第1節:ギルドの朝
協定歴四一一八年、初夏。
アルカ旧市街の一角——通称「ギルド街」は、朝から活気に満ちていた。
中小の冒険者ギルドや魔法工房が軒を連ねる界隈だ。大手ギルドは新市街の目抜き通りに壮麗な本部を構えているが、こちらは趣が違う。狭い通りの両側にギルドの看板がひしめき、その合間に武具店や薬屋、安酒場が入り混じっている。アルカの中でも、最も雑多で、最も多種族的な一角だった。
通りには、朝早くから仕事を探す冒険者たちの姿がある。鎧姿の戦士、軽装の盗賊、杖を持った魔法使い、僧衣の僧侶——職業は様々だ。そして、この街区の特徴を最も端的に表しているのは、その顔ぶれの多様さだった。
人間の戦士の隣を、獣人の大柄な斧使いが歩いている。ドワーフ(ゴルノック)の鍛冶師崩れが、路地の角で煙管をふかしている。学院や行政局が人間社会の論理で動いているのとは違う。ここは腕一本で稼ぐ実力の世界であり、種族の壁は低い。
その雑踏の中を、一人の男が歩いていた。
白髪混じりの髪。中肉中背の体躯。纏っているのは、装飾を極限まで削ぎ落とした質素なローブだ。
マルクス・アッシュベルクは、いつもの道を、いつもの足取りで歩いていた。
ギルド街の大通りから一本入った裏通り。「ストジーブルナー・ルーナ」の看板が、石壁に控えめに掲げられている。
石造り二階建ての建物だった。大手ギルドのように壮麗ではない。だが、壁の石材は丁寧に積まれ、窓枠は磨き込まれ、入口の木の扉は年季が入りながらも手入れが行き届いている。堅実な仕事をする者の住処という風情だ。
扉を開けると、一階の酒場兼食堂が広がっていた。
朝だというのに、すでに何人かの冒険者が席についている。カウンターの奥からは、コーヒーの苦い香りと、焼きたてのロフリーク(丸パン)の匂いが漂ってきた。
正面の壁には、依頼掲示板がある。ギルドの心臓部だ。護衛、探索、調査、魔物退治、魔法道具の修理——様々な依頼が羊皮紙に記され、鋲で留められている。朝一番に来た冒険者たちが、掲示板の前で依頼を物色していた。
「おう、マルクス。おはよう」
カウンターの向こうから、低い声が掛かった。
ヴェルナー・グレイソン。ストジーブルナー・ルーナのギルドマスターだ。
五十六歳。元Aランク戦士。引退後にギルド経営に転じた男で、がっしりとした体躯に、日に焼けた肌、そして人の好い目をしている。「大きな仕事より、確かな仕事」を信条とする、堅実な経営者だった。
「おはようございます、ヴェルナーさん」
「学院の件、お疲れだったな。ゆっくりしてくれ」
「ええ、まあ。溜まった仕事を片付けますよ」
マルクスはカウンターで朝のコーヒーを受け取った。厨房の料理人が、黙って差し出してくれる。砂糖も牛乳も入れない、黒いままのコーヒーだ。
馴染みの席——窓際の隅の小さなテーブルに腰を下ろし、一口含む。苦い。だが、頭が冴える。
学院に出向していた数ヶ月は、日常の仕事から離れていた。その間にヴェルナーが回してくれていた案件もある。まずは、溜まった仕事を一つずつ片付けることだ。
コーヒーを飲みながら、マルクスはギルドの朝の光景を眺めた。
掲示板の前で、若い戦士たちが依頼を見比べている。獣人の剣士が、仲間のエルフの治癒師と何やら相談していた。奥のテーブルでは、ドワーフの冒険者が朝食のロフリークをちぎりながら、隣の人間の盗賊と昨日の依頼の話をしている。
見慣れた、日常の風景だった。
冒険者ギルドとは、一言で言えば「何でも屋」の互助組織である。依頼を仲介し、人材を派遣し、冒険者たちの生活と安全を支える。ギルドが営業と契約と人材の管理を担い、冒険者は己の腕で稼ぐ——そういう仕組みだ。
