第4節:カールとの面会
五日後の午後。
マルクスは、新市街の小さな茶房にいた。
大通りから一本入った路地沿いの、目立たない店だ。学院の学生や若い商人が利用する気楽な茶房で、午後の遅い時間帯は客もまばらになる。城下街の格式張った店と違い、気取った空気はない。貴族の嫡男が一人で訪れても、誰も気に留めないだろう。
ディートリヒへの指示通り、目立たない場所を選んだ。
奥の壁際に席をとり、コーヒーを注文する。入口からは見通しが利かず、他の客とも距離がある。待ち合わせには都合の良い席だった。
約束の時刻に、男が入ってきた。
二十二歳。中背、やや細身。きちんと整えた金髪に、父親似と思しき堅い面差し。上着は城下街の仕立てだが、貴族にしては地味な色を選んでいる——人目を避けたいのだろう。
カール・フォン・ベッカー。
マルクスは一目で、この若者が追い詰められていることを見て取った。目の下に濃い隈。頬はこけ、口元は強張っている。生真面目な性格が裏目に出ているのだ——罪の意識に苛まれている人間の顔だった。
「マルクス・アッシュベルク殿ですか」
「ああ。座ってくれ」
カールは向かいの椅子に腰を下ろした。背筋を伸ばし、手を膝の上に置く。礼儀正しいが、指先がわずかに震えていた。
「コーヒーでいいか」
「……はい」
店の娘にもう一杯注文し、マルクスはカップに口をつけた。急かさない。ディートリヒの時と同じだ——言葉を選ぶ人間には、時間を与えてやったほうがいい。
コーヒーが運ばれてきた。カールが一口飲む。カップを置く手が、まだ震えている。
「ディートリヒから聞いていると思うが——俺はギルドの魔法使いだ。今回の件について、お前の父上から依頼を受けている」
「は、はい。……お願いいたします」
「その前に、お前自身の話を聞きたい。概要はディートリヒから聞いた。だが、本人の口から聞かなければ意味がない」
カールは頷き、しばらく逡巡した後——搾り出すように語り始めた。
「……父の仕事を手伝い始めて、一年になります」
マルクスは黙って聞いた。
「元老院に出入りするようになって——痛感しました。利権と慣習に凝り固まっている。若い世代が声を上げなければ、何も変わらない」
若者の目に、一瞬だけ光が戻った。理想を語る時だけ、追い詰められた顔が消える。だが、すぐにその光は翳った。
「正規の手順では、時間がかかりすぎます。元老院の内部で地道に調査しても、情報は上の世代に握られている。……焦っていました」
カールは目を伏せた。
「そんな時——小姓のルードルフが声を掛けてきたんです。『歓楽街に、貴族社会の裏事情に詳しい人間が集まる店がある。お役に立てるかもしれません』と」
「お前から頼んだのではなく、ルードルフから持ちかけてきたのか」
「はい。俺が——元老院の現状に苛立っているのを、見ていたのだと思います。利権の構造、腐敗の実態——そういう情報が手に入ると聞いて、飛びつきました」
(——若い奴がやりがちな失敗だな)
マルクスは内心でそう思った。焦っている時に差し出された近道ほど、危ういものはない。
(それに——小姓のほうから持ちかけた、か)
マルクスは表情を変えなかった。
「それで」
「ルードルフの紹介で、何度か酒場に出入りしました。……ある夜——」
カールの声が、途絶えた。カップの縁を見つめ、唇を噛んでいる。
「——ある夜、酒場で女に声を掛けられました」
マルクスは、コーヒーをゆっくり飲みながら待った。
「美しい女性でした。年は私と同じくらいか、少し上か……。話が弾んで、酒を酌み交わして——」
カールの手が、膝の上で拳を握った。
「——その後のことを、覚えています」
「覚えている」
「はい。その女性と——宿の部屋で——」
言葉が詰まった。カールは歯を食いしばり、額に汗を滲ませた。
「……自分が——彼女に——乱暴に振る舞ったことを。はっきりと——覚えているんです」
マルクスは口を挟まなかった。
「彼女の顔も、声も、匂いも——全部、覚えています。……信じたくない。自分がそんなことをするなんて。でも——覚えているんです。夢じゃない。確かに——」
カールの目が赤くなっていた。拳を握る指が白い。
「数ヶ月して、その女性が現れました。身ごもったと。……そして、無頼漢が——」
「ああ、その先はディートリヒから聞いている」
マルクスは、不要な反復を避けた。カールにこれ以上苦しい告白を繰り返させる意味はない。必要なのは、事実の確認だ。
「いくつか聞く」
「……はい」
「その夜、酒は何杯飲んだ」
カールは少し考えた。
