第3節:動かし方を組み立てる
マルクスが食器を流しに運んだ。皿が重なる音が台所から聞こえた。
エリカはテーブルに座ったまま、手をひざの上に置いていた。窓の外は冬の昼前の光で、庭の冬枯れた植え込みが白っぽく見える。何かを決めなければならない——それは分かっている。ただ、どこから手をつければいいのか。
「自分を守ることと、正しい結果を出すことは別の問題だ」
マルクスが戻ってきて、椅子を引いて座った。
「……どういうことですか」
「お前が証拠を組織に出した場合、お前の身に何が起きるか——それは一つの問題だ。証拠が適切な経路に届いて、適切な結果が出るかどうか——それは別の問題だ。混同すると、どちらも解決できなくなる」
テーブルの上を指先で一度叩いた。
「まず文書を完成させる。技術的に反論できない形にする。それから、届け方を考える」
(……職人のやり方だ)
エリカは思った。バグを見つけたとき——まず再現条件を確定させ、それから修正の方法を考える。順序を混同したら、何も解決しない。
「届け方に、心当たりがありますか」
「ある」
マルクスが言った。「クラウス・フォン・シュタイン。連邦魔法行政局の執行官だ。以前から信用できる人間だと分かっている」
「行政局が——アストラル商会に入れるんですか」
「連邦規定に基づいて調査権限がある。アストラル内部の政治とは別の軸で動ける。ヴラジミールが組織内でどんな人脈を持っていても、行政局の権限には手が届かない」
エリカは少し考えた。
「……ただ直接行政局に持ち込むのとは違うんですか」
「経路が違う。クラウスを通せば非公式に動いてもらえる。証拠を整えてから公式に動く形を作れる。いきなり外部に出すより、お前が証拠を整理した上で相談する——という筋道が踏める」
(……なるほど)
同時に出すのではなく、順番がある。証拠を先に完成させ、経路を準備し、それから動く——カスミールの製造ラインを解析したときと同じ手順だ。全部を一気に動かそうとするから混乱する。
「分かりました。やります」
*
エリカが鞄を開けて、持参した資料を取り出した。試験記録の写し、稼働ログの抽出データ、自分でまとめたメモ書き。テーブルの上に広げる。
マルクスが向かいではなく——横に座って、資料を手に取った。
(……また、横だ)
緑釜工房での三日間を、エリカは一瞬思い出した。経路図の束を並べ、二人で同じ紙を見ていた。向かいに師匠がいる、という配置ではなく——並んで、同じものを読んでいた。今もそれと同じだ。
——自然に、そう受け取っていた。これが先生のやり方だ、という以上に、こうあるのが当然のように感じている自分がいた。それが少し不思議だった。
マルクスが稼働ログのデータと試験記録の写しを並べた。
「このログの時刻と、起動記録の乖離」
指先が二点の数字を押さえた。
「これは明確だ。起動された形跡がない日に、起動されたとする承認記録がある。時刻まで記してある分、偽造の精度は粗い」
「……粗いんですか」
「急いでいたか、記録の確認手段がないと思っていたか。どちらにしても、稼働ログを突き合わせれば崩れる」
エリカが手元の紙に書き取りながら、別の箇所を開いた。
「こちらは、試験前日の会議記録です。ヴラジミールが『試験完了』と発言した記録があります。しかし——」
「しかし、試験設備のマナ消費量がその日に動いていない」
「はい。こちらがその日の設備側の記録です」
マルクスが受け取って、数字を確認した。
「……ここを補強しろ」
指が一点を押さえた。「試験設備が別の日に動いた記録があれば——同じ規模の試験を実施したとき、マナ消費量はいくらになるか、比較できる。この数字だけでは『試験設備を動かしていない』という証明が一点だ。同規模の別試験との比較があれば、二点になる」
「……過去の試験記録を調べれば出せると思います」
「やれ」
「この証拠は弱いですか」
エリカが別の紙を差し出した。承認印の筆跡の一致を確認したメモだった。マルクスが見た。
「弱い、というより——技術的な証拠じゃない。筆跡の一致は傍証にはなるが、中心に置くな。マナ消費の乖離と起動記録の不在——そちらが主軸だ。傍証はその後ろに並べる」
「分かりました」
エリカがペンを走らせた。マルクスが黙って待った。
仕事のやり取りに余分な言葉がない。緑釜工房でのあの三日間がそのままここにある——と、エリカは感じた。向かい合って質問する関係ではなく、並んで同じものを見ながら、必要なことだけを言う。
