第2節:オットー・フィッシャーを呼ぶ
三つの品を布で包み、小箱に収めた。抱えて工房を出た。
旧市街の石畳を西へ向かう。午後の人通りの中を縫い、聖者の橋へ出た。アルカ川に架かる石造りの古い橋で、欄干の両側には歴代の守護聖者の石像が立ち並んでいる。初秋の川風が吹き抜け、像の足元に黄みがかった葉が散り始めていた。式典が近いせいか、橋を渡る人の顔はどこか急いでいる。
橋を渡り、川沿いを南へ向かう。城下街の高台が右手に続き、やがて建物が低くなって路地が細くなった。石畳が古い煉瓦敷きに変わり、染職の工房から酸の匂いが流れ、遠くで鉄を叩く音がする。城下街の外れに続く川岸の職人地区——ポジーチー(Poříčí)だ。染職人、皮革職人、鋳物師が代々営んできた古い地区で、大きな店はないが、腕の良い職人は多い。
路地の角に菓子工房があった。「金のバーボフカ(ウ・ズラテー・バーボフキ)」——ポジーチー地区で半世紀以上続く老舗で、マルクスがここへ来る時は必ず立ち寄る。オットーがここの菓子を好んでいることを知っているからだ。棚に並んだ焼き菓子の中から、バーボフカ(Bábovka)をひとつ包んでもらった。手ぶらで老人を訪ねる礼儀は持ち合わせていない。
さらに一本路地を入ったところに、オットーの工房はある。看板もない。三階建ての煉瓦造りの建物の一階、くすんだ木の扉。呼び鈴を鳴らすと、しばらくして奥から足音がした。
扉が開いた。
小柄な老人が顔を出した。白髪がボサボサに散らかり、くたびれたローブに何かを擦ったような染みがある。顔には年相応に深い皺。しかし目だけが、若い頃と変わらない細い光を持っている。
「……マルクスか」
「突然来た」
マルクスは脇に抱えた包みを差し出した。オットーがそれを一瞥し、鼻をひくつかせた。
「バーボフカか。……まあ、入れ」
オットー・フィッシャー。六十八歳。連邦魔法行政局の魔道具審査官を退いて、もう十年以上になる。この工房で気が向いた時だけ鑑定を引き受けている——と本人は言う。実態は、マルクスが困り果てた時にしか頼らない人間だ。学生時代からの旧友だが、それを言うと皮肉の一つを返してくる。
「一人でどうにかなる問題なら、わざわざここまで来ないだろうからな」
「ああ」
「邪魔するよ」
*
作業台の上に三つの品を並べた。
オットーが椅子を引いて座り、一つ目——燭台を手に取った。それだけだ。何も言わない。老いた指が、台座の縁を静かに辿る。
マルクスは少し離れたところに立っていた。
次。文鎮。オットーが両手でそっと持ち上げ、重さを確かめるように傾ける。焦点具は使っていないように見えた——いや、使っているのかもしれない。この男の手癖は、外からでは分からないことがある。
最後。印章入れ。蓋を一度外し、裏面を指の腹で撫でる。蓋を戻し、手のひらに乗せてしばらく黙っていた。
長い沈黙だった。
マルクスは待った。急かすことはしない。この男が黙っている時は、何かを読んでいる時だ。
やがて——オットーが顔を上げた。
「……マルクス。これはどこから来た」
「若い貴族が、首席代表への献上品として届けようとしている品だ」
オットーは少し間を置いた。それから、低い声で言った。
「これは分割型呪殺魔法の断片だ」
マルクスは息を止めた。
「それも——三つで一組ではない。これらだけでは完成しない。別の断片が、すでにどこかに仕込まれているはずだ」
「……つまり」
「別の断片と合わさった時に、発動する。そういう設計だ」
オットーが三つの品を並べ直しながら、続けた。
「設計が巧妙でな。単体では——私でも最初は保護術式と見誤った。意識して疑わない限り、普通は見過ごす。呪殺のための術式を、あれほど綺麗に保護術式の下に畳み込むとは。職人の仕事だ——悪い意味での」
「術式の設計思想に、心当たりはあるか」
オットーが少し目を細めた。
「……断言はできん。だが、設計に癖がある。ここの接続の処理と、この端の処理の方式——連邦の流儀じゃない。西の離島域の術式体系が折り合わされている。あちらの職人が関わっているか、あちらで学んだ者の仕事だ」
「出所は絞れるか」
「絞れない。だが、これだけの精度でこの手口を組める人間は、そう多くない。どこかに仕事の指紋がある」
マルクスは黙った。
(——西の離島域。……かつて、その地の技術に精通した人間と関わったことがある。シャドウ——そう呼ばれていた男だ)
