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氷河期(アイスエイジ)の魔法使い  作者: よん
第9章:「善意に潜む毒」

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第2節:空振りと約束

 その日の夕方、マルクスは通信石でエリカに連絡を入れた。


 仕事の用件ではない。最近はそういう連絡が増えていた。マルクスが誘うこともある。エリカが来ることもある。どちらが言い出したかは、もう曖昧になっていた。


「夕食、時間があるか。行きたい店がある」


 「先生」ではなく、マルクスとして誘った。


「……はい、ぜひ」


 短い返答だった。それで十分だった。



 約束の二時間前。


 エリカは「倉庫街の中継ノードを確認してから向かう」つもりで家を出た。確認したらすぐ戻る。そのつもりだった。



 約束の時刻になった。


 マルクスは石橋亭の前で待っていた。冬の終わりの夕暮れは、まだ少し冷える。外套の襟を立てて、通りの先を見ていた。


 来ない。


 一刻(約二十分)が過ぎた。二刻が過ぎた。


 通信石を鳴らした。応答がない。


「……」


 マルクスは石をもう一度見た。沈黙したままだ。何かが、いつもと違う。理屈ではない。長く生きてきた者だけが持つ、説明のつかない感覚だった。


 店主に「今日は行けなくなった」と伝えて、歩き始めた。


 足が速い。普段と違う。


 頭の中で、その日のエリカの動きを追った。最後の通信はヴラジミールからだった——それだけは分かっている。


 マルクスには準備があった。エリカの立ち位置が悪くなっていた頃から、ヤンのネットワーク経由でアストラル商会周辺の動向を密かに調べていた。ヴラジミールが「外部の人間と複数回接触している」という情報は、すでに手元にある。


 その情報を持って、マルクスはヴラジミールの自宅へ直接向かった。夜の、人目のない時間だった。


 扉を叩く。


 ヴラジミールが開けた瞬間、マルクスの目を見て顔色が変わった。


「……なぜ、お前が」


「エリカ・ダルジェントに通信を送ったな」


 静かな声だった。


「何を伝えた」


「……」


 マルクスが懐から封筒を一枚取り出した。中には、ヴラジミールと仲介者のやり取りの記録がある。日時と内容が並んでいた。


 ヴラジミールが、それを見て青くなった。


「場所を教えろ。それだけでいい」


 低い声だった。怒っているわけではない。温度がなかった。それがかえって怖かった。


 ヴラジミールの喉が動いた。


「……旧市街の水門近くだ。倉庫区画の七番棟。俺が案内した時、中に三人いた」


 マルクスが立ち上がった。


「今夜、行政局から人間が来る。全部話せ。話す前に逃げるな」


 それだけ言って、出た。


 ヴラジミールの家を出て、マルクスはいったん自宅へ戻った。


 寝室の奥の収納箱を開ける。蓋に埃が積もっていた。最後に開けたのがいつかも、もう覚えていない。


 錫杖がある。


 全長は腰の高さほど、細身だが重い。東方渡りの玉鋼をベースに特殊鍛造された金属部分は、くすんだ銀色をしている。装飾はない。芯部には魔法陣が彫金されているが、それも外からは見えない——高度に圧縮された術式を多重鍛造で封じ込めた構造だ。ただ出力する。それだけのために作られた道具だ。


 普段の顧問の仕事には向いていない。顧問仕事に使う道具は別にある。これは、相手と正面から向き合うときのための装備だ。


 専用焦点具一式も、その隣に揃っていた。


 細い金属フレームのメガネ型——解析専用だ。対象の術式構造を即座に読み取り、干渉点と弱点を可視化する。術者の経験と合わさって、初めて意味をなす。革紐に小さな金属玉を連ねたブレスレット型——瞬間出力の増幅器だ。魔力を一点に絞り込み、短時間に爆発的な出力を作り出す。最後に、薄い金属板を耳の後ろに添えるヘッドセット型——複数の術式を同時展開するときに思考負荷を分散させる補助機構だ。並列処理。そう呼ぶ者もいる。


