第5節:高級酒場への潜入——走査と罠
翌日の夕刻。
マルクスは白狐亭のカウンターに座っていた。
「紹介状を書いてほしい」
ヤンが片眉を上げた。
「どこへだ」
「赤い薔薇亭」
歓楽街の高級酒場の名前に、ヤンの目がわずかに鋭くなった。
「……あそこは一見の客は入れねえ。客筋を選ぶ店だ」
「だから、お前の紹介がいる」
「行って何をする気だ」
「酒を飲む。——ついでに、少し聞きたいことがある」
ヤンはしばらくマルクスの顔を見つめていたが、やがて短く頷いた。カウンターの下から便箋を取り出し、さらさらと数行書きつけて封をする。
「おい、ハナ。封蝋を貸してくれ」
厨房から封蝋が飛んできた。ヤンは手慣れた仕草で蝋を垂らし、デサートニクの印を押した。
「これで通る。だが——派手なことはするなよ」
「しない。客として飲むだけだ」
マルクスは封書を懐にしまい、白狐亭を出た。
*
赤い薔薇亭。
歓楽街の中でも格式の高い一角に、その店はあった。石造りの瀟洒な外観に、磨き上げられた樫の扉。入口の脇には深紅の薔薇が植え込まれ、灯りに照らされて鮮やかに浮かび上がっている。旧市街の安酒場とは、客層も空気もまるで違う。
扉の前に立つ用心棒に紹介状を見せると、男は封蝋のデサートニクの印を一瞥し、黙って道を開けた。
店内に入ると、上質な香木の匂いが鼻腔をくすぐった。
広い店内は薄暗く、蝋燭の灯りが壁の漆喰を琥珀色に染めている。テーブルは間隔を広くとって配置され、客同士の会話が交わらないよう設計されていた。奥には半個室の仕切り席もある。密談に向いた造りだ。
客は貴族の子弟や裕福な商人が多い。華やかな衣装の女たちが各テーブルに配され、酒を注ぎ、歓談の相手をしている。高い金を払って上等な酒と洗練された接待を楽しむ——歓楽街の中でも上澄みの店だ。
(カールが「政治の裏事情が聞ける」と思い込んだのも、無理はないな)
確かにこの店には、貴族社会の裏事情に通じた人間が集まりそうではある。だがそれは、情報を売る者ではなく——情報を買う者、あるいは利用する者だ。若い貴族の嫡男が一人で乗り込んで手に入れられるようなものではない。
マルクスはカウンター席に座り、蒸留酒を注文した。プラム原料の蒸留酒で、上等なものは香りが高く、ゆっくり飲むのに向いている。
給仕の女が酒を運んできた。二十代半ば、栗色の髪。愛想がいいが、目が利く——客の懐具合を瞬時に見極める類の目だ。
「お一人ですか? 珍しいですね、こんな良い男が」
「知り合いに勧められてな。初めて来た」
「あら、それは嬉しい。ごゆっくりどうぞ」
マルクスはスリヴォヴィツェを一口含んだ。芳醇な香りが舌の上で広がる。悪くない。
二杯目を頼む頃には、給仕の女との距離は自然に縮まっていた。
「ここは女の子が綺麗だな。仲間に自慢できる」
「ふふ、ありがとうございます。うちの子たちは自慢ですよ」
「特に評判の子はいるのか? せっかくだから、次は奥の席で話し相手を頼もうかと思ってな」
「それなら——ミレナがお勧めです。黒髪の、ほら、あちらの。うちで一番人気ですよ」
女が目配せした先に、黒髪の女がいた。奥の席で、初老の商人と談笑している。
「ミレナ、か。あの黒髪の」
「ええ。お話が上手で、お客様をすぐ楽しい気分にさせてしまうんです。不思議な方で——ミレナと話した後は、皆さん『また来たい』って。常連さんが多いの」
(「不思議な方」、ね)
マルクスは酒を傾けながら、さりげなくミレナの方を観察した。
二十代半ばか。黒髪を優雅に結い上げ、深紅のドレスに身を包んでいる。笑顔は柔らかく、仕草は洗練されている。耳には小さな耳飾り、手首には細い腕輪——装飾品はいくつか身につけているが、この店の給仕としては特段不自然ではない。
