↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
氷河期(アイスエイジ)の魔法使い  作者: よん
第9章:「善意に潜む毒」

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
48/51

第3節:陽動と突入

 旧市街の水門近く——倉庫区画七番棟。


 廃棄された魔法道具の保管庫が並ぶ一角だった。石造りの古い建物で、外壁は雨風に洗われ、窓は内側から板で塞がれている。街の灯りが届かない場所だ。


 エリカは、その中にいた。


 椅子に座らされ、後ろ手に縛られている。手首には金属の輪がある。魔力の流れを断つ拘束具だ。焦点具はすでに奪われ、さらにこれを嵌められて、術式を編む手段が何もなかった。拘束された直後、反射的に何かしようとして——何もできないことだけが分かった。これは最初から、こういう段取りだったのだ。


 夕刻前、エリカはマルクスとの約束の二時間前に家を出た。「倉庫街の中継ノードを確認してから向かう。それだけだ」と思っていた。数日かけて追いかけてきた経路の先に、ヴラジミールが教えた番地があった。一致していた。怪しいと思った。しかし——確認するだけなら、一人で十分だった。


 七番棟の扉を開けた瞬間、動けなくなった。


 三人いた。準備されていた。「入ってくる」と分かった上で待っていた人間の動きだった。焦点具を奪われ、手を縛られ、椅子に座らされるまで、一分もかからなかった。罠だった——ヴラジミールが教えた場所そのものが、罠だった。


(先生に連絡しなかった。バックドアを見つけた朝も、しなかった。今夜も、しなかった)


 頼りすぎてはいけないと思っていた。自分でやれると思っていた。一人で確認して、それから相談すればいいと思っていた。それが、ここにいる理由だった。


 冷静に状況を整理した。焦点具は封じられている。後ろ手の縛りは抜けるほど甘くない。椅子は床に固定されている。逃げる手段がない。


 正面に一人、立っている。三十代の男で、仕立てのいい外套を着て、腕を組んでいた。特に目立つ外見ではない。それがかえって、この手の仕事に慣れた者の気配だった。


「エリカ・ダルジェント様」


 声に温度がなかった。


「あなたが持つ学園魔導書庫への登録権限——正確には、配布認定署名の発行権限です。それをここで行使していただきたい。それだけでいい」


 エリカは答えなかった。


「書庫の管理画面にアクセスできる魔導書を。あなたが日常的に使っているもので構いません。そこから署名を押すだけです。技術的な手続きは、こちらで処理します」


「……何に、署名させるつもりですか」


 聞いた。聞きながら、時間を稼こうとしていた。


「あなたのライブラリの最新版として、更新を配布します。内容の確認は不要です」


(バックドア入りの版を、公式認定にする——それが目的だった。ミラー書庫への細工は囮だった。本当の狙いは最初からここだった)


 怪しいとは思っていた。しかし来た。先生に頼らずに自分で確認して、自分で解決して——そうしてから報告したかった。それだけだった。その一心が、ここにいる理由だった。


「……お断りします」


 男が少しだけ目を細めた。


「そうおっしゃると思っていました」


 背後の一人が動いた。棚の奥から、小さな箱を持ってきた。


「話せないなら、別の方法があります」


 箱が開かれた。中に銀色の腕輪がある。細工の施された、接触型の魔道具だ。エリカはそれを見た瞬間、全身の血が一度に冷えるような感覚がした。


(接触型の認知干渉魔道具(認知ハック装置)——)


 精神に直接干渉し、記憶を書き換える。「自分から署名した」という状態を、意志と関係なく作り出す。


(これが触れれば——私の意志と関係なく、署名させられる。その署名があれば、今夜、三百を超えるギルドに毒が届く)


 自分のライブラリを使っている、大陸中の小さなギルドに。貧しい魔法師たちに。エリカとリブシェが「こういう人たちのために」と作ったものが、その人たちを傷つける道具になる。


