第1節:更新チャネルの異変
協定歴四一二一年、初春。
新市街の建物の屋根に積もった雪が、少しずつ解け始めていた。日が伸びた。アルカの城壁の上に、まだ薄い光が斜めに射しこんでいる。
エリカ・ダルジェントは、アストラル商会の執務室に一番乗りで座っていた。
机の上には書類が二山ある。どちらも「過去案件の稼働記録の整理」だった。三ヶ月前から、エリカに回ってくる仕事は、おおむねそういったものだ。やればできる仕事で、誰かがやらなければならない仕事で——しかし、誰でもできる仕事だった。特に問題はない。ただ、会議には呼ばれない。新規案件は回ってこない。
エリカはその事実を、今は静かに飲み込んでいた。
書類を開く前に、魔導書を取り出した。
朝の習慣だ。軽量スキルセットライブラリの更新確認——連邦魔導書庫ネットワークの同期記録を流して、昨夜の間に変わったことがないか確かめる。学院を出て一年が過ぎた。このライブラリは今も動いている。大陸の小さなギルドや、古い焦点具しか持てない魔法師たちが、今日もどこかで使っている。それだけが分かれば十分だった。
同期記録が流れてくる。東部のブルノ書庫、北部のオロモウツ書庫、西部のプルゼニュ書庫——
手が止まった。
(……バージョン番号が合わない)
ブルノ書庫からの同期記録に「バージョン2.4.1」とある。エリカが先月配布した最新版と同じ番号だ。しかし——記録のハッシュが違う。わずかだが、確かに違う。
見間違いかと思った。もう一度確認した。
違う。
エリカの目が細くなった。
(差分を引き出す)
ライブラリの各バージョンは変更点の記録を保持している。エリカが配布した2.4.1と、ブルノ書庫にある「2.4.1」の差分を並べる。
数字が並んだ。行が出てきた。
エリカは一行ずつ読んだ。
途中で、一度だけ息を吐いた。
(……これは)
術式が一つ、追加されている。表面的には補助処理に見える——しかし、よく読めば違う。定期的に、利用ギルドの通信記録と収支情報を特定の送信先へ流し続ける仕組みだ。収集して、送る。それだけのために仕込まれた術式だ。
裏口。
それが、エリカが開発した軽量スキルセットライブラリの中に入っていた。
*
少し考えた。
急ぐべきだ、という感覚はあった。しかし焦って動けば判断が鈍る——体がそれを知っていた。
(まず確認する。改ざんされたのはオリジナルの書庫か、ミラー側か)
学園魔導書庫のオリジナル登録を確かめる。エリカが直接管理している、一番の原典だ。
異常はなかった。
(オリジナルは無事。改ざんされたのはブルノのミラーだけか——まだ確認していない書庫がある)
他のミラー書庫を一つずつ確かめる。西のプルゼニュ書庫、北のオロモウツ書庫、南のブルナ書庫——
プルゼニュ書庫にも、同じ異常があった。
(二箇所。他は)
残りを確認するのに一時間かかった。汚染が確認できたのはブルノとプルゼニュの二箇所だった。他のミラーへの伝播は、今のところない。
エリカは机に手をついて、窓の外の光を見た。
(ミラーから自動更新しているギルドがある。このまま伝播すれば——利用者の数だけ、流れ出る情報が増える)
登録ギルドの数と、ミラー経由の更新ギルドの数を頭の中で計算した。悪い方向には考えたくなかったが、数字は正直だった。
急がなければならない。
*
アストラルの上司への報告を、一秒だけ考えた。すぐに止めた。軽量スキルセットライブラリはエリカとリブシェの個人プロジェクトだ。アストラルとは無関係で、報告すれば「就業時間に個人案件を動かしていた」という話になる。今の立場をさらに難しくする理由はない。
(先生に連絡する)
次の瞬間、エリカはその考えを自分で打ち消した。
(……まず自分で解決する。先生に頼りすぎてはいけない)
去年の冬、白狐亭のカウンターでのことが頭をよぎった。先生の顔が最初に浮かぶ——と言った夜。自分で言って、自分で驚いた夜。先生に頼る、という選択は、エリカの中でいつの間にか「自然なこと」になっていた。それが分かっているからこそ、意識して止めなければならないと思っていた。
まず経路を追う。発信源が分かれば、誰が仕込んだかが分かる。そこまでやってから相談する——それが正しい手順だ。
エリカは魔導書に向かって、作業を再開した。
*
それから数日、エリカは手が空く時間を使って調査を続けた。
昼の食堂で、スヴィーチコヴァー(牛肉のクリームソース煮)を食べながら経路を追った。厚みのある牛もも肉を白いクリームソースで煮込んだ、冬の終わりに出てくる定番料理だ。茹で団子をソースに浸しながら、頭の中では記録の継ぎ目を探し続けている。
(アクセス元を逆にたどれば、必ずどこかに繋がる)
魔法の痕跡は完全には消えない。どんなに細工しても、記録の継ぎ目にはわずかな筆跡が残る。一層ずつ剥がすように、丁寧に追う。
三日目の夜、一本の経路が浮かんできた。
首都アルカ内。旧市街の倉庫街——中継ノードだ。正確な番地まではまだ出ていないが、範囲は絞れてきた。もう一日調べれば特定できるはずだった。
(……もう少しだ)
窓の外に、初春の夜の冷たい空気がある。街の灯りが点っていた。
エリカは作業の手を止めて、茶を一口飲んだ。
*
翌夜、通信石が光った。
書類から目を上げた。石の光の色が、少し独特だった——よく使う相手ではない。
手に取ると、文字が浮かんだ。
「エリカ・ダルジェント様。ヴラジミール・ホウサーです。以前は、ご迷惑をかけました。少し考えることがあって——あなたの軽量ライブラリの件で、気になることがあります。もしよろしければ、返信をください」
エリカは石を机の上に置いた。
(……ヴラジミール・ホウサー)
警戒する、という感情が先に来た。この名前には、理由がある。去年の秋、あの案件——証拠を整えて、クラウスを通じて行政局に動いてもらった後に、静かに降格になった男だ。
それでも、エリカは返信した。「どのような件ですか」——簡潔にそれだけ。
少し待つと、文字が来た。
「首都の旧市街、倉庫街の配布中継ノードに、見覚えのない書き込みがあります。あなたのライブラリの識別子が使われているようです。私は今は関われる立場ではありませんが——あなたなら分かると思って」
エリカは読んだ。もう一度読んだ。
(……技術的に、正確だ)
倉庫街の中継ノード。ライブラリの識別子。この言葉は、エリカが数日かけて追いかけてきた経路と一致していた。でたらめではない——この情報を持っているということは、何らかの形で事実を知っている。
警戒は消えなかった。しかし、内容には無視できない具体性があった。
「場所を教えてもらえますか」
返信が来た。番地と、建物の特徴が書いてあった。
(……実在する)
知っている旧市街の地図と照合した。矛盾がない。倉庫区画の一角——まさしく、エリカが追いかけていた中継ノードの近くだ。
エリカはしばらく、通信石を手の中で転がした。
(先生に連絡してから行く、という方法がある)
一拍。二拍。
(でも——確認するだけだ。行って見て、それからでも遅くない。また頼りすぎてはいけない)
机の上に通信石を置いた。
明日の夕方、確認に行く。それだけのことだった。
(……先に確認する。それだけだ)
窓の外に、春前の夜の空気がある。街に灯りが点っている。
エリカは魔導書を閉じた。
(第1節 了)