だが。
マルクスは、スリヴォヴィツェのグラスを傾けるふりをしながら——指先にごく微弱な魔力を集中させた。
**走査**。
対象に向けて微弱な探知魔法を送り、魔力反応を調べる技術だ。遺跡探索で未知の魔道具を事前に調べる際に使う——対象のどこに何が「動いている」かを確認する。人体であれば、身につけている魔道具や、残留している術式の痕跡が反応として返ってくる。
極めて微弱な魔力で行うため、対象には気づかれない。ただし、読み取れる情報も限られる——あくまで「何かがある」ことを検知するだけで、詳細な解析には至らない。
マルクスは探知の波を、ミレナに向けて静かに放った。
——反応。
まず、耳飾り。微弱だが、魔力の残滓がある。ただし、これは装飾品としての簡易な魔法付与——光の演出程度のものだ。問題ない。
次に、腕輪。
(——ここだ)
腕輪から返ってきた反応は、明らかに異質だった。
装飾品としての魔力付与とは別の、もう一つの層がある。表面的な魔力反応の下に、意図的に隠された——しかし確かに「動いている」反応。
(——何かある。だが、走査だけでは種類までは分からない)
ポートスキャンで分かるのは、「この腕輪に通常の装飾品とは異なる術式が仕込まれている」という事実だけだ。それが何系統の魔法なのかまでは、この距離と精度では判別できない。
だが——実際に使う瞬間を見れば、話は別だ。
マルクスは二杯目のスリヴォヴィツェを注文し、腕輪に注意を向けたまま観察を続けた。
しばらくして——動きがあった。
ミレナが初老の商人の隣に腰を下ろし、笑顔で何かを囁いている。その時、自然な仕草で——商人の手に、自分の手を重ねた。腕輪を嵌めた手だ。
一瞬だった。触れたのはほんの数秒。
だが、マルクスは見逃さなかった。接触の瞬間——腕輪からごく微弱な魔力が放出された。そしてその魔力特性は、明確だった。
精神干渉系。
接触を介して、相手の精神に直接働きかける術式。出力は極めて小さい——記憶を書き換えるほどではない。だが、好意や親近感を僅かに増幅させる程度の効果は、十分にある。
商人の表情が、目に見えて緩んだ。頬が弛み、目尻が下がる。ミレナが何か囁くと、商人は嬉しそうに頷いた。やがて二人は席を立ち、連れ添うように店を出ていった。ミレナが商人の腕に自然に手を添えている。——まるで、最初からそうするつもりだったかのように。
(……なるほど。カールもこうやって連れ出されたわけだ)
酒場で意気投合し、そのまま二人で店を出る。若い男なら、美しい女に誘われて断る理由がない。ごく自然な流れだ。そして連れ出した先で——薬を盛り、記憶を上書きする。
(——確定だ。接触型の精神干渉魔道具。出力を抑えて使えば、大きな反応は残らない。注意して見ていなければ分からないレベルだ)
日常的に客を操り、獲物を店の外へ連れ出す。それが「不思議な方」の正体だ。そして出力を上げ、薬と併用すれば——記憶の上書きすら可能になる。
マルクスはグラスを傾けながら、傍らの給仕を呼んだ。
「いい店だな。女の子も綺麗だし、酒も上等だ」
「ありがとうございます。気に入っていただけて嬉しい」
「ミレナだっけ、あの黒髪の。大したもんだ。あの商人、すっかりご機嫌じゃないか」
「ふふ、ミレナは特別ですから。お客様を虜にする天性のものがあるんです」
「ああいう子は、どこから来るんだ? この店の生え抜きか」
「いえ、半年ほど前にお客様のご紹介で。えっと、ヴァーツラフさんという方の紹介だったかしら」
(——ヴァーツラフの紹介、か)