「二杯ほどです。酒は強いほうではありませんが、二杯で……前後不覚になるようなことはありません」
(二杯で記憶を失うはずがない——だが、「覚えている」と本人は言っている。記憶が飛んだのではなく、「ある」のだ)
「その記憶について、もう少し詳しく聞かせてくれ。酒場で女と話していた。それから——宿の部屋に着くまでの間は、どうだった」
カールの眉が寄った。
「…………」
沈黙。目を閉じ、記憶を辿っている。
「……酒場で、二杯目を飲み終えた辺りまでは——はっきりしています。女性と笑い合って、それから——」
言葉が途切れた。
「——気がつくと、宿の部屋にいました」
「酒場から宿まで、どうやって移動した」
「……覚えて、いません」
カールの顔に、困惑が浮かんだ。初めて気づいたような表情だった。
「言われてみれば——酒場を出てから部屋に入るまでの記憶が——ない。でも、部屋の中の記憶は——鮮明で——」
マルクスは、カップをそっと置いた。
(——やはりか)
記憶に**不連続性**がある。
酒場での記憶は自然だ。二杯の酒に適度な酔い。そこまでは本物の記憶だろう。だが、その後——酒場を出てから宿に着くまでの移動の記憶が**完全に欠落**している。そして、宿の部屋での記憶だけが、不自然なほど**鮮烈**に残っている。
普通、酒に酔った夜の記憶は曖昧になる。ましてや移動中の記憶が消えるほどの酩酊状態なら、その後の記憶はさらに朦朧としているはずだ。
ところが、カールの証言は逆だった。移動の記憶がなく、行為の記憶だけが鮮明——。
(まるで、空白の上に別のデータを差し込んだような構造だ。ログの時系列が狂っている)
本来あるべきデータ——酒場から宿への移動——が消去され、代わりに異常なほど鮮明なデータ——行為の記憶——が上書きされている。
二杯の酒で前後不覚になる道理がない。だとすれば——酒に何かを盛られたか。薬で意識を落とし、その空白に——。
ヤンが言っていた言葉が、頭の中で重なった。
——**やってもいないことを、覚えている。**
(仮説Bの可能性が高い。だが、まだ早計だ。裏を取らなければ)
マルクスは顔に出さず、もう一つだけ確認した。
「その酒場に出入りしていたことは、誰が知っていた」
「友人のエーリヒと……あとはルードルフです」
「家族は」
「父とディートリヒには——脅迫を受けてから、打ち明けました。それまでは誰にも……歓楽街に出入りしているなど、言えるはずがありません」
(事前に知っていたのは、友人のエーリヒと、小姓のルードルフだけ——)
マルクスはこの時点で、二つの仮説を整理した。
仮説A。典型的な美人局。カールの記憶は本物で、酒と女に溺れた結果だ。小姓ルードルフは歓楽街への案内人に過ぎず、脅迫犯とは無関係。
仮説B。認知的改竄。カールは薬で眠らされ、その間に偽の記憶を植え付けられた。小姓ルードルフは脅迫犯と通じており、カールを罠に誘い込んだ内通者。
どちらの仮説でも、確定していることが一つある。
——カールの行動を事前に知っていた人間が、限られている。
友人のエーリヒと、小姓のルードルフ。そのうち歓楽街を「紹介した」のはルードルフだ。
マルクスは、疑念を顔に出さなかった。確証のない段階で動揺を見せれば、情報が歪む。裏を取ってからだ。
「分かった。話してくれて助かった」
「あの……俺は、本当に——」
「今は何も言うな」
マルクスは静かに、しかし確かな声で言った。
「真相は俺が調べる。お前は今まで通りに暮らせ。普段と違うことはするな。——脅迫にも、まだ応じるな」
「……はい」
「それと、今日ここで俺と会ったことは、誰にも言うな。ルードルフにも、友人にも」
カールは真っ直ぐにマルクスの目を見て——深く頷いた。
「……わかりました」
マルクスは立ち上がり、カウンターで二人分の勘定を済ませた。カールが「自分が」と言いかけたが、マルクスは手で制した。
「いい。気にするな」
茶房を出ると、新市街の大通りが午後の賑わいに包まれていた。学院の学生たちが談笑しながら歩き、商人が荷車を押して通り過ぎる。穏やかな日常の中に、先ほどのカールの蒼白な顔が残像のように浮かんでいた。
(記憶の不連続性。移動の空白。二杯の酒で倒れる道理がない。そして——やってもいないことを覚えている)
状況証拠は、仮説Bを示唆している。だが確証はない。
次にやるべきことは明確だ。ヴァーツラフの行動を追い、ルードルフとの接点を洗う。仮説Bが正しければ——二人を結ぶ線が、必ずどこかにある。
マルクスは旧市街へ向かって歩き出した。
(第4節 了)