 男が腕輪を手に、近づいてきた。エリカは動けなかった。


(先生は今頃、石橋亭(ウ・カメンネーホ・モストゥ)の前で待っている。返事がないから心配しているかもしれない。でも——ここがどこかは、分からない)


 連絡しなかった。また、しなかった。


(今夜は、一人だ)


 その確信が底の方でゆっくりと沈んでいく。腕輪が展開を始めた——薄い光が輪の縁に沿って走り始める。


 エリカは目を閉じた。


*


 マルクスは水路沿いに立っていた。


 旧市街の北端。水門の近くで、倉庫区画七番棟が右手にある。石造りの古い建物だ。表に人はいない。


 ヘッドセット型焦点具を先に展開した。それにメガネ型を重ねる——解析特化の配置だ。互いの出力が補い合い、精度が上がる。通常の単体運用とは桁が違う感度になる。


 **監視魔法(オブザーバー)**を静かに展開した。気配を読む。熱源を読む。術式の状態を読む。


 三人いる。


 奥に一人——体温が低い。座っている。動いていない。


(エリカだ)


 確かめる間もなかった。手前の二人のうち、一人が何かを展開している。術式の揺らぎが読める。


 メガネ型が示す——認知干渉術式。展開を始めている。接触型だ。段階が進んでいる。


 時間がない。


 陽動のタイミングは、まだだ。ヴェルナーの冒険者たちが表に回るのは、もう少し先だ。計画通りに動けば——


(計画通りに待てるか)


 それだけだった。計算ではない。エリカの記憶が書き換えられようとしている——その一事が、全ての段取りを吹き飛ばした。陽動を待つ理由が、もうなかった。


 体が動いていた。北側の裏口へ、すでに向かっていた。


 北側の裏口へ回る。オットーが言った——「裏口は北側、水路沿いだ。入れる隙間が一つある」。


 **気配消し**——監視魔法の隠蔽応用だ。自分の存在を最小化する。足音が消える。気配が消える。壁際の影に溶け込むように、扉へ近づく。


 解析術式を扉の鍵に当てた。メガネ型の焦点具が機構の全体を即座に見せる——どこに術式が仕込まれているか、どの順で解除すれば音が出ないか、全部見えた。対抗するまでもない構造だった。二秒で外れた。


 扉を押す前に、ブレスレット型を展開した。魔力が掌の奥で収縮する感覚がある——ここに入れた分の出力は、一点で絞り出せる。


 扉を押した。


 扉が開いた瞬間、全てが流れ込んだ。


 ヘッドセット型とメガネ型が組み合わさった状態で見る世界は、通常と違う。術式の状態が可視化され、熱源の位置が分かり、誰がどこにいて何をしているかが一息に入ってくる。経験がなければ情報量に飲まれる——マルクスは長年これで動いてきた。


 三人の位置。手前左に一人、奥に二人。認知ハック装置の展開を進めていた男が、こちらを見た。


 その一拍で、もう動いていた。


 **エマージェンシー・キャスター「緊急魔法陣」**——スキルを使わない。術式を即時に手で編む。認知ハック装置の展開術式の根を読んで、そこへ干渉の術式を差し込む。強制断絶。腕輪の縁を走っていた光が、糸を切ったように消えた。


「何が——」


 男が振り返る、その顎が上がる一瞬の間に。


 **麻痺(スタン)**——ブレスレット型の出力を一点に絞り、術式を叩き込む。術者としての「構え」を一切取らせない。男は声も出す間もなく、糸の切れた人形のように崩れた。


 二人目が動いた。速い。術師だ。防御結界を展開しながらこちらへ向かってくる——どこかで訓練を受けた動きだった。


 マルクスは錫杖を前に出した。


 相手の防御結界をメガネ型が即座に読む。術式の構造、干渉点、どこに隙があるか——全部見えている。「打ち砕く」のではない。錫杖の芯部に封じ込まれた多重鍛造の魔法陣が、結界の術式と同じ波を逆位相で出力する。外から押すのではなく、同調して、内側から崩す。


