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氷河期(アイスエイジ)の魔法使い  作者: よん
第7章:「誰も知らない傑作」

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第4節:晩秋の帰り道

 翌朝。


 地下製造室で、ミロスラフが経路図の束を手に、二番の釜の外壁の前に立っていた。


 指で術式を辿る。昨日まで「何が何に繋がっているか分からない」と言っていた青年が、今は順を追って確かめている。マルクスはテーブルに座って、その背中を見ていた。


「原料魔力残量の計測——精製タイミングの判断節、ここですね」ミロスラフが図の一点を指した。「今季から産地が変わっていました。新産地は元々魔力残量が低いんですが——」


「古い閾値のままだ」マルクスが言った。「新しい原料は下限に届かないと判断されて、精製時間を伸ばさず通している」


「……これを調整すれば」


「動く」


 ミロスラフが静かに頷いた。確信を持ってそうしているのが、背中の立ち方で分かった。


 傍らでヴォイチェフが聞いていた。「……それで、製造を止めずに済む、ということですか」


「今季の原料で実測して閾値を修正する。二、三日あれば終わる」


 ヴォイチェフが長く息を吐いた。七日間の緊張が、ようやく出ていったような息だった。「お二人のおかげです。本当に、助かりました」


 マルクスが頷こうとして——エリカを見た。


「私一人ではできなかった。エリカがいたからだ」


 エリカは一瞬、答えを失った。


(……先生が、そういうことを言う人だとは思っていなかった)


 言葉は素直だった。感謝でも褒め言葉でもない——ただ事実の報告のような、そういう一文だった。しかしその重さが、胸の中でしばらく揺れた。


「……私こそ、いろいろ学ばせていただきました」


 答えとしては薄い。でも今はそれしか出てこなかった。



 エリカが調査報告書を仕上げたのは昼過ぎだった。


 製造システムの設計品質は高水準。書き起こした仕様書があれば維持管理可能。業務提携は技術的に問題なし。アストラル商会への報告は、そういう内容になった。


 帰り支度をしながら、エリカは経路図の束を揃えた。七枚。三日分の仕事だ。最初の一枚を広げた——「加熱補正値→釜底加熱術式」という矢印が、今は修正済みの向きで引かれている。


(……カスミールさんが一目で直した矢印だ)


 丁寧に重ねて、鞄に入れた。



 晩秋の旧市街は、夕刻を前に人通りが少なかった。


 石畳の路地に橙色と茶色の葉が積もっている。どこかの工房の煙突から薪を燃やす煙が流れ、少し遠くで鍛冶の音がした。夜気が冷たい。もう、冬がすぐそこにある。


 マルクスとエリカは並んで歩いた。大荷物はなかった。解析道具は片付けてあり、経路図の束はエリカが脇に抱えている。


 しばらく、何も言わなかった。


(……この三日間は、どこか違った)


 エリカは思っていた。言葉にしようとして、うまくならなかった。通り過ぎていく建物の並びが、ひとつひとつ確かに目に入ってくる。旧市街のこの路地は、アストラル商会の本部がある新市街とは別の時間が流れているような気がする。石畳の継ぎ目。蔦の枯れた煉瓦壁。老いた扉の金具。何十年も、誰かが仕事をし続けてきた気配。


「先生」


 マルクスが少し顔を向ける。


「……今回、一緒に仕事できて良かったです」


「ああ」


 短い答え。でもそれでいいと思った。


「私、先生の仕事のやり方を見るのが好きです」


 足を止めずに、エリカは続けた。


「もっと見ていたいと思う」


 少し間があった。石畳に足音が重なる。


「そうか」


(……カスミールには、最後まで自分の仕事を図にしてくれる人間がいなかった。それが今日、ようやく形になった)


