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氷河期(アイスエイジ)の魔法使い  作者: よん
第8章:「書き換えられた記録」

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第2節:日曜の朝、訪ねていく

 翌日は、休日だった。


 エリカは自宅のアパートで、持ち帰ってきた書類を広げていた。試験記録の写しと、稼働ログから抽出したデータの一部。一晩置いたからといって、何かが変わるわけではない。証拠は証拠のままで、そこにある。


(……どうすれば)


 問いだけがある。答えがない。


 上司のトマーシュに相談するか——でも、トマーシュもアストラル商会の中にいる。どう動けるかは組織の論理に縛られる。連邦行政局に直接持ち込むか——証拠としての完成度は高いはずだ。しかし、窓口もルートも分からない。一人でどう動いていいか、見当がつかない。


(……誰に話せばいい)


 考えているうちに、気づかないまま立っていた。


 外套を手に取っていた。


 扉を開けていた。


 外の朝の空気が冷たかった。冬の首都アルカは、朝のうちはまだ石畳も空気も冷えている。エリカは歩き出した。特に行き先を決めていたわけではない——のに、足は自然に旧市街の方角へ向かっていた。


(……またか)


 少しの間があって、それから、あまり驚いていない自分に気づいた。



 マルクスの一軒家は、旧市街のギルド街を通り抜け、聖者の橋を渡って北へ、郊外住宅地の外れにある。庭付きの小さな家で、冬枯れた植え込みが門柱の脇に並んでいた。夏にはハーブが茂るのだろうが、今は茎だけが残っている。


 エリカが小さな門を押して、石の小道を歩いた。朝の九時過ぎ。扉をノックする。


 すぐに開いた。


 マルクスが立っていた。休日のくたびれたローブ。右手には小さなフライパンを提げている。目玉焼きの途中だったらしい。


「……おはようございます。急に来てすみません」


「入れ」


 それだけだった。何も聞かない。理由も、事前連絡がないことへの言及も、何もなかった。


 エリカは靴を脱いで上がった。台所から、卵とバターとハムが混ざった匂いが流れてくる。



 テーブルに二人分の皿が並んだのは、それからすぐのことだった。


 目玉焼きに、白いクリームが小さじ一杯ほどかけてある。


「スメタナ(サワークリーム)ですか」


「ああ」


 エリカはフォークで黄身を静かに割った。スメタナが熱で少し溶けて、黄身の黄色と混ざり合う。黒パンの一切れに乗せて、口に運ぶ。


(……あ)


 卵の旨みの中に、スメタナの酸味が薄く溶けている。主張はしない。ただ、あることで、卵の味が少し奥行きを持つ。単純な構成なのに、理由の分からない充足感がある。


 薄切りハムはフライパンの余熱で端が縮れていて、噛むと塩気と脂の香ばしさが出た。黒パンはずっしりと重く、密度が高い。少しの酸味がある。


「鍋の残りもある」


 マルクスが立ち上がり、椀を温め始めた。しばらくして、テーブルに来た。


 チェスネーコヴァー・ポレフカ(ニンニクスープ)だった。チーズが溶けて底に沈んでいる。ニンニクの香りが濃く、湯気が温かかった。一口飲むと——身体の中に熱が広がっていった。昨夜から冷えたままだった何かが、ゆっくりと緩む。


「……おいしいです」


「食べながら話せ」


 エリカはスプーンを持ったまま、少し考えた。それから、口を開いた。


「技術的な相談がありまして」


 最初はそう入った。その言葉の後ろに、本当のことを並べていく。


 マルクスが黒パンをちぎりながら、黙って聞いていた。口を挟まない。ただ、聞いている。


 エリカは話した。試験記録とマナ消費記録の乖離。稼働ログとの突き合わせ。確信に至るまでの三度の確認。ヴラジミールの承認印が全記録に押されていたこと。廊下での遭遇と、無意識に「隠した」こと。


 話しながら、整理されていくものがあった。自分の頭の中でぐるぐるしていたものが、声に出すことで順序を持ち始める。証拠の事実はこれだ。組織の空気はこういうものだ。自分が逡巡している理由はここにある。


 全部話し終えてから、エリカはスープの椀を置いた。


 少し、静かになった。


「……私」


 口が動いた。意図していなかった言葉が出た。


「ここに来るつもりじゃなかったんです。考えていたら来てました」


 マルクスが、パンを持ったまま少し動きを止めた。



 マルクスがパンを一口食べた。ゆっくりと咀嚼して、飲み込んだ。


「偽造か」


「……はい」


「記録は全部手元にあるか」


「写しは持っています。元の記録は会議室に残してきました」


「では、問題は技術的には解決している」


 マルクスが言った。「残っているのは——どう動くか、だ」


「……それが、決められなくて」


 沈黙が続いた。外の風が、窓の向こうで冬枯れた庭木を揺らしている気配がある。


「なぜ来た」


 マルクスが、やや低い声で言った。


「……先生に聞きたかった、というより」


 エリカはスプーンを皿の端に置いた。


「先生に話したかった、だと思います」


 言ってから、少し驚いた。声に出すまで、自分でもそれが正確な言葉だとは分かっていなかった。


 どちらも動かなかった。


 マルクスが、手の中の黒パンをテーブルに置いた。それから、エリカを見た。——何か言うかと思った。言わなかった。ただ、そこに——いるような目だった。探るのでも、試すのでもない。ただ、見ていた。


「……そうか」


 短かった。けれど——断ち切るのでも、押し戻すのでもない。


(……受け取った)


 そう感じた。言葉の意味だけではない何かを——受け取ってもらった、という感触が確かにあった。


 エリカはもう一度、スープを口に運んだ。ニンニクの香りが濃く、温かかった。朝から冷えていた何かが、ゆっくりと溶けていく。


(第2節 了)


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