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氷河期(アイスエイジ)の魔法使い  作者: よん
第2章:「ギルドの日常」——脅迫者の罠

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第4節:カールとの面会

 五日後の午後。


 マルクスは、新市街の小さな茶房にいた。


 大通りから一本入った路地沿いの、目立たない店だ。学院の学生や若い商人が利用する気楽な茶房で、午後の遅い時間帯は客もまばらになる。城下街の格式張った店と違い、気取った空気はない。貴族の嫡男が一人で訪れても、誰も気に留めないだろう。


 ディートリヒへの指示通り、目立たない場所を選んだ。


 奥の壁際に席をとり、コーヒーを注文する。入口からは見通しが利かず、他の客とも距離がある。待ち合わせには都合の良い席だった。


 約束の時刻に、男が入ってきた。


 二十二歳。中背、やや細身。きちんと整えた金髪に、父親似と思しき堅い面差し。上着は城下街の仕立てだが、貴族にしては地味な色を選んでいる——人目を避けたいのだろう。


 カール・フォン・ベッカー。


 マルクスは一目で、この若者が追い詰められていることを見て取った。目の下に濃い隈。頬はこけ、口元は強張っている。生真面目な性格が裏目に出ているのだ——罪の意識に苛まれている人間の顔だった。


「マルクス・アッシュベルク殿ですか」


「ああ。座ってくれ」


 カールは向かいの椅子に腰を下ろした。背筋を伸ばし、手を膝の上に置く。礼儀正しいが、指先がわずかに震えていた。


「コーヒーでいいか」


「……はい」


 店の娘にもう一杯注文し、マルクスはカップに口をつけた。急かさない。ディートリヒの時と同じだ——言葉を選ぶ人間には、時間を与えてやったほうがいい。


 コーヒーが運ばれてきた。カールが一口飲む。カップを置く手が、まだ震えている。


「ディートリヒから聞いていると思うが——俺はギルドの魔法使いだ。今回の件について、お前の父上から依頼を受けている」


「は、はい。……お願いいたします」


「その前に、お前自身の話を聞きたい。概要はディートリヒから聞いた。だが、本人の口から聞かなければ意味がない」


 カールは頷き、しばらく逡巡した後——搾り出すように語り始めた。


「……父の仕事を手伝い始めて、一年になります」


 マルクスは黙って聞いた。


「元老院に出入りするようになって——痛感しました。利権と慣習に凝り固まっている。若い世代が声を上げなければ、何も変わらない」


 若者の目に、一瞬だけ光が戻った。理想を語る時だけ、追い詰められた顔が消える。だが、すぐにその光は翳った。


「正規の手順では、時間がかかりすぎます。元老院の内部で地道に調査しても、情報は上の世代に握られている。……焦っていました」


 カールは目を伏せた。


「そんな時——小姓のルードルフが声を掛けてきたんです。『歓楽街に、貴族社会の裏事情に詳しい人間が集まる店がある。お役に立てるかもしれません』と」


「お前から頼んだのではなく、ルードルフから持ちかけてきたのか」


「はい。俺が——元老院の現状に苛立っているのを、見ていたのだと思います。利権の構造、腐敗の実態——そういう情報が手に入ると聞いて、飛びつきました」


(——若い奴がやりがちな失敗だな)


 マルクスは内心でそう思った。焦っている時に差し出された近道ほど、危ういものはない。


(それに——小姓のほうから持ちかけた、か)


 マルクスは表情を変えなかった。


「それで」


「ルードルフの紹介で、何度か酒場に出入りしました。……ある夜——」


 カールの声が、途絶えた。カップの縁を見つめ、唇を噛んでいる。


「——ある夜、酒場で女に声を掛けられました」


 マルクスは、コーヒーをゆっくり飲みながら待った。


「美しい女性でした。年は私と同じくらいか、少し上か……。話が弾んで、酒を酌み交わして——」


 カールの手が、膝の上で拳を握った。


「——その後のことを、覚えています」


「覚えている」


「はい。その女性と——宿の部屋で——」


 言葉が詰まった。カールは歯を食いしばり、額に汗を滲ませた。


「……自分が——彼女に——乱暴に振る舞ったことを。はっきりと——覚えているんです」


 マルクスは口を挟まなかった。


「彼女の顔も、声も、匂いも——全部、覚えています。……信じたくない。自分がそんなことをするなんて。でも——覚えているんです。夢じゃない。確かに——」


 カールの目が赤くなっていた。拳を握る指が白い。


「数ヶ月して、その女性が現れました。身ごもったと。……そして、無頼漢が——」


「ああ、その先はディートリヒから聞いている」


 マルクスは、不要な反復を避けた。カールにこれ以上苦しい告白を繰り返させる意味はない。必要なのは、事実の確認だ。


「いくつか聞く」


「……はい」


「その夜、酒は何杯飲んだ」


 カールは少し考えた。


「二杯ほどです。酒は強いほうではありませんが、二杯で……前後不覚になるようなことはありません」


(二杯で記憶を失うはずがない——だが、「覚えている」と本人は言っている。記憶が飛んだのではなく、「ある」のだ)


