第5節:「言わなければならない」
事件の翌夜。
マルクスは台所で茶を淹れていた。昨夜の処理が一段落して、体の疲れが今になって出てきている。静かな夜だった。郊外の一軒家に、外の春の気配が入り込んでくる。
扉が鳴った。
誰かは分かった。この時刻に来る人間は一人しかいない。
扉を開けると、エリカが立っていた。昨夜より顔色がいい。外套を着て、手には何も持っていない。ただ、来た——という顔だった。
「……昨夜は、すみませんでした。約束を無断で破って」
マルクスはしばらくエリカを見てから、「入れ」と言って中へ戻った。
台所に戻り、茶を二つ用意する。エリカが後ろから続いて入ってきて、椅子に座った。器を置いた。
「……今、それを言いに来たのか」
「はい。それと——」
エリカが止まった。
「一人で行くなと言った覚えはないが」マルクスは言った。「そういう状況だったなら、なぜ連絡しなかった」
「自分でやろうと思っていました。先生に頼りすぎていると……思っていたので」
「……」
マルクスは茶器を持って、向かいに座った。
少し間があった。
「俺が心配した」
低い声だった。言葉が短かった。それだけだ。
しかし——エリカがその声を聞いて、表情が少し変わった。今まで聞いたことがない温度だった、とでもいうような顔だった。
しばらく誰も話さなかった。
「……先生」
「なんだ」
「昨夜、来てくれた時」
「ああ」
「……先生、普段と違いました」
「どこが」
エリカが、少し迷ってから言った。
「……走ってきた、でしょう」
沈黙があった。
「……ああ」
「先生が走るところ、見たことがなかったです」
また沈黙があった。
茶の湯気が上がっている。外は春の夜の静けさだ。
マルクスは少しの間、器を見ていた。
視線が、ふと棚の方へ動いた。引き出しの奥——ユリアの写真がしまわれている場所だ。見ようとしたわけではない。自然に向いた。
(俺には、資格があるのか)
その問いは、何度も浮かんできた。あの事件の夜も、その前の夜も。今夜また、浮かんだ。
しかし今夜は——答えが出た。昨夜、体が先に動いた。走った。それが、もう答えだった。
マルクスはエリカを見た。
「エリカ」
「はい」
「俺には——君がいなくなることが、困るという以上のことになっている」
エリカが動かなかった。
「これは仕事の話ではない。……分かっているな」
「……はい」
声がかすかに震えていた。
「俺は寡黙な人間だ。うまく言葉にならないが——お前が心配で走った。それ以外の説明が出てこない」
少しの間があった。
「……お前のことを」
そこで、止まった。
次の言葉は分かっている。それを口にすれば何かが変わる——その一歩だけが、今夜に限って、重かった。
沈黙が続いた。
エリカが、静かに言った。
「……先生が、そう言ってくれるのを」
一拍。
「——待っていたような気がします」
マルクスはエリカを見た。
先に言ったのは、エリカの方だった。言えないでいた続きを、エリカが代わりに言った。声が静かだった。泣いていない。落ち着いている——それがかえって本物だと、マルクスには分かった。
「……ならば」
マルクスが言った。今度は止まらなかった。
「——俺と一緒にいてくれないか。妻として」
エリカが、一拍だけ置いてから。
「……はい」
さっきと同じ言葉だった。しかし重さが違った。マルクスには分かった——これはさっきの「はい」とは、まるで別の言葉だ。
マルクスが、少し目を細めた。珍しい顔だった。何も言わなくていい、という顔だった。
(第5節 了)