 どれも、日常には要らない。


「……使うか」


 独り言ですらなかった。すでに手が動いている。


 錫杖を腰に着ける。メガネを掛ける。ブレスレットを手首に通す。ヘッドセットを耳の後ろに当てる。一つずつ、確かめながら。


 この装備を全部出すのは、「念のため」ではない。エリカがそこにいる。それだけで十分だった。


 「三人いる」とヴラジミールが言った。それを聞いた瞬間からもう、これ以外の選択肢はなかった。


 装備を整えると、マルクスは歩きながら、次々と連絡を入れた。


 最初はクラウスだ。連邦魔法行政局の次官——学院の脆弱性事件で初めて顔を合わせて以来、もう三年近い付き合いになる。深夜に非公式で連絡を入れるのは、初めてだった。


「クラウス、夜分すまない。旧市街の倉庫区画七番棟に人が一人、囚われている可能性がある。令状がほしい」


「……今からか」


「遅くなってもいい。来てくれ。それだけでいい」


 間があった。クラウスは実直な男だ。手順を踏まずに動くことを好まない。しかし——


「分かった。先に人を出す。場所は」


「七番棟。北側に水路がある。出口を全部押さえてくれ」


「令状は後から整える。動く」


 短い。しかし確かだった。


 次はヤンだ。


 この時刻、白狐亭の親分は二階の部屋にいるはずだった。女房のハナが厨房を閉めた後、今日の旧市街で何があったかを一杯やりながら聞いている頃合いだ。


「親分、マルクスだ」


「……夜中に通信石か。何があった」


「倉庫区画の七番棟を囲んでほしい。出口を全部塞ぎたい。今夜、今すぐ」


 ヤンが一瞬黙った。


「エリカちゃんか」


「そうだ」


「分かった」


 理由を聞かなかった。驚いてもいなかった。元冒険者の体が、もう動き始めている——そういう声の質だった。


 次に通信石を鳴らしたのはヴェルナーだ。深夜に顧問から呼び出しが来ることは前例がない。マルクスは自分でそれを分かった上で、鳴らした。


「申し訳ないが、腕の立つ冒険者を五人ほどお願いしたい。倉庫区画七番棟の正面に陽動をかけたい。今夜、今すぐに」


 少し間があった。


「……マルクス先生が今すぐ、と言う。分かりました。手の空いているのを出します」


 ヴェルナーの声に動揺はなかった。何かを察した——そういう静けさがあった。


 イジー・ストラーカへは、なるべく短く伝えた。首席代表の秘書官に夜半過ぎの通信を入れるのは、普通ではない。ズデニェク首席代表から預かった紋章入りの通信石を、今夜初めて使った。


「七番棟に不法監禁の疑いがある。行政局が後詰めで入れるか」


「……状況を確認します。動かせます」


 マルクスは少し間を置いた。


「——去年の秋の件で追っていた相手と、同じ動き方をしている。首席代表には、念のため伝えておいてほしい」


 通信石の向こうで、イジーが息を呑む気配がした。


「……分かりました。急ぎます」


「助かります」


「お気をつけて」


 最後にオットーだ。


 川岸職人地区の工房に明かりが点いているかどうかは分からない。それでも、石を鳴らした。


「オットー、俺だ。起きているか」


 少し間があって、寝起きのような声が返ってきた。


「マルクスか。寝てたぞ」


「すまない。七番棟の図面があるか」


「……図面か。待て」


 声が遠くなった。引き出しを引く音がした。紙の束を繰る音がした。


「ある。裏口は北側、水路沿いだ。入れる隙間が一つある」


「分かった。ありがとう」


 少しの間があった。


「……エリカちゃんか」


 マルクスは一歩、足を速めた。


「そうだ」


「行ってこい」


 全員が動き始めた。それぞれが、待っていたかのような速さで。


 マルクスは夜の旧市街へ、足を速めた。


(第2節 了)



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