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氷河期(アイスエイジ)の魔法使い  作者: よん
第7章:「誰も知らない傑作」

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第3節:傑作の正体

 三日目の夕方。


 経路図は七枚になっていた。気温・湿度の補正則、原料魔力残量と精製タイミング、月齢連動と撹拌リズム、星位による長期ドリフト補正——書き出したものは多い。しかし大気魔力濃度の節は「おそらくこうだろう」という推測のまま、月齢術式の係数の一部には「確認要」という印が残っていた。


 石段を降りてくる足音がした。



 先に気づいたのはヴォイチェフで、「叔父上が——今日は調子がいいと施設の方から聞いて、連絡を入れておいたんです」と小声でマルクスに言った。


 石段の下に現れたのは、白髪の老人だった。七十二歳。付き添いの係員が後ろに控えている。カスミール・ネーマン——緑釜工房の前オーナーにして、この製造ラインを二十年かけて一人で作り上げた調合師だ。


 エリカは初めて、この人の顔を見た。


 がっしりした体躯に、使い込まれた大きな手。今日という日には確かに目が定まっているが、視線の奥が——遠い。今と、別の時間が同時にある、そういう目だ。


(……この人が、あの術式を組んだのか)


「カスミールさん」マルクスが静かに言った。「わざわざ来てくれた。ありがとう」


「来た方がいいかと思って」老人がかすれた声で答えた。「……工房の具合が悪いと聞いた」


「解析している。七日になる」


「そうか」カスミールがゆっくりと地下を見渡した。大釜が三つ。外壁の術式。二十年分の自分の仕事が、今日もそこにある。「動いているか」


「動いている」


 老人が、小さく頷いた。



 マルクスはテーブルに七枚の経路図を広げた。


「私たちが書いたものだ。あなたの術式を読んで、どう繋がっているか図に落とした。見てもらえるか——合っているかどうかだけでいい」


 カスミールが椅子に腰を下ろし、一枚目を手に取った。


 気温・湿度の計測術式と、加熱量補正への接続を示した図だ。エリカが三日かけて書き起こした一枚。老人の指が、図の上をゆっくりと辿った。


「……これは」


「合っているか」


「……合っている」短い答えだった。しかし指が止まった。「ここは——」


 指先が、図の中の一点で止まる。エリカが書き込んだ「加熱補正値→釜底加熱術式」という矢印の方向だ。


「ここの矢印が……逆だ」


 エリカが身を乗り出した。


「逆——ですか」


「補正値を渡しているのはこっちではなく、ここから——」老人の指が、矢印の根元から先を辿り直した。「こっちから渡している。どちらが主か、逆だ」


 エリカが図を確認した。確かに。自分は補正の流れを「加熱制御が補正を受け取る」と解釈していたが、カスミールが示したのは「補正節が加熱制御に指示を出している」——制御の主従が逆だった。細かい違いに見えて、全体の構造の読み方が変わる。


(……三日読んで、気づかなかった。一目で分かる)


 エリカは矢印を修正した。



 二枚目。月齢連動の術式の図だ。


「これは?」


 カスミールが図を見た。今度は少し長い沈黙だった。


「……月の術式だ」老人がゆっくり言った。「これは——私が入れた。満月の前後で、溶液の動き方が変わる」


「なぜ変わるか、覚えているか」


「……大気の魔力が揺れる。その揺れが液に伝わる」カスミールが図の撹拌制御への接続を指した。「だからここの——撹拌の刻みを、月に合わせて変えている」


「係数が二種類入っている。満ちる方向と欠ける方向で違う値だ」


「そうだ。欠ける方は——」老人が眉根を寄せた。「……欠ける方は、なぜこの値にしたか。出てこない」


 マルクスがエリカを見た。エリカが経路図の隅を指した——三日前に自分で書き込んだメモだ。「欠ける方向は粗め、細かい調整は満ちる側のみ?(要確認)」


「この値でいいかどうかだけ聞く。合っているか」マルクスが数値を読み上げた。


 カスミールが少し考えた。


「……少し大きい。もう少し小さかったはずだ」


「どのくらい」


「……感覚だ。正確な数字は——出てこない」老人が首を振った。「ただ、それではなかった」


 エリカは「要修正・実測で確認」と書き込んだ。値そのものは出てこない。しかし「それではなかった」という職人の感覚は確かだ——それだけで、先に進める。


(……数字は覚えていない。でも、正しいかどうかは分かる。手の感覚でものを作ってきた人の、最後まで残るものがある)



 三枚目、四枚目と見ていった。


 カスミールは速くはなかった。一枚ごとに時間がかかった。指が図の上を辿る。「これは正しい」「ここが違う」「この接続は——待て、少し考える」そうして三十秒、一分と沈黙が続き、何かが出てくることもあり、出てこないこともあった。


 星位連動の術式の図を見たとき、老人は図に触れた途端に言った。


「冬の初めに入れた」


「なぜか」


「冬の前に、品質が先に変わる。気温が下がる前から。星の配置が先に変わるからだ——大気の傾きが変わる方が、気温の変化より早い。追いかけると間に合わない。だから星を読んで、先に補正をかける」


 今度は淀みなかった。指が図の上を自然に流れた——それを解説する言葉が後から続いてくるような、そういう語り方だ。手が知っていて、口がそれを追っている。


(……「先読み補正」と私が名付けたものの意味が、今初めてちゃんと分かった)