マルクスは表情を変えなかった。
「へえ。紹介で来るような子は、腕がいいんだろうな」
「ええ、本当に。ミレナが来てから、常連さんがぐっと増えましたもの」
マルクスはグラスの酒をゆっくりと飲み干した。
ヤンの証言。カールの記憶の不連続性。「やってもいないことを覚えている」という被害者の訴え。犯行に使われた魔道具。それを日常的に使いこなす術師。そして——ヴァーツラフが直接この店に送り込んだ女。
全ての線が一本に繋がった。
(仮説Bは確定だ)
この女——ミレナが、カールに偽の記憶を植え付けた術師だ。薬で意識を奪い、この腕輪で記憶を上書きした。ヴァーツラフの部下であり、共犯者だ。
マルクスは勘定を済ませ、給仕の女に「また来る」と一言残して店を出た。
歓楽街の夜風が、酒の温もりを冷ましていく。
ヴァーツラフとミレナの繋がりは確定した。だが、それだけでは足りない。残る問題は——内通者だ。
ルードルフとヴァーツラフの接点を、直接押さえなければならない。
*
翌日の昼。白狐亭。
マルクスはカウンターに座り、ヤンに報告した。酒場への潜入の成果。ミレナの魔道具。ヴァーツラフとの接点。
ヤンは腕を組み、低く唸った。
「……なるほどな。その女が術師か」
「ああ。だが、まだ足りない。もう一人——こいつらに情報を流していた内通者がいる。そいつとヴァーツラフの接触を押さえたい」
「どうする」
マルクスは、コーヒーを一口飲んだ。
「ヤン。お前に頼みがある」
「なんだ」
「裏社会に、噂を一つ流してほしい」
ヤンの目が、鋭くなった。
マルクスは声を落とし、短く耳打ちした。
ヤンの表情が変わった。しばらく黙り込み——やがて、口の端がわずかに上がった。
「……お前、性格悪いな」
「褒め言葉として受け取っておく」
「で、噂が効いた後はどうする」
「ヴァーツラフを見張る。焦って内通者に連絡を取った瞬間——その魔力通信の経路を追う。通信先が分かれば、内通者の正体と、二人の密会場所が割れる」
ヤンは頷いた。
「二日もあれば届く。——任せろ」
「頼む」
マルクスはコーヒーを飲み干し、銀貨をカウンターに置いた。
マルクスはコーヒーカップに視線を落とし、頭の中で次の手順を組み立てていた。
罠は仕掛けた。あとは、獲物がかかるのを待つだけだ。
(第5節 了)
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### 解説:スリヴォヴィツェ(Slivovice)
連邦の蒸留酒の中でも、最も歴史が古く、最も広く飲まれている一本だ。西洋李を発酵・蒸留したもので、生産地によって味わいに大きな差が出る。連邦の農村部では各家庭が自家蒸留する伝統があり、「よその土地のスリヴォヴィツェは飲めたものじゃない」と言い合うのが中年以上の飲み手の定番だ。
**外見と香り:** 無色透明から淡い黄金色まで。熟成期間が長いほど色が深くなり、樽の香りが加わる。良品は蓋を開けた瞬間から、甘く熟れたプラムの香りが広がる。
**味わい:** 最初は鋭い。しかし上質なものは喉を通り過ぎた後の余韻が長く、プラムの甘みと果実の芳醇さがゆっくりと引いていく。安物はアルコールの刺激ばかりが残る。赤い薔薇亭で出てくるのは当然、連邦南部の名の通った蒸留所のものだ。
**酒場での扱い:** 格式の高い店ほど、食前または食後に小さなグラスで出す。ビールや葡萄酒とは別の系統——「腰を据えて飲む酒」ではなく、場の空気を整えるために使う酒だ。マルクスが赤い薔薇亭で最初に注文したのも、「上等な飲み客」を装いながら観察するための選択だった。