「既設の断片——何箇所に分散している」
「分からない。この三つを発動の核として設計しているなら、既設はおそらく四から六。標的の周囲——首席代表が執務し、式典で立つ場所の近くに、目立たない形で仕込まれているはずだ」
「解析魔法で一箇所ずつ探りながら、三日で動く。俺とお前の二人では手が足りない」
マルクスは続けた。
「それに——城塞区への立ち入りには正式な手続きが要る。大手ギルドの肩書きがある人間が動いた方が、無駄な摩擦が減る」
「……あてがあるのか」
「俺の弟子だ。アストラル商会の所属で——先の仕事で、ズデニェクの秘書官とも顔合わせ済みだ。城塞区への立ち入りを通してもらうには、その繋がりが使える」
オットーが、ふん、と鼻を鳴らした。
「弟子? おまえが? いつから後進を育てるような柄になった」
「なり行きだ」
「そうか」
マルクスは通信石を取り出した。
*
エリカが工房に着いたのは、夕刻を少し前にした頃だった。
作業台の上の三つの品と、見慣れない老人を見て、一瞬足を止める。
「お待たせしました。……先生、こちらは」
「オットー・フィッシャーだ。俺の旧友で、元行政局の魔道具審査官。古い術式の鑑定なら、連邦でも指折りの人間だ」
オットーが肩をすくめた。
「連邦でも指折り、は言い過ぎだ。引退した爺さんだよ。……ダルジェントさんか」
「はい。エリカ・ダルジェントと申します」
「マルクスの弟子なら、苦労してるだろうな」
エリカが、少し困った顔でマルクスを見た。マルクスは答えなかった。
「状況を整理する」
マルクスが三つの品を指した。
「カール・フォン・ベッカーが首席代表への献上品として届けようとしていた品だ。オットーの鑑定で、分割型呪殺魔法の断片と判明した。三つで一組ではない——別の断片がすでに城塞区のどこかに配置されているはずだ」
エリカが品を一つ手に取り、焦点具を通して観察する。しばらくして、静かに置いた。
「……献上品に偽装した分割型。しかも既に別の断片が設置されているとしたら——」
「式典当日に、断片が揃えば発動する。——式典まで、三日だ」
エリカが、息をのんだ。
沈黙が落ちた。
三日。城塞区に隠された断片を探し出し、全て無力化する。それを式典前に終わらせなければならない。
「オットー」
「分かってる」
飄々とした声だが、目が変わっていた。
「面白そうじゃないか」
マルクスは短く頷いた。
(第2節 了)
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### 解説:バーボフカ(Bábovka)
チェコの家庭や菓子工房で長く愛されてきた伝統的なリング型の焼き菓子だ。中央に穴の開いた丸い型に生地を流し込んで焼く。シンプルな見た目だが、フレッシュチーズとバターのしっとりした生地に、アプリコットジャムの甘い酸味が折り重なる。
**外見と食感:** 表面には粉砂糖が軽く振られ、ほのかな黄みがかった褐色。断面はきめ細かく、しっとりと重みがある。冷めても固くならず、時間が経つほどチーズとバターの風味が馴染む。
**味わい:** 甘さは控えめで、上品な余韻が残る。アプリコットの風味が後口にふわりと来る。紅茶や果実系のハーブティーと相性がよく、午後の一杯に添えるのに向いている。
**「金のバーボフカ(ウ・ズラテー・バーボフキ)」:** ポジーチー地区で半世紀以上続く老舗菓子工房。飾りのない煉瓦造りの店構えで、通り沿いからでも焼き菓子の甘い香りが漂う。レシピを代々守り続けており、「この地区でバーボフカといえばここ」と職人たちの間で知られている。観光客向けの店ではなく、地元の人間が日常的に立ち寄る店だ。
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### 解説:分割型呪殺魔法
複数の断片に分割された呪殺術式だ。各断片は単体では動作せず、一定数の断片が揃った瞬間にはじめて完成形として発動する。
**特徴:** 単体では他の術式(保護術式、装飾術式など)に偽装できる。静的な解析だけでは断片と判別することが難しく、意識して疑わない限り見過ごされやすい。
**設計の難しさ:** 断片ごとに「完成しない端」を保ちながら、他の断片と繋がった瞬間に完結するよう精密に調整する必要がある。この精度を出せる術師は少ない。




