第4節:嵐と凪
一週間後。
アストラル商会の内部に、静かな事実が伝わった。開発部のヴラジミール・ホウサーが「配置転換」になった。発表はそれだけで、理由の説明はなかった。「組織再編の一環として」という文言が添えられていたが、誰もそれを信じてはいないだろうと、エリカは思った。
トマーシュがエリカを廊下に呼んだのは、その日の夕方だった。
「……君は正しいことをした」
静かな声だった。
「ただ——生きにくくなるかもしれない」
「……分かっています」
トマーシュが少し間を置いた。それから、頷いた。それだけで、それ以上のことは何も言わなかった。
*
それから一ヶ月が経った。
表立った報復はなかった。
ただ——空気が変わった。
エリカが以前担当していた新規クライアントの調査案件が、回ってこなくなった。理由は言われない。週次の開発報告会議に呼ばれなくなった。「今回は関係者のみで」という一文が書類で届く。代わりに増えたのは書類整理と、古い案件の稼働ログの整理だった。誰も面と向かって何も言わない。しかし徐々に——エリカは「いないもの」に近くなっていった。
トマーシュが動いていることは分かった。「次の案件、エリカを入れたい」と上に掛け合っている、とエリカには伝わっていた。しかし戻ってくるのは「班のバランスを考えて」という曖昧な返答だった。
ある昼、トマーシュが仕事の合間にエリカの横に来た。周囲に人がいない場所を選んで、低い声で言った。
「……すまない。俺にはこれ以上動かせない」
エリカは顔を上げた。
「トマーシュさんのせいじゃないです」
微笑んだ。微笑めた、と思う。ただ——その笑みが少し疲れていることを、自分では分かっていた。
夜、自宅のアパートの窓から首都の夜景を見ながら、エリカはぼんやりと考えた。
(……ここに、自分の場所はあるのだろうか)
答えは出なかった。まだここを出る踏ん切りもない。ただ——アストラル商会で働いている、という自明感が、少し揺らいでいた。正しいことをしたのに、それがコストになる。その構造への、静かな違和感が底に沈んでいる。
*
同じ頃、別の場所で、別のことが動いていた。
ヴラジミール・ホウサーの新しい執務室は、旧執務室の半分ほどの広さだった。窓もない。以前は開発部主任として上層部への報告会議に毎週出ていた。今は月に一度、資料を回してもらうだけだ。
ある夜、帰り支度をしていると、知らない男が扉を開けた。
三十代くらい。地味な服装で、印象に残らない顔をしている。
「ヴラジミール・ホウサーさんですか」
「そうだが」
「少し、お時間をいただけますか。エリカ・ダルジェントについて、お聞きしたいことがありまして」
ヴラジミールが手を止めた。
「……誰の使いだ」
「それは申し上げられません。ただ——エリカ・ダルジェントについて詳しい方を探していまして。対価は払います」
ヴラジミールは少し考えた。
(……金のためではない)
そう思った。しかし、同意した。
「あの女の弱点ということでいいか」
「そのようなものを。使い方はこちらで決めます」
「軽量スキルセットライブラリ——あの女が開発した、術式配布システムがある。学園魔導書庫への登録権限を、あの女一人が持っている。一人で動く癖がある。何かあれば単独で確認に行く。適切な情報を与えれば——間違いない」
男がメモを取りながら、静かに聞いていた。
「他には?」
「功を焦る。報告より先に動く。それがやつの習性だ」
男が頷いた。対価を置いて、去った。
ヴラジミールは手の中の紙幣を見た。「エリカを怖がらせる程度のことだろう」と思った。相手が何者か、何をしようとしているか——深くは考えなかった。
*
数日後の夜。
白狐亭のカウンターに、二人が並んで座っていた。
ヤンがジョッキを二つ置いた。ピルスナービール——首都アルカのどこにでもある銘柄だが、管理が良くて注ぎ方が丁寧だから、ここで飲むとうまい。「金の泡」と呼ぶ、縁に白い冠の麦酒だ。