ストジーブルナー・ルーナは、その中でも中堅どころだ。所属する冒険者は、戦士、盗賊、僧侶、魔法使いと一通り揃っているが、人数は多くない。人間だけでなく、獣人やエルフなど多種族が在籍している。大手ギルドのような大規模遺跡探索には向かないが、古代技術の解析と復元、中小規模遺跡の丁寧な探索、そして都市内の雑多な依頼——そうした仕事で、着実に信頼を積み上げてきた。
魔法技術氷河期を生き延びたベテランは、今では貴重な存在だ。あの時代を渡り歩いた者だけが持つ、古い技術への深い理解と、何でもこなさざるを得なかった現場経験——マルクスの存在は、この小さなギルドの最大の武器だった。古代魔法陣の解析、魔法道具の修理と鑑定、技術的な助言。それらを求めて、指名で依頼が持ち込まれることも少なくない。
コーヒーを飲み終える頃には、日も高くなっていた。マルクスは席を立ち、二階の事務所へ上がった。
*
二階の一角に、マルクスの作業机がある。
窓際の小さな机だ。積み上げられた書類の山と、工具箱と、拡大鏡。その隣に、布に包まれた魔道具が一つ置かれていた。
マルクスは椅子に腰を下ろし、布を開いた。
古代の魔道具だった。指輪型の小さなもので、銀の台座に淡い青色の魔石がはめ込まれている。表面には、微細な刻印が施されていた。
先週、若手の冒険者チームが中規模遺跡から持ち帰ったものだ。用途不明。ヴェルナーから「見てくれ」と預かっていた。
マルクスは拡大鏡を手に取り、刻印を一つひとつ確認していった。
——古い術式だ。協定歴三八〇〇年代、あるいはそれ以前の。スキルシステムが存在しなかった時代の技術で、今の魔法使いには読めない者のほうが多い。
だが、マルクスには読めた。氷河期の小ギルドを渡り歩く中で、古い魔法陣や古代の焦点具と格闘してきた経験がある。
(防護系の術式だな。魔力の循環パターンからして、身体強化——いや、違うな。精神防護か)
指先で魔力を流し込み、回路の反応を確かめる。微かな光が、刻印の溝を走った。
(記憶領域の保護……ずいぶん古い設計だが、基本構造はしっかりしている)
魔石の状態は良好だ。魔力回路にも劣化は見られない。修復すれば、まだ使える。
マルクスは解析結果を羊皮紙に書き留め、修復の見積もりを添えた。これで依頼主に報告できる。
次の仕事に取り掛かる。
机の上に積まれた書類の中から、大手ギルド「黄金の盾」からの下請け案件を引き出した。魔法陣のレビュー依頼だ。大手が開発した魔法陣を、外部の目で検証してほしいという。
黄金の盾——首都最大手のAランクギルドだ。スキル特化の精鋭を揃え、大規模遺跡の探索権を次々と落札している。派手な実績と、それに見合う高い報酬。冒険者なら誰もが知る名前だった。
だが、古代魔法陣の専門家がいない。だからこうして、解析や検証の仕事がうちに回ってくる。
図面を広げ、術式構造を読んでいく。
(……ここの記憶領域管理が甘い。境界のチェックが省略されている)
ペンを取り、問題箇所に印をつけた。処理速度を優先するために安全策を削ったのだろう。気持ちは分かる。だが——速度のために安全を犠牲にすれば、そこが致命的な隙になる。
(相変わらず、仕事が荒い)
学院で発見したOSL脆弱性のことが、頭をよぎった。あれもまた、境界管理の甘さが原因だった。
修正案を書き添え、書類を封筒に戻す。
そこへ——階段を上がってくる足音が聞こえた。
「マルクスさん、すみません」
若い冒険者だった。二十代前半の、人間の男。戦士と魔法使いの中間のような装備で、腰に短剣、背に小振りの杖を差している。見覚えがあった。先月入ったばかりの新人だ。
「来週、初めての遺跡探索に参加することになったんですが——スキル構成を見ていただけませんか」
「見せてみろ」
若者が差し出した魔導書を受け取り、ページをめくる。
(攻撃スキルが三つ、防御スキルが二つ……か)
「攻撃と防御ばかりだな」
マルクスは、淡々と言った。
「君は剣も使えるんだろう。攻撃や防御は、まず武器と鎧でやれ。魔法は——それでできないことに使うものだ」
