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氷河期(アイスエイジ)の魔法使い  作者: よん
第8章:「書き換えられた記録」

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第4節:嵐と凪

 一週間後。


 アストラル商会の内部に、静かな事実が伝わった。開発部のヴラジミール・ホウサーが「配置転換」になった。発表はそれだけで、理由の説明はなかった。「組織再編の一環として」という文言が添えられていたが、誰もそれを信じてはいないだろうと、エリカは思った。


 トマーシュがエリカを廊下に呼んだのは、その日の夕方だった。


「……君は正しいことをした」


 静かな声だった。


「ただ——生きにくくなるかもしれない」


「……分かっています」


 トマーシュが少し間を置いた。それから、頷いた。それだけで、それ以上のことは何も言わなかった。



 それから一ヶ月が経った。


 表立った報復はなかった。


 ただ——空気が変わった。


 エリカが以前担当していた新規クライアントの調査案件が、回ってこなくなった。理由は言われない。週次の開発報告会議に呼ばれなくなった。「今回は関係者のみで」という一文が書類で届く。代わりに増えたのは書類整理と、古い案件の稼働ログの整理だった。誰も面と向かって何も言わない。しかし徐々に——エリカは「いないもの」に近くなっていった。


 トマーシュが動いていることは分かった。「次の案件、エリカを入れたい」と上に掛け合っている、とエリカには伝わっていた。しかし戻ってくるのは「班のバランスを考えて」という曖昧な返答だった。


 ある昼、トマーシュが仕事の合間にエリカの横に来た。周囲に人がいない場所を選んで、低い声で言った。


「……すまない。俺にはこれ以上動かせない」


 エリカは顔を上げた。


「トマーシュさんのせいじゃないです」


 微笑んだ。微笑めた、と思う。ただ——その笑みが少し疲れていることを、自分では分かっていた。


 夜、自宅のアパートの窓から首都の夜景を見ながら、エリカはぼんやりと考えた。


(……ここに、自分の場所はあるのだろうか)


 答えは出なかった。まだここを出る踏ん切りもない。ただ——アストラル商会で働いている、という自明感が、少し揺らいでいた。正しいことをしたのに、それがコストになる。その構造への、静かな違和感が底に沈んでいる。



 同じ頃、別の場所で、別のことが動いていた。


 ヴラジミール・ホウサーの新しい執務室は、旧執務室の半分ほどの広さだった。窓もない。以前は開発部主任として上層部への報告会議に毎週出ていた。今は月に一度、資料を回してもらうだけだ。


 ある夜、帰り支度をしていると、知らない男が扉を開けた。


 三十代くらい。地味な服装で、印象に残らない顔をしている。


「ヴラジミール・ホウサーさんですか」


「そうだが」


「少し、お時間をいただけますか。エリカ・ダルジェントについて、お聞きしたいことがありまして」


 ヴラジミールが手を止めた。


「……誰の使いだ」


「それは申し上げられません。ただ——エリカ・ダルジェントについて詳しい方を探していまして。対価は払います」


 ヴラジミールは少し考えた。


(……金のためではない)


 そう思った。しかし、同意した。


「あの女の弱点ということでいいか」


「そのようなものを。使い方はこちらで決めます」


「軽量スキルセットライブラリ——あの女が開発した、術式配布システムがある。学園魔導書庫への登録権限を、あの女一人が持っている。一人で動く癖がある。何かあれば単独で確認に行く。適切な情報を与えれば——間違いない」


 男がメモを取りながら、静かに聞いていた。


「他には?」


「功を焦る。報告より先に動く。それがやつの習性だ」


 男が頷いた。対価を置いて、去った。


 ヴラジミールは手の中の紙幣を見た。「エリカを怖がらせる程度のことだろう」と思った。相手が何者か、何をしようとしているか——深くは考えなかった。



 数日後の夜。


 白狐亭ウ・ビーレー・リシュキのカウンターに、二人が並んで座っていた。


 ヤンがジョッキを二つ置いた。ピルスナービール——首都アルカのどこにでもある銘柄だが、管理が良くて注ぎ方が丁寧だから、ここで飲むとうまい。「金の泡」と呼ぶ、縁に白い冠の麦酒だ。