「その記憶について、もう少し詳しく聞かせてくれ。酒場で女と話していた。それから——宿の部屋に着くまでの間は、どうだった」


 カールの眉が寄った。


「…………」


 沈黙。目を閉じ、記憶を辿っている。


「……酒場で、二杯目を飲み終えた辺りまでは——はっきりしています。女性と笑い合って、それから——」


 言葉が途切れた。


「——気がつくと、宿の部屋にいました」


「酒場から宿まで、どうやって移動した」


「……覚えて、いません」


 カールの顔に、困惑が浮かんだ。初めて気づいたような表情だった。


「言われてみれば——酒場を出てから部屋に入るまでの記憶が——ない。でも、部屋の中の記憶は——鮮明で——」


 マルクスは、カップをそっと置いた。


(——やはりか)


 記憶に**不連続性**がある。


 酒場での記憶は自然だ。二杯の酒に適度な酔い。そこまでは本物の記憶だろう。だが、その後——酒場を出てから宿に着くまでの移動の記憶が**完全に欠落**している。そして、宿の部屋での記憶だけが、不自然なほど**鮮烈**に残っている。


 普通、酒に酔った夜の記憶は曖昧になる。ましてや移動中の記憶が消えるほどの酩酊状態なら、その後の記憶はさらに朦朧としているはずだ。


 ところが、カールの証言は逆だった。移動の記憶がなく、行為の記憶だけが鮮明——。


(まるで、空白の上に別のデータを差し込んだような構造だ。ログの時系列が狂っている)


 本来あるべきデータ——酒場から宿への移動——が消去され、代わりに異常なほど鮮明なデータ——行為の記憶——が上書きされている。


 二杯の酒で前後不覚になる道理がない。だとすれば——酒に何かを盛られたか。薬で意識を落とし、その空白に——。


 ヤンが言っていた言葉が、頭の中で重なった。


 ——**やってもいないことを、覚えている。**


(仮説Bの可能性が高い。だが、まだ早計だ。裏を取らなければ)


 マルクスは顔に出さず、もう一つだけ確認した。


「その酒場に出入りしていたことは、誰が知っていた」


「友人のエーリヒと……あとはルードルフです」


「家族は」


「父とディートリヒには——脅迫を受けてから、打ち明けました。それまでは誰にも……歓楽街に出入りしているなど、言えるはずがありません」


(事前に知っていたのは、友人のエーリヒと、小姓のルードルフだけ——)


 マルクスはこの時点で、二つの仮説を整理した。


 仮説A。典型的な美人局。カールの記憶は本物で、酒と女に溺れた結果だ。小姓ルードルフは歓楽街への案内人に過ぎず、脅迫犯とは無関係。


 仮説B。認知的改竄メモリ・ポイズニング。カールは薬で眠らされ、その間に偽の記憶を植え付けられた。小姓ルードルフは脅迫犯と通じており、カールを罠に誘い込んだ内通者。


 どちらの仮説でも、確定していることが一つある。


 ——カールの行動を事前に知っていた人間が、限られている。


 友人のエーリヒと、小姓のルードルフ。そのうち歓楽街を「紹介した」のはルードルフだ。


 マルクスは、疑念を顔に出さなかった。確証のない段階で動揺を見せれば、情報が歪む。裏を取ってからだ。


「分かった。話してくれて助かった」


「あの……俺は、本当に——」


「今は何も言うな」


 マルクスは静かに、しかし確かな声で言った。


「真相は俺が調べる。お前は今まで通りに暮らせ。普段と違うことはするな。——脅迫にも、まだ応じるな」


「……はい」


「それと、今日ここで俺と会ったことは、誰にも言うな。ルードルフにも、友人にも」


 カールは真っ直ぐにマルクスの目を見て——深く頷いた。


「……わかりました」


 マルクスは立ち上がり、カウンターで二人分の勘定を済ませた。カールが「自分が」と言いかけたが、マルクスは手で制した。


「いい。気にするな」


 茶房を出ると、新市街の大通りが午後の賑わいに包まれていた。学院の学生たちが談笑しながら歩き、商人が荷車を押して通り過ぎる。穏やかな日常の中に、先ほどのカールの蒼白な顔が残像のように浮かんでいた。


(記憶の不連続性。移動の空白。二杯の酒で倒れる道理がない。そして——やってもいないことを覚えている)


 状況証拠は、仮説Bを示唆している。だが確証はない。


 次にやるべきことは明確だ。ヴァーツラフの行動を追い、ルードルフとの接点を洗う。仮説Bが正しければ——二人を結ぶ線が、必ずどこかにある。


 マルクスは旧市街へ向かって歩き出した。


(第4節 了)


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