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氷河期(アイスエイジ)の魔法使い  作者: よん
第7章:「誰も知らない傑作」

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第2節:「読む」と「書く」の協働

 初日の朝。


 マルクスが地下の術式の前にしゃがみ込み、最初の計測術式に向けて静かに手を伸ばした。この動作をエリカはよく知っていた——術式の「読み始め」だ。


 まずは全体の構造から。マルクスは気温計測の術式の外周を指先でなぞりながら、低く言った。


「第一制御節は気温計測。釜の周辺温度を一刻ごとに取り込んで、加熱量の基準値に係数を掛けている。夏と冬で薪の量が変わる——それと同じ理屈だ」


 エリカは手元の紙に書き始めた。


「気温計測→加熱量の補正。分かりました。次は?」


「その外に湿度計測術式がある。計測値が高い日は……」


 マルクスの説明は、技術者向けの言葉だった。「制御閾値」「補正係数」「計測誤差の吸収節」——一つ一つは正確だ。しかし術式同士がどう繋がっているか、なぜその順序で説明しているのかが、エリカには分からない。書き取りはできる。けれど、図として落とせない。木の幹がどこにあって、どこが枝なのかが見えない。


(……順番が分からない。何が何の前提になっているのかが)


 昼過ぎ、エリカは自分の魔導書を開いた。**軽量フレームワーク走査**で術式の構造をマッピングしてみようとした。


 しかし——スキャナーが止まった。


 術式の記述形式が、現代の構文と合わない。二十年分の継ぎ足しと独自構文が積み重なった術式は、走査の前提を崩していた。軽量フレームワークは「設計の素直なシステム」では良く機能する。しかしここには、カスミールが感覚で積み上げた補正節が層をなしている。


(……現代のフレームワークでは、とっかかりが掴めない)


 夕方、二人とも少し口数が減った。マルクスは術式の前に腕組みして黙っていた。エリカは書き取った紙を見返して、整理しようとして、できなかった。


「……今日は、ここまでにしましょうか」


 マルクスが短く頷いた。



 翌朝、エリカが工房に着いたのは、マルクスより早かった。


 地下への石段の脇に腰かけて、昨日書き取った紙を広げていた。文字を読み返しながら、ある考えが浮かんだ。


(……書いてもらうのではなく、話してもらえばいい)


 マルクスが石段を降りてくる気配がした。エリカは立ち上がって、少し迷ってから口を開いた。


「先生。一つ、お願いがあるんですが」


「何だ」


「昨日は私が先生の説明を聞きながら記録しようとしました。でも——術式の繋がりが見えなくて、図に落とせなくて」


「……」


「先生が術式を読んで、私に言葉で説明してください。私はそれを聞きながら記録します。書いてもらうのではなく、話してもらう形で」


 マルクスが、少し考えた。


「……口述筆記か」


「職人さんに仕様書を書いてもらうのは難しいですよね。でも話してもらうのなら——先生は術式を読みながら、いつもご自分の中で言語化しているはずです。それを私が代わりに書き取ります」


 マルクスは釜の方を向いたまま、しばらく黙っていた。


「……やってみよう」


 エリカが、静かに深く頷いた。



 三日間が始まった。


 マルクスが術式の前に立ち、読みながら言葉で語る。エリカが横で——向かいではなく、横で——紙に書き取りながら、分からない部分は都度確認した。


「先生、ここの補正節——気温が下がる方向への補正と、上がる方向への補正で、係数が非対称になっていますね。なぜですか?」


「……釜は冷えるより熱くなる方が速い。加熱が行き過ぎた場合の補正は、細かく刻む必要がある。カスミールはその非対称性を経験で掴んで、術式に落とした」


「分かりました——加熱方向の補正は細刻み、冷却方向は粗め」エリカがペンを動かした。「図に落としたら確認させてください」


「……ああ」


 少しずつ、全体像が見えてきた。


 気温と湿度の計測術式は、加熱量と撹拌強度のそれぞれに補正値を渡している。原料の魔力残量を測る術式は、精製工程の開始タイミングに繋がっている——魔力が少ない原料は、時間をかけてゆっくり精製しないと薬効が安定しない。月齢連動の術式は撹拌リズムの変化に直結していた。満月に近い時期は大気の魔力が揺れるため、溶液を穏やかに動かす必要がある。