 エリカが書き足す手が止まらなかった。



 五枚目——大気魔力濃度の術式の図。エリカが「推測」と書いておいた節だ。


「この図は自信がない」マルクスがはっきり言った。「ここの接続を、私たちは正しく読めていない可能性がある。見てもらえるか」


 カスミールが図を取った。


 今度は、長い沈黙だった。


 老人の指が図の上に乗った。辿ろうとして——止まった。もう一度、別の場所から辿った。また止まった。


「……」


 エリカは息を詰めた。


「……ここが」カスミールがぽつりと言った。「違う」


「どう違うか」


「……出てこない。ただ——ここは違う。この向きではない」


 マルクスが頷いた。「どうつながっているか、釜の前で見てもらえるか」



 カスミールが立ち上がり、二番の釜の前に歩いた。


 外壁の術式の前に立った。エリカの図で「推測」と書いた節が、ちょうど正面に来る位置だ。


 老人が、外壁に手を伸ばした。


 指先が、エリカの図とは別の場所の術式に触れた——ためらいなく。


「ここから」


「何がそこから出ているか」


「……」


 カスミールが術式の上に手を置いたまま、黙った。目が少し遠くなった。


 エリカはカスミールの手の位置を図に書き込んだ。どの節に触れているか。それだけでも記録になる。


「……魔力の、濃度が高い日がある」


 絞り出すような声だった。


「高い日は——何かが変わるんだ。液の反応が速くなる。速くなりすぎると——バランスが崩れる。だからここで、速さを抑える。自動で」


「突発的な外乱への緊急補正だ」マルクスが確認した。「これがその節か」


「そうだと思う。……正確には、覚えていない」老人の手が術式の上をゆっくりと動いた。「でも——ここを触ると、そういう感じがする」


 エリカは図を引き直した。接続の向きを修正し、「実物確認:緊急補正節」と書き込んだ。


(……「触ると、そういう感じがする」。この人は二十年、自分の手でこの術式を調整し続けてきた。言葉ではなく、手がまだ覚えている)


 それが正確な数値ではないことは分かっている。これで文書が完成するわけではない。しかし——向きは分かった。ここに何があるかは分かった。ミロスラフがこれを見て、実測で確認できる。


 エリカは、この七枚の経路図を作るために必要だったものが、今ようやく揃った気がした。



 釜の前から戻ったカスミールが、テーブルの七枚の図を眺めた。


 しばらく、何も言わなかった。老人の目が、図から図へと移っていく。


「……これを」


 低い声だった。


「これを、三日で書いたか」


「エリカが書いた。私が読んで、彼女が文書に落とした」


 カスミールがエリカを見た。エリカは思わず姿勢を正した。老人の目に、何か違うものが入ってきた気がした——遠くを見る目ではなく、今ここを見る目だ。


「……よく書けている」


「ありがとうございます」


「こんなふうに整理されると——」カスミールが、もう一度図全体を見渡した。「私も、自分が何をしていたか、少し分かる気がする」


 エリカの胸の中で、何かが動いた。


(……設計が正しかったんじゃない。この人が正しかった。誰にも読めないように見えた術式が、こんなに筋の通ったものだったとは)


 老人の目が、経路図の上に静かに落ちた。


 ぽつりと、一滴が図の上に落ちた。


 誰も何も言わなかった。マルクスも、エリカも、ミロスラフも。係員が一歩踏み出して、やめた。


 老人がゆっくりと目を拭った。「……年寄りみたいなことをする」


「お前さんは、ちゃんと読んだな」カスミールがマルクスに言った。その目に、何か静かなものがあった。


 マルクスが短く頷いた。


「設計は正しかった。文書がなかっただけだ」



 少しの間があってから、カスミールはミロスラフに向き直った。


 ミロスラフは部屋の端で硬い顔をして立っていた。


「……名前は」


「ミロスラフ・ドヴォルザークです」


「そうか」カスミールが、しばらくミロスラフを見た。「この文書があれば、お前でも読める」


「……はい」


「読んで、動かして、見続ければ——二、三年で分かる。私がどういう理屈でここを動かしていたか」


「私が書けば良かった」老人が静かに続けた。「分かっていた。書こうと思っていた——仕事が忙しかった。感覚で分かっていたから、後でいいと思っていた」


 言い訳はある——そう続けようとして、カスミールは止まった。


「……それは言い訳だ。書かなかった、それだけだ」


 ミロスラフが深く頭を下げた。


「……ありがとうございます」


 カスミールが短く頷いた。視線がまた少し遠くなった。



 係員がそっとカスミールの肩を叩いた。老人はゆっくりと立ち上がった。


「来てくれて、ありがとう」マルクスが言った。


「お前が来い、と言っていたんだ」カスミールがぼんやりと言った。「……誰が言ったか、覚えていない。でも——来て良かった」


 老人が石段を上がっていく。重く、ゆっくりとした足音が、天井の向こうで遠くなった。


 地下に、静けさが残った。


 エリカは七枚の経路図を見ていた。「要修正」の印が三か所。「実測確認」が二か所。これからミロスラフと一緒に詰める作業がある。しかし、今日の前と後では、地図の精度が違う。


(……ボケてはいる。言葉は出てこない。数字は覚えていない)


(……でも、この人はすごい職人だ)


 エリカには、まだその感情を言葉にできなかった。ただ——七枚の図を丁寧に重ねながら、そう思っていた。


 マルクスは釜の外壁に向かって立ったまま、しばらく動かなかった。


 今日、老職人の手が術式の上を動いた。言葉より先に、身体が答えた。その動きをエリカが写し取った——そうして初めて、図は完成に近づいた。


 マルクスは静かに、経路図の束を揃えた。


(第3節 了)


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