第2節:日曜の朝、訪ねていく
翌日は、休日だった。
エリカは自宅のアパートで、持ち帰ってきた書類を広げていた。試験記録の写しと、稼働ログから抽出したデータの一部。一晩置いたからといって、何かが変わるわけではない。証拠は証拠のままで、そこにある。
(……どうすれば)
問いだけがある。答えがない。
上司のトマーシュに相談するか——でも、トマーシュもアストラル商会の中にいる。どう動けるかは組織の論理に縛られる。連邦行政局に直接持ち込むか——証拠としての完成度は高いはずだ。しかし、窓口もルートも分からない。一人でどう動いていいか、見当がつかない。
(……誰に話せばいい)
考えているうちに、気づかないまま立っていた。
外套を手に取っていた。
扉を開けていた。
外の朝の空気が冷たかった。冬の首都アルカは、朝のうちはまだ石畳も空気も冷えている。エリカは歩き出した。特に行き先を決めていたわけではない——のに、足は自然に旧市街の方角へ向かっていた。
(……またか)
少しの間があって、それから、あまり驚いていない自分に気づいた。
*
マルクスの一軒家は、旧市街のギルド街を通り抜け、聖者の橋を渡って北へ、郊外住宅地の外れにある。庭付きの小さな家で、冬枯れた植え込みが門柱の脇に並んでいた。夏にはハーブが茂るのだろうが、今は茎だけが残っている。
エリカが小さな門を押して、石の小道を歩いた。朝の九時過ぎ。扉をノックする。
すぐに開いた。
マルクスが立っていた。休日のくたびれたローブ。右手には小さなフライパンを提げている。目玉焼きの途中だったらしい。
「……おはようございます。急に来てすみません」
「入れ」
それだけだった。何も聞かない。理由も、事前連絡がないことへの言及も、何もなかった。
エリカは靴を脱いで上がった。台所から、卵とバターとハムが混ざった匂いが流れてくる。
*
テーブルに二人分の皿が並んだのは、それからすぐのことだった。
目玉焼きに、白いクリームが小さじ一杯ほどかけてある。
「スメタナ(サワークリーム)ですか」
「ああ」
エリカはフォークで黄身を静かに割った。スメタナが熱で少し溶けて、黄身の黄色と混ざり合う。黒パンの一切れに乗せて、口に運ぶ。
(……あ)
卵の旨みの中に、スメタナの酸味が薄く溶けている。主張はしない。ただ、あることで、卵の味が少し奥行きを持つ。単純な構成なのに、理由の分からない充足感がある。
薄切りハムはフライパンの余熱で端が縮れていて、噛むと塩気と脂の香ばしさが出た。黒パンはずっしりと重く、密度が高い。少しの酸味がある。
「鍋の残りもある」
マルクスが立ち上がり、椀を温め始めた。しばらくして、テーブルに来た。
チェスネーコヴァー・ポレフカ(ニンニクスープ)だった。チーズが溶けて底に沈んでいる。ニンニクの香りが濃く、湯気が温かかった。一口飲むと——身体の中に熱が広がっていった。昨夜から冷えたままだった何かが、ゆっくりと緩む。
「……おいしいです」
「食べながら話せ」
エリカはスプーンを持ったまま、少し考えた。それから、口を開いた。
「技術的な相談がありまして」
最初はそう入った。その言葉の後ろに、本当のことを並べていく。
マルクスが黒パンをちぎりながら、黙って聞いていた。口を挟まない。ただ、聞いている。
エリカは話した。試験記録とマナ消費記録の乖離。稼働ログとの突き合わせ。確信に至るまでの三度の確認。ヴラジミールの承認印が全記録に押されていたこと。廊下での遭遇と、無意識に「隠した」こと。
話しながら、整理されていくものがあった。自分の頭の中でぐるぐるしていたものが、声に出すことで順序を持ち始める。証拠の事実はこれだ。組織の空気はこういうものだ。自分が逡巡している理由はここにある。
全部話し終えてから、エリカはスープの椀を置いた。
少し、静かになった。
「……私」
口が動いた。意図していなかった言葉が出た。
「ここに来るつもりじゃなかったんです。考えていたら来てました」
マルクスが、パンを持ったまま少し動きを止めた。
*
マルクスがパンを一口食べた。ゆっくりと咀嚼して、飲み込んだ。
「偽造か」
「……はい」
「記録は全部手元にあるか」
「写しは持っています。元の記録は会議室に残してきました」
「では、問題は技術的には解決している」
マルクスが言った。「残っているのは——どう動くか、だ」
「……それが、決められなくて」
沈黙が続いた。外の風が、窓の向こうで冬枯れた庭木を揺らしている気配がある。
「なぜ来た」
マルクスが、やや低い声で言った。
「……先生に聞きたかった、というより」
エリカはスプーンを皿の端に置いた。
「先生に話したかった、だと思います」
言ってから、少し驚いた。声に出すまで、自分でもそれが正確な言葉だとは分かっていなかった。
どちらも動かなかった。
マルクスが、手の中の黒パンをテーブルに置いた。それから、エリカを見た。——何か言うかと思った。言わなかった。ただ、そこに——いるような目だった。探るのでも、試すのでもない。ただ、見ていた。
「……そうか」
短かった。けれど——断ち切るのでも、押し戻すのでもない。
(……受け取った)
そう感じた。言葉の意味だけではない何かを——受け取ってもらった、という感触が確かにあった。
エリカはもう一度、スープを口に運んだ。ニンニクの香りが濃く、温かかった。朝から冷えていた何かが、ゆっくりと溶けていく。
(第2節 了)




