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氷河期(アイスエイジ)の魔法使い  作者: よん
第6章:「散らばった呪い」

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第6節:ズデニェクのお忍び——白狐亭の夜

 夕刻、オットーの工房に寄って報告した。老人は「そうか」と言い、茶を一杯飲んで「よくやった」と言った。それだけだった。エリカが少し驚いた顔をしていた。


 工房を出ると夜になっていた。


「白狐亭に寄っていくか」


「……行きます」


 エリカが外套の前を合わせながら、小さく答えた。



 白狐亭ウ・ビーレー・リシュキは、旧市街のギルド街の路地の奥にある。看板代わりに白狐の木彫りが掲げてあって、夜になると軒下に灯が入る。常連の冒険者やギルドの職人が集まる、飾りのない店だ。


 入ると、ヤンが奥から顔を出した。六十がらみ、がっしりした体つき。無骨な顔に、人を見る目がある。


「……来たか。今日は式典だったろう」


「ああ」


「無事か」


「無事だ」


 ヤンが無言で奥の小卓を指した。マルクスの定位置だ。エリカと二人、向かい合って腰を落とした。


 しばらくして、ピルスナービールが来た。「金のズラテー・ペナ」——旧市街の醸造所が出している地ビールで、白狐亭の定番だ。黄金色の液体の上に、きめ細かい白い泡が積み重なっている。


 エリカが一口飲んで、息を吐いた。


「……おいしい」


「ああ」


 マルクスもグラスを傾けた。爽やかな苦みが、今日一日の緊張をゆっくりと溶かしていく。



 その時、ヤンが近づいてきた。マルクスの耳元に顔を寄せ、低く言った。


「……あんたの客が来てるぞ。すごい人が来た」


 マルクスが顔を上げると、入り口の近くに二人の人影があった。


 一人は背の高い老紳士——白髪まじりの頭、落ち着いた眼差し。纏っているのは質素だが仕立ての良い外套で、飾りはない。もう一人は控えめな中年の男性——引き締まった顔立ちに、穏やかな緊張感がある。


 ズデニェク・ノヴァークと、イジー・ストラーカだった。


 ズデニェクがマルクスと目が合うと、軽く頭を下げた。


「……今夜は一介の老人として参りました。公式の場での礼は後日改めて」


「どうぞ」


 マルクスが向かいに席を作るように手振りで示した。ヤンが椅子を二つ運んでくる。さりげなく、静かに。旧市街で長く店を開いてきた男の手際だ。


 五人が、小さな卓を囲んだ。



 ヤンがビールを二つ追加で出した。ズデニェクがグラスを持ち上げ、一口飲んだ。


「……美味しいですな」


「ここの定番です」


 エリカが答えた。ズデニェクが少し目を細めた。


「二度、命を救っていただいた」


 静かな声だった。式典の場での声とは違う、個人としての言葉だ。


「入札の件と、今回と」


「今回は——カール・フォン・ベッカーの慎重さが全ての始まりです」


 マルクスは答えた。


「彼の父君が正しい教育をした。あの若者が持ってこなければ、俺たちには動く理由がなかった」


「……それでも、動いたのはあなた方だ」


 ズデニェクが短く言った。それ以上は続けなかった。


 ヤンが奥に引っ込んだ。しばらくして、大きな鉄皿が二つ運ばれてきた。


 一つ目——**ヴェプジョヴェー・コレノ**。豚の膝肉のロースト。卓に置かれた瞬間、カラウェイと香草の香りが広がった。表面の皮は飴色に輝いていて、軽く刃を入れると「パリッ」と音がした。その下から白い脂が滲む。ほぐれた肉は繊維が見えるほどやわらかく、口に入れると脂の甘みと肉の旨みが溶けてくる。付け合わせにホースラディッシュのソースとマスタード。


 二つ目——**スヴィチコヴァー・ナ・スメタニェ**。牛肉のクリームソース煮込み。淡い黄みがかったソースは根菜とサワークリームのまろやかな甘みがあり、その中で牛肉がほろほろになるまで柔らかく煮えている。傍らに蒸しあがった**クネドリーキ**——蒸しパンに似た茹で団子だ——が添えてある。ソースをたっぷり絡めて口に運ぶと、小麦の素朴な甘みとクリームの酸味が一体になった。


「美味しいですな。……権力の場では、こういうものは食べられない」


 ズデニェクが、低く言った。どこか遠くを見るような目だ。


「華やかな食事ばかりで、腹が満たされる感じがしない。年を取るほど、そう思うようになります」


「首席代表様には、また気が向いたらいつでも」


 ヤンが無愛想に言った。


「……今夜は老人として来ています」


 ズデニェクが苦笑した。皺の刻まれた顔に、珍しい表情だ。イジーが横で、静かにグラスを持ったまま小さく目を細めた。



 食事が一段落した頃、ヤンが食後の一杯を持ってきた。**スリヴォヴィツェ**——アルカ産プラムの蒸留酒だ。琥珀色の液体からプラムの芳醇な香りが立ち上る。一口含むと、熱と甘みが喉の奥に広がって、じわりと消えていく。


