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氷河期(アイスエイジ)の魔法使い  作者: よん
第7章:「誰も知らない傑作」

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第1節:呼ばれた職人と偶然の再会

 旧市街のギルド街を抜けると、石畳の道は次第に細くなる。大手ギルドの洒落た看板は消え、代わりに煤けた職人工房の扉が続く。晩秋の朝の光は白く低く、路地に溜まった枯れ葉がマルクスの靴音に押し退けられた。


 緑釜工房ゼレナー・コトリークは、その路地の突き当たりにあった。


 石積みの外壁。二階に続く細い窓。地下への小さな採光窓——そこからかすかに、薬草と何かが混じった煙の匂いが漏れていた。製造は、まだ続いている。扉の金属の飾りには、緑色に塗られた釜の象形が彫られていた。古い工房の矜持のような、控えめな看板だ。


 マルクスは一度立ち止まり、建物全体を眺めた。二十年もの間この工房を動かしてきた男が、先月から施設に入った。後を継いだ者は、製造システムを「全く分からない」と言っている。


 扉を叩いた。



 応じたのは、五十がらみの丸い顔をした男だった。ヴォイチェフ・ブラズ——緑釜工房の現経営者で、先代オーナー・カスミール・ネーマンの甥にあたる。


「アッシュベルクさんで? お越しいただき、ありがとうございます」


 愛想は良い。ただ、受付の帳面の並べ方や、棚の試薬瓶の置き方を見れば分かる——この男は職人の目を持っていない。整然としているようで、扱いやすさよりも見た目で判断している。


 マルクスは短く「依頼の件で」と答え、ヴォイチェフに室内へ促された。


「ええ、その節は叔父が大変お世話になりまして……いや、叔父のカスミールのことはご存じでしょうか。先月から、施設に入っておりまして」


「伺っています」


「……認知症、というものでして。引き継ぎは任せると言っていたんですが、本人もその……最近、物事の記憶が怪しくて」


 ヴォイチェフが一冊の帳面を卓に置いた。製造記録だ。マルクスは表紙を開いて、最近の数ページを走査した。品目、製造日、気温と湿度、使用原料の産地——数字は一応記録されている。しかし「どこを調整したか」の欄が空白になっているページが多い。


「後任のミロスラフを採用したんですが……地下の製造システムが、全くの手つかずで」


「返品が出ているとのことでしたね」


「先週、薬局に納品した鎮静ポーションが、薬効が薄いと。二ロット目も同じ症状が出ています。このままでは、診療所への納品も遅れかねない」


 ヴォイチェフの顔に、露骨な焦りが滲んだ。職人としての問題ではなく、商売上の問題として捉えている——そういう男だ、とマルクスは静かに思った。


「地下を見せてもらえますか」


「もちろんです。ミロスラフも下にいますので」



 地下への石段を降りると、空気が変わった。薬草と金属と、どこか甘ったるい試薬の蒸気が空気に溶け込んでいる。天井が低く、壁は石造り。並んでいるのは三つの大釜で、それぞれが胸の高さほどある。


 釜の周囲に、魔法陣が展開されていた。


 一見すると、単純な加熱制御の魔法陣に見える。釜の底面に熱を伝える基本術式、撹拌タイミングを計る補助術式——それだけなら珍しくもない。しかし。


 マルクスは釜の外壁に歩み寄り、刻まれた術式の一つに指先を近づけた。


(……違う)


 加熱術式の外周に、細かな計測術式が組み込まれている。温度計測だけではない。湿度、そして——原料の魔力残量を読む術式。さらに別の面には、暦に連動した月齢の値を参照する制御節が埋め込まれていた。大気の魔力濃度を測る術式まである。六種類の計測術式が、一つの釜を囲むように配置されている。


(……なるほど。単純な製造ラインじゃない)


