの尾行に入る。情報を集め、仮説を検証し、証拠を固める。
——バグを追うのと同じだ。
症状を観察し、原因を推定し、再現手順を突き止める。論理的に追跡すれば、必ず真相に辿り着く。
マルクスはギルド街へ向かって歩き出した。
午後の陽光が、旧市街の石畳を照らしていた。
(第3節 了)
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### 解説:スヴィーチコヴァー(Svíčková na smetaně)
連邦の伝統料理の中でも、とりわけ格の高い一皿として知られる。祝いの席や、昔ながらの宿の「今日のおすすめ」として看板に掲げられることが多い。白狐亭のハナは界隈で評判のスヴィーチコヴァーを作ることで知られており、午後には売り切れることもある。
**作り方と特徴:** 牛のモモ肉や肩ロースをまず鍋で焼き色をつけ、根菜(人参・パセリ根・セロリ・玉ねぎ)とともに長時間煮込む。仕上げに生クリームを加えてソースを作り、肉と合わせる。淡い橙色のクリームソースはまろやかで深みがあり、根菜の甘みが長い余韻を作る。
**添え物:** 必ずといっていいほど、ホイップクリームとクランベリーソースが添えられる。クリームソースにホイップクリームを混ぜながら食べるのが正式な食べ方で、甘みと酸味のコントラストが全体を引き締める。クネドリーキ(茹でた蒸しパン状の団子)でソースを拭いながら食べるのが、連邦の食卓での習わしだ。
**マルクスと白狐亭:** 白狐亭に来る目的の半分はヤンからの情報収集だが、もう半分はハナの料理だとマルクス本人は認めていない。スヴィーチコヴァーは滅多に頼まない。「今日のは上出来だ」とヤンが言う日にだけ頼む、という不文律がある。