 結界が割れた——相手が「あれ」と思う前に。


 至近距離で**麻痺(スタン)**。二人目が倒れた。


 三人目——護衛の剣士だった。仲間が二人続けて音もなく倒れるのを見て、術師よりも剣が速いと判断したのだろう。腰の剣を抜いて、踏み込んできた。中年の魔法使いが一人——その判断は、間違いではなかった。


 しかし錫杖は、剣よりも長い。


 マルクスは引かなかった。槍術の間合いに入ったまま、錫杖の石突きを床に一度打った。相手の踏み込みが合わさった瞬間、杖の軌道が変わる——剣を振り上げようとした肘の内側を、下から抜くように当てた。剣が浮いた。体勢が崩れた。


 崩れたところへ、錫杖の中央を握り直して横から入れた。


 剣士が体を立て直そうとした。速い。本職だ——マルクスよりも体が動く。剣を引き戻し、距離を取りながら構え直す。今度は慎重に、間合いを測りながらこちらを見た。


 ブレスレット型の出力を、錫杖の芯部へ流した。魔力が金属の中を走る感覚がある。杖の重さが、変わった——振れば打撃に魔力が乗る。受ければ弾かれる。


 相手が剣を振り込んできた。


 マルクスは払わなかった。錫杖を盾にして刃を受け、魔力を乗せた重さで剣ごと押し込んだ。腕が流れた相手の懐へ、半歩入る。槍術でも杖術でもない——小ギルドを渡り歩いた時代、前衛不在の現場で何度も死にかけながら覚えた、どの流派にも属さない動きだ。


 足を払って、崩した。前のめりに体が落ちる一瞬——錫杖の石突きを延髄へ当て、同時に**麻痺(スタン)**を叩き込んだ。魔力ごと、直接。


 音もなく落ちた。


 速い。正確だ。しかし——美しくはなかった。型がない。綺麗な制圧ではない。それだけだ。


 ブレスレット型を展開したまま、奥へ歩いた。


 エリカが椅子に座っている。後ろ手に縛られたまま、目を開いて、こちらを見ている。


 マルクスは拘束具に解析術式を当て、手首の金属輪を外した。縄を切った。


 エリカの肩を——両手でつかんだ。


「怪我は」


「……ない、です」


 声が出た。かすかに震えていたが、出た。


「でも先生、なんで——ここが」


 答えなかった。


 何かが顔に出ていたかもしれない。エリカがマルクスの顔を見た。普段と同じ顔だった——しかし、普段と何かが違う。それが何かを、エリカはまだ言葉にできなかった。


 外から複数の足音が来た。


*


 七番棟の外に出ると、人がいた。


 水路沿いの道に、ヤンの手の者が数人いる。路地の出口を塞いでいた。表の通りには、ストジーブルナー・ルーナの冒険者たちが仁王立ちで待っている。カレルの姿があった——獣人の大きな体で、路地の出口を一人でふさいでいた。


 少し後から、クラウスが来た。行政局の人間を三人連れていた。執行令状を持っている。


「間に合ったか」


 マルクスへ短く確認した。


「三人いる。全員落としてある。認知干渉の装置が一点、回収できる」


 クラウスが頷いて、部下を中へ向けた。


 イジーの手配した行政局員も、しばらくして到着した。人数が揃った。


 エリカは倉庫の外に出て、集まった顔ぶれを見た。


 言葉を失ったのは、一瞬だった。


 ヤンが近づいてきた。


「……顔色が悪いな。歩けるか」


「……歩けます。でも、なぜ皆さんが」


 ヤンは何も言わずにマルクスを見た。マルクスも何も言わなかった。


 冒険者の一人が、小声で言った。


「……惚れた女のためだろう。見れば分かる」


 カレルが肘を当てた。「黙れ」——これも小声だった。


 エリカが、マルクスを見た。


 マルクスが、エリカを見た。


 ——それで十分だった。


(第3節 了)


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。