第4節:事件の収束
夜の七番棟前。行政局の人間が中に入り、三人を連行していた。
エリカはその様子を、倉庫の外の石壁に背を預けながら見ていた。体の力が少しずつ戻ってくるのが分かる。手首の跡がまだ残っている。焦点具は返してもらったが、まだ握る気になれなかった。
少しして、懐から折り畳んだ紙を取り出した。数日かけて追いかけた経路の記録だ——アクセス元の追跡結果、書庫ごとのハッシュ不一致のログ、バックドアの術式を分解した書き起こし。倉庫に来る前に、念のため書き写して持ってきていた。
マルクスに渡した。
「バックドアの全体図です。配布経路と、送信先のアドレスまで追えています」
マルクスが受け取って、一度だけ目を通した。
「クラウスにも写しを」
「はい」
それだけだった。それで十分だった。
クラウスが来て、マルクスから紙を受け取り、そのままエリカを見た。
「ダルジェント。今夜はよく持ちこたえた」
「……ありがとうございます」
ヤンの手の者が、静かに散っていく。カレルが「お疲れ様でした」と短く言い、仲間を連れて通りへ消えた。
夜の旧市街に、人が減った。
*
翌日の昼前、エリカはポジーチー(Poříčí)にいた。
城下街から川沿いに下った先の、川岸職人地区だ。染職人や鋳物師の工房が並ぶ路地に、看板を持たない煉瓦造りの建物がある。くすんだ木の扉に、表札もない。知らなければ通り過ぎる場所だ。
マルクスがその扉を二度叩いた。
「……まあ、入れ」
オットーが出てきた。白髪のボサボサした頭に、くたびれたローブ姿だ。エリカを見て、ちらりと目を動かした。
「昨夜の件か」
「ああ」
「……どこか怪我は」
「ありません」とエリカが答えた。
「そうか」
それだけ言って、オットーは中へ戻った。
工房は広くはなかった。棚に様々な魔道具が並んでいる。鑑定待ちのものか、修繕中のものか——整然としているようで、オットー以外には分類が分からない秩序だった。奥の作業台に、すでに道具が並んでいる。マルクスが昨夜のうちに連絡を入れていたらしかった。
オットーが湯の入った器を三つ、持ってきた。茶葉を入れたものだ。
「これ、先に飲め」
三人で器を持って、道具を挟んで向き合った。
テーブルの上には、エリカが回収した認知ハック装置と、バックドア術式を書き写した紙が並んでいる。
オットーが装置を手に取り、静かに見た。ひっくり返した。縁の刻印を確かめた。何も言わずに、次に術式の紙を広げた。
しばらく、誰も話さなかった。
湯が冷めていく。
「……これもだ」
オットーが言った。
「去年の秋、首席代表の件で見た術式——指紋が一致する。設計した者の癖が出ている。術式の端の処理、再帰の畳み方。どちらも同じだ」
「グレゴール・シャドウか」
マルクスが確かめた。
「断言はできん。ただ、同一人物か、少なくとも同じ師から学んだ者だ。今回の件を設計したのは、おそらく同じ人間だ」
エリカは紙を見た。自分が数日かけて解読したバックドアの術式が、そこにある。
「……目的は何ですか。バックドアで収集した情報を、どこへ送っていたんでしょう」
「まだ送信先まで追えていないが——利用ギルドの通信記録と収支情報だ」オットーが言った。「数が揃えば、大陸の小規模ギルドの動向が丸ごと読める。誰と取引しているか、どこに拠点があるか、資金の流れがどうなっているか。それが手に入れば——使い方は何通りでもある」
「政治的・経済的な支配の準備か」マルクスが言った。
「少なくとも、その準備になる」
エリカは茶器を置いた。
(マスターキーを奪えば、それが「公式版」として大陸中に配られた。私の名前で)
自分が作ったものが、そういう形で使われるところだった。怒りと、それ以上の何か——自分の善意を足場にされた、という感覚が、まだ胸の底に沈んでいた。
「ブレンナー公爵との繋がりは」
「今回も証拠として繋がらない」オットーが言った。「グレゴールは徹底的に中間業者だ。指示が来ているにしても、直接の痕跡を残さない。そういう設計だ」
マルクスが黙っていた。
「……いずれ、また向き合うことになる」
独り言のようだった。エリカはそれを聞いたが、今は何も言わなかった。
*
バックドアの除去は、エリカが主導した。
汚染が確認されたブルノ書庫とプルゼニュ書庫を即座に隔離し、連邦魔導書庫ネットワークの全拠点へ警告を発信した。他の拠点への伝播がないことを確認してから、オリジナルの学園魔導書庫に戻った。