「片付きました」


 エリカがジョッキに手を伸ばしながら言った。


「そうか」


 しばらく、どちらも何も言わなかった。


 しばらくして、ヤンが厨房に声をかけた。皿が来た。


 ロースト・ポルク(豚のロースト)だ。厚めに切り分けられた豚肉が、鉄板で焼き目をつけられて皿に並んでいる。脂が適度に落ちていて、表面はこんがりとした焦げ色だ。添えてあるのはホジチツェ(粒辛子)——粒の一つ一つが刺激を持っていて、肉の脂と合わさると甘みが出る。


 エリカが肉を一切れ、口に運んだ。


(……おいしい)


 ただそれだけ思った。今夜は味が分かる、と思った。先月、ここで飲んだビールよりも、今夜の方が余計なことを考えずに飲めている。何かが、少し落ち着いた。


「先生」


「ああ」


「……私、先生のところへ行くのが、一番自然でした」


 マルクスがジョッキを置いた。


「誰かに相談しようと思った時、先生の顔が最初に浮かんで」


 エリカは言葉を選びながら続けた。


「なんでだろうと思って——たぶん、先生が一番正直だから、だと思います」


 マルクスが手の中のジョッキを見た。


「……それは、信頼ということだろう」


「はい。でも——それだけじゃないような気がして」


 言いながら、エリカは言葉を止めた。


(……どういうことだろう)


 自分で言って、自分では答えが出なかった。信頼だ、とは思う。しかし——それだけでは何かが足りない気がする。先生だから、でもない気がする。言葉を探したが、見つからなかった。言えないまま、口が閉じた。


 マルクスは、ジョッキをカウンターに戻した。それから正面を向いたまま、少し間を置いた。


 長い沈黙だった。ヤンが離れた場所で、カウンターを拭いている。


「……今夜はもう帰れ。夜が遅い」


 突き放した言い方ではなかった。ただ——そこで止まった。


(……止まった)


 エリカには、その止まり方が分かった気がした。何かを言いかけて、引いた止まり方だ。——あるいは、言えなかった。どちらか分からなかった。


「……はい」


 エリカが立ち上がって、外套をまとった。


「今日は、ありがとうございました」


「ああ」


 扉が開いて、夜の空気が一瞬流れ込んだ。扉が閉まった。



 マルクスは一人、カウンターに残った。


 扉が閉まった音が、まだ耳に残っている。


(……「それだけじゃないような気がして」)


 言いかけて止まった、エリカの声が。


 ヤンが黙って、小さな杯を置いた。澄んだ琥珀色の酒——エンフィリアのアイル島産の蒸留酒だ。ヤンがこれを出す時の意味を、マルクスは知っている。


 ヤンは何も言わなかった。背を向けてグラスを洗い始めた。


 マルクスが杯を手に取った。少し口をつけた。


 燻した泥炭の香りと、潮の気配。遠い島の味がする。


 何か言いかけた。


 ——止まった。


(……俺はエリカに、言うべきことがある)


 その言葉が浮かんだ。それを口にすることが、何かを確定させてしまう気がした。


 あの「今夜はもう帰れ」は——正しくはなかった。言うべきことがあった。それを、言わなかった。


 ユリアを失って、十五年。再び誰かのことを——そういう目で見る。その扉を開けることへの、静かな抵抗がある。「俺には、その資格があるのか」という問いが、底に沈んでいる。


「……もう一杯か?」


 ヤンが振り向かずに言った。


「……ああ」


 ヤンが酌をした。何も言わない。ただ、わずかに目を細めた——それだけだった。



 翌朝。


 オットー・フィッシャーの工房の扉をヤンが叩いたのは、開店前の時刻だった。


「マルクスのところに来る娘、知っているか」


 オットーが道具を片付けながら、ちらりとヤンを見た。


「……知っている。何度か会った」


「どう見る」


「いい目をしている」


 ヤンが頷いた。


「そういうことだ」


 オットーが手を止めた。


「……遅いな、あいつは」


「そうだ」ヤンが言った。「だがそれがあいつだ」


 二人とも、それ以上は何も言わなかった。


(第4節 了)


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