 複数の環境変数を読みながら、調合の最適条件を自動で探っている——**複合環境制御(APC)**の仕組みだ。気温や湿度だけでなく、原料の状態や天体の巡り、大気の具合まで取り込んでいる。


「先生……あの」


 声がした。振り返ると、若い男が立っていた。二十代後半、線の細い顔に不安の色がある。後任の調合師——ミロスラフ・ドヴォルザークだ。


「月齢で何かが変わるらしいとは聞いているんですが。どこを見れば何が分かるのか……術式の中身を追おうとすると、全部が繋がっているような気がして、どこから手をつければいいのか」


「触るな」


 マルクスは静かに言った。


「えっ」


「まず全部読む。触るのはその後だ」


 ミロスラフが固まった。たぶん「とりあえず試してみる」という手順を想像していたのだろう。マルクスは釜の外壁を一周するように歩きながら、各面に刻まれた術式の配置を目に入れていった。


(設計は堅牢だ。ただ——二十年分の修正が積み上がっている)


 本体の術式の上に、継ぎ足しの制御節が幾層にも重なっている。「この季節はここを直した」「この原料には別の調整が要った」という痕跡が、術式の外周に積み重なっていた。一つ一つの修正は論理的だ。ただ、全体の設計図がない。設計した人間の頭の中にしかなかった——そして今、その人間の頭の中も、霞んでいる。


(……この種の仕事ができる職人が、今どれだけ残っているか)


 スキルが普及する前に技術を身につけた世代——自分で一から魔法陣を組み、二十年かけて修正を積み上げてきた世代だ。その世代が現場を離れるとき、設計図を残さなければ、次の者には何も残らない。カスミールだけの話ではない。


 マルクスは釜の三番目の前で立ち止まり、外壁の術式に向けて静かに手を伸ばした。


(まず、読む。全部読む。それしかない)



 翌朝、マルクスが再び工房の地下に降りようとしたところで、ヴォイチェフに引き止められた。


「あの……すみません。今朝ほど、別のお客様がいらして」


 受付に、人影があった。


 灰色がかった青の外套。肩に落ちた茶色の髪。その背中に見覚えがあった——マルクスが目を向けると、向こうもこちらに気づいて振り返った。


「……先生」


 エリカ・ダルジェントが、少し驚いたような顔をしていた。


「マルクス先生がここに来ているとは……聞いていませんでした」


「こっちも知らなかった」


 マルクスが短く答えると、エリカが何か言おうとして、それを飲み込んだ。少しだけ、目が細まった。


(……なぜか。少し、嬉しい)


 その感情の名前に気づかないまま、エリカは姿勢を正した。


「アストラル商会からの業務提携の事前調査で参りました。緑釜工房さんとの連携を検討しているとのことで、技術面の評価を担当しています」


「そうか」


「……先生は?」


「製造システムの解析依頼だ。品質のばらつきが出始めていて、後任が術式を読めないと」


 エリカが一瞬、考えるような目をした。


(同じものを、別の目的で見ている)


「つまり、私たちは同じ問題に別の方向から向き合っている、ということですね」


「そうなる」


 エリカが頷いて、それからふいに真っ直ぐに言った。


「一緒にやりましょう。私が文書化を担当します。先生が術式を読んでいる間、私が記録を取れます」


 マルクスは少し間を置いた。


 技術調査に誰かを引き込むのは、いつも気を使う。ペースが乱れる。説明しながら解析するのは効率が悪い——それはわかっている。しかし。エリカの文書化の精度を、マルクスは知っていた。先の行政局での仕事を思い出した。彼女は話を聞きながら、必要な情報だけを素早く正確に紙に落とす。


「……それは助かる」


 エリカが、少しだけ目を見開いた。それから、やわらかく頷いた。


(先生が「助かる」と言った。……初めて聞いた気がする)


 地下からは、大釜を囲む術式が静かに動き続けている気配があった。誰も読めない設計図が、今日もポーションを作り続けている。


(第1節 了)


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