マルクスがクリーンバージョンの術式を一から検証した。エリカが分解したバックドアの構造と照らし合わせ、類似した仕込みがないかを確かめる。二人で向かい合って、黙ったまま作業を続けた。日が傾いて、窓から差す光の角度が変わった。
「問題ない」
マルクスが言った。エリカは署名を入れた。管理者としての認定署名——これで初めて、「正規版」として全ネットワークに配布できる。
各ミラー書庫の管理者権限を見直した。不正なアクセス経路を一つずつ洗って、全て遮断した。
被害はゼロだった。エリカが数日で経路を追いきったことで、伝播が始まる前に止まっていた。
(間に合った)
それだけを確かめて、エリカは手を止めた。隣でマルクスが茶を淹れ始める音がした。
*
数日後、クラウスから通信が来た。
「捜査の結果が出た。攻撃者がエリカ・ダルジェントの名前と素性を知った経緯が分かった」
エリカはそれを聞く前から、なんとなく分かっていた気がした。
「ヴラジミール・ホウサーだ。降格後の配置転換後、見知らぬ仲介者が直接執務室を訪ねてきた。対価と引き換えに、エリカ・ダルジェントの弱点情報を意図的に提供した。動機は報復と見ている」
「……分かりました」
「本人の身柄は押さえてある。今後は行政局が引き取る」
それで通信が終わった。
エリカはしばらく、通信石を手の中で持っていた。握り直すでもなく、置くでもなく。ただ——何かが、静かに終わった気がした。
その日の夕方、トマーシュから連絡が来た。
「……本当に申し訳なかった。社としても、あなたを守れなかった」
声が低かった。普段より疲れている。
「トマーシュさんのせいじゃないです」エリカは言った。「できることは全部してもらいました。それは本当に思っています」
「エリカ——」
「でも」
少し間があった。
「私、アストラルを出ます。今回のことで、決まりました」
トマーシュが黙った。しばらくして、言った。
「……引き留めることは、できない。君が正しい」
「ありがとうございます」
「次は、どこへ」
「ストジーブルナー・ルーナです。マルクスが顧問をしているところです」
また沈黙があった。
「……そうか」トマーシュが言った。「よかった。腕を腐らせるな」
「はい」
それで通信が切れた。
エリカは窓の外を見た。春の夕刻の光が、旧市街の石畳に落ちている。アストラル商会の窓から見る光は、もう少しだけ違って見えた。
*
夜になってから、エリカはリブシェに連絡を入れた。
リブシェは大陸のどこかにいる。通信石の応答は少し遅れた。
「エリカ! よかった、生きてる」
「……大げさです」
「大げさじゃない。昨日、なんか嫌な予感がして——ちゃんと話して」
エリカは話した。ミラー書庫の異常を見つけたこと。一人で調べ続けたこと。ヴラジミールからの通信で倉庫街に行ったこと。拘束されたこと。認知ハック装置が展開を始めたこと。
「……マルクスさんが来たの? 一人で?」
「一人じゃなかったです」
エリカは続けた。ヤンさんが人を連れてきた。クラウスさんも、イジーさんも、オットーさんも、ヴェルナーさんの冒険者たちも——全員が来た。
通信石の向こうで、リブシェが少し黙った。
「……エリカ」
「はい」
「あなた、どれだけ大事にされているか、ちゃんと分かってる?」
エリカは答えなかった。
「何でもない。……みんなに、ありがとうって伝えておいて」
「はい」
「それから」リブシェが言った。少し声が変わった。「マルクスさんのこと——エリカは、どう思ってるの」
「……」
「聞いてもいい?」
エリカは少しの間、窓の外の春の夜を見ていた。
「……まだ、うまく言葉にならないです」
「そっか」
「でも——」
少しの間があった。
「先生の顔が、昨夜、普段と違いました。何かが」
「……うん」
「それが、ずっと頭から離れなくて」
リブシェが、電話口でそっと笑ったような気がした。
「そっか」
それだけ言った。
「おやすみ、エリカ。ゆっくり休んで」
「おやすみなさい」
通信石の光が消えた。
エリカは部屋に一人でいた。春の夜の音がある。遠くで誰かが歩いている音。川の方から、水の流れる気配。
先生の顔が、昨夜と違った。
それが何だったのか——まだ言葉にならない。でも確かに何かがあった。それだけが、分かっていた。
(第4節 了)