 しばらく、誰も口を開かなかった。


 やがて——ズデニェクの表情が、少し変わった。和やかさの中に、何か静かなものが混じった。


「……ヘルムート・フォン・ブレンナー」


 マルクスが、目を向けた。


「名前は出していません」


「私には分かる」


 老政治家が、グラスを卓に置いた。


「証拠と権力は別物だ」


「……どういう意味ですか」


「証拠があっても、追及できない力がある。彼は二十年かけて——そういう構造を作り上げてきた。私が首席代表でも、容易には触れられない」


 重い沈黙が落ちた。


 エリカがグラスを両手で持ち、ゆっくりと口を開いた。


「……それでも、戦うのですか」


 ズデニェクが、少し微笑んだ。


「戦う、とは言いません」


 静かな声だった。


「……動かし続ける、と言いたい。歯車を止めないことが、私の仕事です。政治というのは、動いている間だけ意味がある」


 マルクスは何も言わなかった。


 ヤンが卓にもたれるでもなく、横で酒を注ぎながら口を開いた。


「首席代表様。旧市街の者は、あなたに恩があります。自治権を守ってくれた」


「……」


 ズデニェクが、ヤンを見た。


「旧市街の皆さんが守ってくれているのですよ。権力は、下から支えられて初めて立つ。私が動けるのは、あなた方のような人間がいるからです」


 ヤンが、短く鼻を鳴らした。照れているのか、それとも納得したのか——どちらとも取れる表情だった。



 ズデニェクが腰を上げる時、イジーが静かに動いた。懐から小さな革袋を取り出し、卓の上にマルクスの前に置いた。


「首席代表からの、正式な謝礼です。ご受領ください」


「ありがとうございます」


 マルクスが、ごく自然に受け取った。


 ズデニェクが立ち上がり、エリカに目を向けた。


「お嬢さんも、良い師匠に恵まれましたな」


 エリカが、まっすぐに答えた。


「——はい。自慢の師匠です」


 ズデニェクが、もう一度静かに微笑んだ。それ以上は言わずに、イジーを伴って扉へ向かった。


 路地に出る手前で、ズデニェクが振り返った。ヤンに向けて、小さく頭を下げた。ヤンが、黙って頷き返した。


 扉が閉まった。


 白狐亭に、いつもの静けさが戻った。



 マルクスが革袋を卓の上に置いた。


 紐をほどき、中身を取り出す。無言で四等分した。


 エリカ、ヤン、マルクス、そしてオットーの分——四つ。


「あの、私はそんな……先生がお受け取りください」


「……エリカ」


「はい」


「対価なしで働くのは、自分の信用と責任を軽んじさせることになる。相手のためにもならない」


 エリカが、目を伏せた。


「お前は仕事をした。受け取れ」


 短い沈黙があった。エリカが、静かに手を伸ばした。


 ヤンが自分の分をさらりと懐に収めながら、ぼそりと言った。


「……いい師匠だ」


「余計なことを言うな」


「言ってない」


 マルクスが残り一つを手の中で確かめた。


「オットーの分は明日届ける。あの人は夜が早い」


「……分かりました」


 エリカが外套を手に取った。


「では——先生、ヤン様。今夜はありがとうございました」


「気をつけて帰れ」


「はい」


 エリカが白狐亭を出た。路地の夜気が一瞬入り込んで、扉が閉まった。



 マルクスとヤンの二人になった。


 ヤンが酒を一つ持ってきた。琥珀色の液体——マルクスが秘蔵している、エンフィリアのアイル島産の琥珀酒だ。ヤンが黙って、グラスに少し注いだ。マルクスが受け取った。


 しばらく、どちらも口を開かなかった。


「……ブレンナー公爵か」


 ヤンが、低く言った。


「証拠はない」


「だが、繋がっている」


「繋がっている」


 マルクスはグラスを見つめた。


「グレゴール・シャドウ。ペトルへの工作。今回の分割型暗殺。同じ意志が働いている」


 ヤンが腕を組んだ。


「おい、マルクス。これは——」


「分かっている。俺の仕事じゃない」


 短い間があった。


「……だが」


 マルクスが、グラスの底を見た。琥珀色が、燭台の灯を揺らしている。


「見えてしまったものは、見なかったことにはできない」


 ヤンが何も言わなかった。ただ、黙って酒を少し注ぎ足した。


 白狐亭の夜が、静かに更けていく。


(第6節 了)


---


### 解説:ヴェプジョヴェー・コレノ(Vepřové koleno)


豚の膝肉(スネ肉)を香草・スパイスと共にじっくりロースト、またはゆでてから焼き上げた中欧の代表的な肉料理だ。


**特徴:** 膝関節周りの肉は筋と脂肪が複雑に絡み合っており、長時間加熱することでほろほろに崩れるほど柔らかくなる。一方、表面の皮はオーブンや直火でパリパリに仕上げる。この「外はパリパリ、中はほろほろ」の対比が最大の魅力だ。


**香りと味:** カラウェイシード、黒コショウ、ニンニクで下味をつけることが多く、焼き上がりに独特の芳ばしい香りを纏う。脂の甘みと肉の旨みが強く、ホースラディッシュ(西洋わさび)のソースやマスタードの辛みと合わせることで、重さを引き締める。


**白狐亭の流儀:** ヤンの店では一頭分から仕込み、注文を受けてから鉄皿ごと炉で仕上げる。骨付きのまま出すため、見た目の迫力がある。




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