「片付きました」
エリカがジョッキに手を伸ばしながら言った。
「そうか」
しばらく、どちらも何も言わなかった。
しばらくして、ヤンが厨房に声をかけた。皿が来た。
ロースト・ポルク(豚のロースト)だ。厚めに切り分けられた豚肉が、鉄板で焼き目をつけられて皿に並んでいる。脂が適度に落ちていて、表面はこんがりとした焦げ色だ。添えてあるのはホジチツェ(粒辛子)——粒の一つ一つが刺激を持っていて、肉の脂と合わさると甘みが出る。
エリカが肉を一切れ、口に運んだ。
(……おいしい)
ただそれだけ思った。今夜は味が分かる、と思った。先月、ここで飲んだビールよりも、今夜の方が余計なことを考えずに飲めている。何かが、少し落ち着いた。
「先生」
「ああ」
「……私、先生のところへ行くのが、一番自然でした」
マルクスがジョッキを置いた。
「誰かに相談しようと思った時、先生の顔が最初に浮かんで」
エリカは言葉を選びながら続けた。
「なんでだろうと思って——たぶん、先生が一番正直だから、だと思います」
マルクスが手の中のジョッキを見た。
「……それは、信頼ということだろう」
「はい。でも——それだけじゃないような気がして」
言いながら、エリカは言葉を止めた。
(……どういうことだろう)
自分で言って、自分では答えが出なかった。信頼だ、とは思う。しかし——それだけでは何かが足りない気がする。先生だから、でもない気がする。言葉を探したが、見つからなかった。言えないまま、口が閉じた。
マルクスは、ジョッキをカウンターに戻した。それから正面を向いたまま、少し間を置いた。
長い沈黙だった。ヤンが離れた場所で、カウンターを拭いている。
「……今夜はもう帰れ。夜が遅い」
突き放した言い方ではなかった。ただ——そこで止まった。
(……止まった)
エリカには、その止まり方が分かった気がした。何かを言いかけて、引いた止まり方だ。——あるいは、言えなかった。どちらか分からなかった。
「……はい」
エリカが立ち上がって、外套をまとった。
「今日は、ありがとうございました」
「ああ」
扉が開いて、夜の空気が一瞬流れ込んだ。扉が閉まった。
*
マルクスは一人、カウンターに残った。
扉が閉まった音が、まだ耳に残っている。
(……「それだけじゃないような気がして」)
言いかけて止まった、エリカの声が。
ヤンが黙って、小さな杯を置いた。澄んだ琥珀色の酒——エンフィリアのアイル島産の蒸留酒だ。ヤンがこれを出す時の意味を、マルクスは知っている。
ヤンは何も言わなかった。背を向けてグラスを洗い始めた。
マルクスが杯を手に取った。少し口をつけた。
燻した泥炭の香りと、潮の気配。遠い島の味がする。
何か言いかけた。
——止まった。
(……俺はエリカに、言うべきことがある)
その言葉が浮かんだ。それを口にすることが、何かを確定させてしまう気がした。
あの「今夜はもう帰れ」は——正しくはなかった。言うべきことがあった。それを、言わなかった。
ユリアを失って、十五年。再び誰かのことを——そういう目で見る。その扉を開けることへの、静かな抵抗がある。「俺には、その資格があるのか」という問いが、底に沈んでいる。
「……もう一杯か?」
ヤンが振り向かずに言った。
「……ああ」
ヤンが酌をした。何も言わない。ただ、わずかに目を細めた——それだけだった。
*
翌朝。
オットー・フィッシャーの工房の扉をヤンが叩いたのは、開店前の時刻だった。
「マルクスのところに来る娘、知っているか」
オットーが道具を片付けながら、ちらりとヤンを見た。
「……知っている。何度か会った」
「どう見る」
「いい目をしている」
ヤンが頷いた。
「そういうことだ」
オットーが手を止めた。
「……遅いな、あいつは」
「そうだ」ヤンが言った。「だがそれがあいつだ」
二人とも、それ以上は何も言わなかった。
(第4節 了)