 たった二文字。その中に、何かがある気がした——しかしエリカには、それが何なのかを言葉にできなかった。ただ、少し胸が暖かかった。



 白狐亭ウ・ビーレー・リシュキは、旧市街のギルド街の一角にある宿付き飲食店だ。


 路地に面した古い扉を押すと、ヤンがカウンター越しに顔を上げた。


「おう」


 それだけだった。しかし一瞬、マルクスとエリカを交互に見た。


「二人か」


「ああ」


「飯にするか」


「先に飲む」


 ヤンが黙って、麦酒の栓を開けた。ピルスナービール——黄金色の液体が、気泡を立てながらジョッキに注がれていく。細かい泡が立ち上って、縁に白い冠を作った。ヤンの店では「金の泡」と呼んでいる。首都アルカのどこにでもある銘柄だが、管理が良くて注ぎ方が丁寧だから、ここで飲むとうまい。


 マルクスが一口。


「……クロバーサはあるか」


「今日は盛り合わせが出せる。チーズとハムもつけるか」


「頼む」


 ヤンが厨房に声をかけた。しばらくして、皿が来た。


 鉄板で炙ったクロバーサが、斜めに切り分けられて並んでいる。燻した香りが広がった。皮がぱちりと弾けて、中から赤みを帯びた肉汁がにじみ出る。チーズは薄切りにされていて、ハムと重ねて皿の端に盛ってある。


 エリカがジョッキを恐る恐る口に運んだ。


(……苦い。あと——)


 少しの間、考えた。


(……おいしい)


「……先生、ビールをちゃんと美味しいと思ったのは初めてです」


「ほう」


「今まで苦いだけだと思っていました」


「こういうのは、飲む前に何かあった日がいい」マルクスがジョッキを置いた。「疲れた身体に入ると、味が変わる」


 エリカはもう一口飲んだ。確かに苦さの中に、何か甘いものがある。


「ご苦労さんだったな」


 珍しい言葉だと思った。マルクスがそういうことを言う人だとは——いや、今日は何度かそういうことがあった。


「……ありがとうございます」


 二人は黙って、クロバーサを食べた。ヤンがカウンターを拭きながら、時々こちらを見た。何も言わなかった。



 ひとしきりして、エリカが「そろそろ失礼します」と立ち上がった。


「気をつけて帰れ」


「はい」


 エリカが扉を押す。外の夜気が一瞬流れ込んで、扉が閉まった。


 カウンターに静けさが戻った。


 ヤンがジョッキを片付けながら、ぼそりと言った。


「……いい仕事仲間だな」


「ああ」


 ヤンが背を向ける。グラスを水で流しながら、続けた。


「……仕事仲間、か」


 独り言のような言い方だった。マルクスは何も言わなかった。ヤンも何も続けなかった。


 グラスを洗う音だけが、しばらく続いた。



 帰宅すると、家の中は静かだった。


 火を入れて、湯を沸かす。茶葉を量りながら、ほとんど何も考えていなかった。手が自分でやっている。こういう夜は、身体が先に動く。


 茶が入った。湯呑みを両手で包む。温度を確かめるように、少しずつ冷ます。


 今日の仕事のことを、順を追って考えていた。経路図の構造。カスミールが指した矢印の方向。釜の前で手が先に動いた瞬間。ミロスラフが今朝、確信を持って閾値を指したこと。


(……エリカの文書がなければ、カスミールに見せるものがなかった)


 その事実をもう一度確かめるように考えた。自分だけでも読めた。しかし読んだことを形にできなかった。形があったから、老人の手は動いた。


 茶を飲んだ。


 ふと——「もっと見ていたいと思う」という声が、もう一度聞こえた気がした。


 言葉として思い出したのではない。声の色として——夕暮れの路地で、足を止めずに言ったときの、あの声の。


 マルクスは湯呑みを置いた。


 視線が、自然に棚の方へ向かった。


 棚の奥。引き出し。そこに何があるか——考えずに知っている。


 ユリアの写真だ。三年前に整理して、そこにしまった。


 ——なぜ、まだそこにあるのか。


 という問いが、浮かんで消えた。


 マルクスが立ち上がり、棚の前に立った。


 引き出しに手をかけた。


 ——止まった。


 少し、そのまま立っていた。引き出しを開けることも、手を離すことも、どちらもしなかった。


 それから、静かに手を下ろした。


 茶が冷える前に飲んだ方がいい。


 マルクスは椅子に戻り、湯呑みを持った。茶は少し冷めていた。それでも、悪くなかった。


(第4節 了)


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