「ここが星位計測術式です」


 エリカが紙の上で指を止めた。経路図を描いていた。


「これ……他の計測術式と繋がり方が違いますね。短期の補正ではなく、長い周期で積み上がる——季節をまたぐ調整のために?」


 マルクスが図を覗き込んだ。


「そうだ。気温や湿度は日々変わるが、冬の初めと春先では大気の魔力場の傾きが変わる。その長期的なずれを、星位の動きから先読みして補正している」


「……先読みして補正、というのは」


「今日の状態ではなく、これから数週間の状態を予測して、調合条件を先に調整している。短期補正だけでは追いつかない変化があるから」


(……先読み補正。現代のスキルに、これをやっているものはあまりない)


 エリカが静かに書き取った。



 二日目の昼、大気魔力濃度の計測術式の解読が終わった頃には、五枚の経路図が並んでいた。気温・湿度・原料魔力・月齢・星位——それぞれが独立した計測術式として釜の外壁に刻まれ、それぞれが製造工程の別々の側面に補正値を渡している。さらに、あるパラメータの変化が別の補正にも影響する——月齢術式が動くと、大気補正の値にも小さな連動が起きる。


「これらが全部、繋がっているということですね」


 マルクスが頷いた。


「これは一つの制御則じゃない。各環境変数に対してカスミールが経験で積み上げた補正則の集まりだ。それが互いに連動している」


「……これを全部、頭の中で計算しながら調合していたということですか」


「最初はそうだったんだろう。それを魔法陣に書き起こした。二十年かけて」


 エリカは、広げた経路図を眺めた。


「……これ」


 思わず、声が出た。


「すごく考えられている」


 マルクスが静かに言った。


「設計は正しかった。文書がなかっただけだ」


 その言葉の重さをエリカは少し考えた。設計は正しかった——カスミールの技術を責めているのではない。設計として優れていた。ただ、それを伝える記録がなかった。それだけだ、と言っている。


(……「設計は正しかった」。それだけで十分なんだ)


 エリカが経路図に書き足しながら、横に立つマルクスを感じた。今は向かいに先生がいる、という配置ではない。並んで、同じ図を見ている。今まで師弟として向かい合っていた。問いを投げて、答えを受け取る——それが当然の位置だった。でも今は、同じ方向を向いて、同じものを読んでいる。


(……こういうものなのかもしれない。一緒に仕事する、というのは)



 二日目の夕方、外が暗くなった頃、エリカは少し早めに地下の部屋を出た。


 工房の外、路地の角には夕方の売れ残りを並べているパン屋と小さな惣菜屋があった。エリカは紙袋を二つ提げて戻ってきた。


「……先生、よければ」


 マルクスが振り返った。エリカが紙袋を差し出す。


「近くのパン屋で買ってきました。あと、こちらは——」紙袋の中を少し恥ずかしそうに確認しながら、「**スラミャーキ**(燻製チーズ)と**ナクラーダニー・スィール**(ハーブ漬けチーズ)です」


「料理はマルクス先生にいつも出してもらっているので……私は作れないんですが。買ってきたものなら」


 マルクスが紙袋を受け取って、少し重さを確かめた。


「これは十分だ」


 エリカがほっとしたような顔をした。


 二人は並んで、地下の部屋の片隅に腰を落とした。パンをちぎって口に運ぶ。燻製チーズは塩気と燻香が濃く、かみしめるほどに乳の旨みが滲み出てくる。ハーブ漬けチーズは爽やかな酸味の中に草の香りがあって、パンの朴訥な甘みと一緒に食べると丁度良い。外の晩秋の夜気を工房の石壁が遮っていて、地下は静かに温かかった。


「……おいしい、これ」


「チーズの質が良い。乳の旨みが濃い」


 しばらく、特別な会話はなかった。パンをちぎり、チーズを合わせながら、マルクスが今日の解読について話した。エリカが経路図の確認をしながら相槌を打った。仕事の続きだった。


 ただ——向かいに座っているのではなく、隣に座っている。それだけが違った。


 エリカには、その差が何を意味するか、まだ言葉にできなかった。ただ——悪くない、と思っていた。


 地下の石壁の向こうで、製造ラインの術式が静かに動き続けていた。今夜も誰かの病を癒すポーションが、少しずつ仕上がっていく。


(第2節 了)


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