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氷河期(アイスエイジ)の魔法使い  作者: よん
第9章:「善意に潜む毒」

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第5節:「言わなければならない」

 事件の翌夜。


 マルクスは台所で茶を淹れていた。昨夜の処理が一段落して、体の疲れが今になって出てきている。静かな夜だった。郊外の一軒家に、外の春の気配が入り込んでくる。


 扉が鳴った。


 誰かは分かった。この時刻に来る人間は一人しかいない。


 扉を開けると、エリカが立っていた。昨夜より顔色がいい。外套を着て、手には何も持っていない。ただ、来た——という顔だった。


「……昨夜は、すみませんでした。約束を無断で破って」


 マルクスはしばらくエリカを見てから、「入れ」と言って中へ戻った。


 台所に戻り、茶を二つ用意する。エリカが後ろから続いて入ってきて、椅子に座った。器を置いた。


「……今、それを言いに来たのか」


「はい。それと——」


 エリカが止まった。


「一人で行くなと言った覚えはないが」マルクスは言った。「そういう状況だったなら、なぜ連絡しなかった」


「自分でやろうと思っていました。先生に頼りすぎていると……思っていたので」


「……」


 マルクスは茶器を持って、向かいに座った。


 少し間があった。


「俺が心配した」


 低い声だった。言葉が短かった。それだけだ。


 しかし——エリカがその声を聞いて、表情が少し変わった。今まで聞いたことがない温度だった、とでもいうような顔だった。


 しばらく誰も話さなかった。


「……先生」


「なんだ」


「昨夜、来てくれた時」


「ああ」


「……先生、普段と違いました」


「どこが」


 エリカが、少し迷ってから言った。


「……走ってきた、でしょう」


 沈黙があった。


「……ああ」


「先生が走るところ、見たことがなかったです」


 また沈黙があった。


 茶の湯気が上がっている。外は春の夜の静けさだ。


 マルクスは少しの間、器を見ていた。


 視線が、ふと棚の方へ動いた。引き出しの奥——ユリアの写真がしまわれている場所だ。見ようとしたわけではない。自然に向いた。


(俺には、資格があるのか)


 その問いは、何度も浮かんできた。あの事件の夜も、その前の夜も。今夜また、浮かんだ。


 しかし今夜は——答えが出た。昨夜、体が先に動いた。走った。それが、もう答えだった。


 マルクスはエリカを見た。


「エリカ」


「はい」


「俺には——君がいなくなることが、困るという以上のことになっている」


 エリカが動かなかった。


「これは仕事の話ではない。……分かっているな」


「……はい」


 声がかすかに震えていた。


「俺は寡黙な人間だ。うまく言葉にならないが——お前が心配で走った。それ以外の説明が出てこない」


 少しの間があった。


「……お前のことを」


 そこで、止まった。


 次の言葉は分かっている。それを口にすれば何かが変わる——その一歩だけが、今夜に限って、重かった。


 沈黙が続いた。


 エリカが、静かに言った。


「……先生が、そう言ってくれるのを」


 一拍。


「——待っていたような気がします」


 マルクスはエリカを見た。


 先に言ったのは、エリカの方だった。言えないでいた続きを、エリカが代わりに言った。声が静かだった。泣いていない。落ち着いている——それがかえって本物だと、マルクスには分かった。


「……ならば」


 マルクスが言った。今度は止まらなかった。


「——俺と一緒にいてくれないか。妻として」


 エリカが、一拍だけ置いてから。


「……はい」


 さっきと同じ言葉だった。しかし重さが違った。マルクスには分かった——これはさっきの「はい」とは、まるで別の言葉だ。


 マルクスが、少し目を細めた。珍しい顔だった。何も言わなくていい、という顔だった。


(第5節 了)


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