「でも、スキルのほうが威力が——」
「威力で勝負するのは戦士の仕事だ。君は魔法使いだろう。遺跡の中で魔法使いに求められるのは、魔法の仕掛けや罠への対処だ。罠の感知自体は盗賊がやってくれる。だが、魔法的な罠の解除や、古い術式の解読は魔法使いにしかできない」
若者が、ぐっと言葉を呑んだ。
「攻撃スキルは全部外せ。空いた枠に『解析』と『障壁』を入れろ。解析は遺跡の魔法陣を読むための基本だ。障壁は物理で防げない魔法攻撃用に要る」
「……全部、ですか」
「防御もスキルに頼りすぎるな。魔力は有限だ。鎧で防げるものは鎧で防げ。魔法は、物理では対処できないことに温存しておくんだ」
マルクスがペンで魔導書の余白に修正案を書き込むと、若者は食い入るように見つめていた。
だが——その顔には、どこか不服そうな色があった。
「……あの、マルクスさん」
「何だ」
「言いたいことは分かります。でも——攻撃スキルがゼロって、正直きついっす。いざって時に、剣だけじゃどうにもならない場面もあるんじゃ」
マルクスは、若者の顔を見た。
唇を引き結んで、しかし目は逸らさない。不満ではあるが、反抗しているのでもない。自分なりに考えた上での率直な意見だ。
——悪くない。言われたことを鵜呑みにするだけの奴より、よほど見込みがある。
「……そうだな」
マルクスは、魔導書をもう一度開いた。
「なら、こうしろ。攻撃スキルを一つだけ残す。ただし、残りの二つは外せ」
「一つ——」
「最後まで聞け。残した攻撃スキルに、さっきの『解析』を連結させる」
ペンで図を描きながら、説明を続けた。
「解析で敵の弱点を読み取り、その属性に合わせて攻撃スキルの出力を絞り込む。全力で殴るより、急所を突くほうが魔力の消費も少ないし——結果的には派手に倒せる」
若者の目が、変わった。
「……一つのスキルで、二つの役割を」
「そういうことだ。空いた枠には『障壁』を入れろ。物理じゃ防げない魔法攻撃用だ。これで攻撃、防御、解析が揃う。剣と鎧で前衛もこなせるなら、遺跡ではかなり動ける構成になる」
若者の表情が、ぱっと明るくなった。
「それなら——やれそうです」
「最小の手数で、最大の仕事をしろ。それが魔法使いだ」
若者は深く頭を下げ、足取り軽く階段を駆け下りていった。
マルクスはその背中を見送りながら、小さく息を吐いた。
こういう仕事だ。派手さはない。だが、こうした一つひとつの助言が、若い冒険者の命を守る。
*
昼前。
ヴェルナーが、コーヒーの入ったカップを二つ手に、マルクスの机にやってきた。
「休憩だ。飲め」
「どうも」
マルクスはペンを置き、カップを受け取った。二人とも、窓際に寄りかかるようにして、コーヒーを啜る。
窓の外では、ギルド街の昼の喧騒が聞こえていた。
「そういえば——」
ヴェルナーが、何気ない口調で言った。
「学院で教え子ができたんだってな?」
マルクスの手が、わずかに止まった。
「教え子というほどのものでは」
「謙遜するなよ。学院長から聞いたぞ。優秀な学生がいたって」
「……いい学生でしたよ」
マルクスは、穏やかに答えた。感傷を滲ませない、いつもの口調で。
ヴェルナーはそれ以上追及しなかった。長年の付き合いだ。マルクスが多くを語らない時は、それなりの理由がある。
「まあ、ゆっくりやってくれ。仕事はいつでもある」
「ええ」
ヴェルナーがカップを持って去った後、マルクスは机の引き出しを開けた。
書類の束の下に、一通の手紙が挟まっていた。
封筒の隅に、小さな文字で「エリカ・ダルジェント」と記されている。
マルクスはそれを手に取り——しばらく眺めた後、読まずに引き出しに戻した。
窓の外を見る。初夏の陽光が、ギルド街の石畳を白く照らしていた。
穏やかな、ギルドの朝だった。
(第1節 了)




