第6節:春の支度
翌朝、マルクスとエリカは白狐亭に来た。
旧市街のギルド街に構える宿付き飲食店だ。朝の時刻は、まだ客も少ない。ヤンが厨房から出てきて、二人の様子を一度だけ見た。
「……来たか」
それだけだった。二人の顔を見れば、分かる——そういう目だった。
「話がある」とマルクスが言った。
「……お茶は後か」
「先がいい」
ヤンが椅子を引いて、マルクスの向かいに座った。腕を組んで、待った。
「エリカを妻に迎える」
ヤンが少しの間、マルクスとエリカを交互に見た。それからマルクスを見て、短く言った。
「……遅かったな」
「そうか」
ヤンがエリカに目を向けた。
「エリカさん。マルクスは料理はできるが愛想がない。覚悟はいいな」
「……はい」
エリカが、小さく笑った。
ヤンが立ち上がって、厨房の方へ声をかけた。
「ハナ、朝飯だ。特別のやつを頼む」
*
しばらくして、皿が出てきた。
ヤンの女房ハナが、いつもより手をかけた朝食だった。ウゼニナ(燻製腸詰め)の盛り合わせが鉄の皿に並んでいる。丁寧に切り分けられ、皮に焦げ目がついている。香りが鼻に来た。
フレーブ(厚切りの黒パン)とバター。ヴァイェチュカ・ス・ヘルマネリー——マトリカリアハーブを混ぜ込んだスクランブルエッグで、ハーブの青い香りが卵の甘みに溶け込んでいる。
それとは別に、ハナが直接持ってきた皿があった。トゥルデルニークだ。筒状に焼いた甘いパンで、表面に砂糖が焦げて薄いカラメルの層になっている。蜂蜜が薄くかかっていた。
「うちの女房が聞いて、特別に出せと言った」ヤンが言った。「エリカさんの好物だろう」
エリカが、トゥルデルニークを見た。
「……どこで知ったんですか」
「前に来た時に、こっそり三つ食べてたのを見た」
エリカが少し黙って、それから「ありがとうございます」と言った。今度こそ、笑っていた。
マルクスが、その横でウゼニナに手を伸ばした。
白狐亭の朝。ヤンが茶を持ってきて、四人分の席に黙って置いた。春の朝の光が窓から差し込んでいる。
*
後日、マルクスは一人でポジーチーへ向かった。
城下街の外れを抜け、川沿いを下った先の職人地区だ。途中、「金のバーボフカ(ウ・ズラテー・バーボフキ)」に寄った。半世紀以上続く老舗で、オットーが贔屓にしていると聞いている。棚に並んでいた形の良い一つを包んでもらった。
看板のない煉瓦造りの工房を、二度叩いた。
「……入れ」
オットーが振り返った。作業台の上に道具が広がっている。昼前の作業中だった。
「エリカと結婚する」
マルクスが言った。余計な前置きはなかった。
オットーが手を止めた。しばらく、何も言わなかった。
「……そうか」
それから少し間があって。
「早かったな、と言うべきか。遅かったな、と言うべきか」
「どちらでもいい」
「……お前に釣り合う人間がいるとは思っていなかった」オットーが言った。「あの娘はいい。職人の目を持っている」
「ああ」
マルクスが包みを作業台の端に置いた。オットーがそれを見て、黙って立ち上がった。
棚の奥から、器を二つ出してきた。
バーボフカを開けて、二人で黙って分けた。
*
夜、マルクスは一人で自宅に戻った。
台所に灯りをつけて、棚の前に立った。引き出しを開ける。一番奥に、小さな額がある。久しぶりに、取り出した。
ユリアの写真だ。
正面の棚に置いた。琥珀酒のグラスを一つ出して、一杯だけ注いだ。エンフィリアのアイル島産——ヤンがめったに出さない酒だ。いつだったか、黙って置いていってくれた。
しばらく、写真を見ていた。
「……エリカという娘だ。知っているだろう、ずっと前から話してきた」
静かな家に、自分の声だけが響く。
「育てるだけのつもりだった。君に話した時も、そう思っていた」
少しの間があった。
「……すまない」
謝罪だったが——裏切りへの謝罪ではなかった。十五年間、閉じたままにしていた扉を、今夜やっと開けた。その報告だった。
「お前なら——そう言うな」
独りごちた。
写真の中のユリアは、変わらず微笑んでいる。
マルクスがグラスを空にした。写真を手に取り、引き出しの奥にしまい直した。
今度は「また取り出す時まで」という意味ではなかった。ここにいていい。ただ、俺は前を向く——そういう意味だった。
*
結婚式は、簡素だった。
身内のみで行った。ヤンとハナ、オットー、トマーシュ、クラウス、そして遠方から駆けつけたリブシェ。それだけの顔ぶれだった。
リブシェがエリカを抱きしめて、何も言わなかった。しばらくして、「よかった」とだけ言った。
エリカがマルクスの家に越してきた。師弟でもなく、同僚でもない——「夫婦」という、新しい関係の始まりだった。
*
結婚から数日後。エリカはアストラル商会の廊下を歩いた。
いつもの朝と同じ道だった。しかし、鞄の中に辞表がある。
トマーシュの部屋を訪ねた。扉を二度叩いて、入った。
「エリカ、本当に?」
トマーシュが封筒を受け取って、中を確かめてから言った。電話では聞いていたはずだが、実際に紙を見ると、違う重さがあるらしかった。
「はい」
「……先月からの件以来、ここでの仕事が少し変わりました」エリカは言った。「ここが悪い場所とは思っていません。ただ——私が次にやるべきことが、ここではないと思って」
「……次は?」
「ストジーブルナー・ルーナです。マルクスが顧問をしているところです」
トマーシュが少しの間、黙った。
「……エリカ、君は正しかった。俺がもっとうまく守れればよかった」
「トマーシュさんにしてもらえることは、全部してもらいました。本当に、そう思っています」
トマーシュが手を差し出した。エリカが握手した。
それで終わりだった。粛々と、職人らしく。
*
ストジーブルナー・ルーナへの正式入所は、エリカの実績を理由とした採用だった。
軽量フレームワークの開発者として。今回の事件でバックドアを発見・除去した技術調査員として。マルクスの紹介という形を取ったが、採用の根拠はエリカ自身にあった。
ヴェルナーが「よく来た」と言った。それだけだった。
初日の朝、マルクスと同じ建物に入って、エリカが言った。
「マルクス。私、ちゃんと仕事します。贔屓されるつもりはないです」
「分かっている」
マルクスが答えた。それが当然、という顔で。
後日、オットーがマルクスのところへ来た時に言った。
「お前の弟子が同僚になったな」
「……そうなった」
オットーが小さく笑った。
「まあいい」
*
夕暮れ、マルクスの家の台所。
エリカが包丁を持って、何かを作ろうとしていた。野菜の切り方が、ばらばらだった。火加減が、合っていない。それでも諦めずに続けていた。
マルクスが横から手を出した。
「貸せ」
受け取って、作り直した。エリカがその横で、腕を組んで見ていた。
「私、本当に料理が下手ですね」
「知っている」
少しの間があった。エリカが、マルクスの横顔を見た。
「……先生」
「もう先生じゃない」
エリカが少し考えて。
「……マルクス」
「ああ」
台所に、二人分の気配がある。窓の外に、春の夕暮れの光がある。それだけで、十分だった。
(第6節 了)