「先生、これは追記できますか」
「どこだ」
「稼働ログの照合を、この節にまとめたいんですが——こういう並べ方で伝わりますか」
マルクスが覗き込んだ。
「……伝わる。ただ、この一文は余分だ。事実だけを並べろ。評価はクラウスがやる。お前はデータを出す側だ」
「削ります」
二時間ほどで、技術報告書の骨格が出来上がった。
エリカはペンを置いて、手元の紙を見た。数字が整然と並んでいる。正確で、反論しにくい形になっている。
(……できた)
隣を見た。マルクスが最後の一枚を確認している。指先が資料の端を押さえ、数字を追っている。エリカはその手を、一拍だけ見た。特に理由はなかった。ただ、見ていた。
*
マルクスが立って、棚の引き出しから小さな石を取り出した。透明に近い鈍い光があった——連絡石だ。
「クラウスに通じる」
手の中で短く何かを唱えた。しばらく待つ。石が一度、弱く光った。
「……アッシュベルクだ。非公式に確認したいことがある。明日、時間が取れるか」
少し間があった。
「エリカ・ダルジェントも同席していい」
また間があって、石の光がわずかに変わった。マルクスが頷いて、石を棚に戻した。
「明日、昼前に来る」
「……分かりました」
*
翌朝、クラウス・フォン・シュタインが時間通りに現れた。
四十五歳。中肉中背で、くたびれた行政官の外套を着ている。連邦魔法行政局の執行官という役職に見合う威厳がある一方で、ひどく地味な男だった。扉を開けたマルクスと短く挨拶を交わし、エリカに目を向けた。
「ダルジェント」
「……はい」
「軽量スキルセットライブラリを作った研究者か。二年前の学院の件で名前は聞いていた」
「そうです」
「なるほど」
それだけだった。クラウスが席についた。エリカが昨日まとめた技術報告書を、テーブルに置いた。
クラウスが受け取って、読み始めた。
読む間、何も言わなかった。手の動きが止まらない。ページをめくりながら、時々少し前に戻って確認している。六枚の報告書を読み終えるのに、十分ほどかかった。
「……これは重大だな」
クラウスが紙をテーブルに置いた。
「試験記録の偽造——組織的なものか、個人的なものかはまだ分からないが。このマナ消費の乖離は、確認の仕様がなかったとは言い訳できない」
「行政局として動く前に、アストラル内での処理を先に試みるべきだろうか」
クラウスがマルクスに向いた。「商会が内部調査で処理できるなら——その方が穏便だが」
「圧力がかかる前に先に動いた方がいい」
マルクスが言った。「ヴラジミールは上層部にパイプを持っている。内部調査を始めた時点で情報が漏れると、証拠を整理する時間が取られる前に話が変わる可能性がある」
クラウスがしばらく考えた。
「……そうだな」
少し間を置いて、報告書を指で押さえた。
「行政局には、民間組織に対して直接聴取に入る権限がある。アストラル商会が行政局の調査を拒否することはできない。内部の人事ルートを迂回して、この記録を処理できる」
エリカが「迂回、というのは」と聞くと、クラウスが続けた。
「商会の内部告発ルートを通さない、ということだ。連邦の行政規定に基づいて直接調査を入れる——アストラル内部の誰かが握り潰す前に、行政局の管轄に入れてしまう。こちらの窓口は私が持つ。君は証拠を渡すだけでいい」
「……エリカへの影響は」
エリカが自分で聞く前に、マルクスが先に言った。
「調査の協力者として処理できる。匿名性の確保は保証できないが——公式に協力者と扱われれば、商会が君に直接報復することは難しくなる」
クラウスが頷いた。「報復が出た場合は行政局として記録する。完全に守れると言えないが、明るい場所で動けば動きにくくなる」
(……なるほど)
エリカは思った。「正しいことをするコスト」がある——それは変わらない。ただ、一人で闇の中で抱えているより、明るい場所に出した方が、少なくとも相手も動きにくくなる。
「……分かりました」
エリカが頷いた。「お願いします」
クラウスが報告書をもう一度手に取った。
「確認だが——これは、君自身が調べて出した結論か」
「はい」
「誰かの指示で動いたわけではなく」
「はい」
クラウスがマルクスを一度見て、それからエリカに戻った。
「……分かった。動く」
簡潔だった。説明も、保証も、余分な言葉もない。ただ「動く」という一文だけがあった。それで十分だ、とエリカは思った。
(第3節 了)




