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氷河期(アイスエイジ)の魔法使い  作者: よん
第5章:「一人しか知らない」

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第4節:綱渡りの修復——入札を止めるな

 エリカは入札処理術式群の端に膝をつき、分析を続けながら——頭の片隅で、まだその考えを転がしていた。


 (軽量フレームワークを、真理視に組み込む)


 方法はまだ分からない。確信もない。だが「できるかもしれない」という感触だけは、消えなかった。


 今は作業だ。先生が壁のメモ板と格闘している間に、入札術式群の全容を把握する。


 エリカは手元の術式陣に集中し直した。



 壁のメモ板。


 びっしりと並んだ略号を、マルクスは静かに眺めた。走り書きの記法——今の行政局の技官では解読できないだろう。当然だ。これは二十年前の旧式記法だ。行政局が独自に運用していた、帝政時代の名残のコード体系。


 今の世代には、教えてくれる者がいない。


 (俺には、いる)


 恩師の顔が浮かんだ。この記法を教え込んでくれた、今は亡き人物。「役に立つことなどない」と笑いながら、丁寧に叩き込んでくれた。


 役に立った。


 マルクスは略号を左から右へ、一つずつ読み解いていく。認証系の手順が、少しずつ浮かび上がってくる。


 (——ここだ)


 壁のメモ板の右端、目立たない一列。他の略号より小さく、薄く書かれている。意図的に目立たなくしてあるのだろう。だが——確かに「管理者用」を意味する古い記号が、先頭に付されている。


 緊急時の予備認証。


 マルクスは真理視を壁のメモ板に向け直した。略号が示す手順を追い、術式陣の中に対応する構造を探す。


 あった。本幹の深部——通常の認証とは別の、細い経路。ペトルが仕込んだ緊急用の裏口だ。出力を絞り、目立たないよう設計されている。見つけた者だけが使える。


「……車輪の再発明だな」


 独り言が漏れた。


「しかも——かなり出来のいい車輪だ」


 市販の認証スキルを分解し、完全に作り直している。だが再発明の中に、ちゃんと逃げ道が残してある。完璧主義者ではなく、現実主義者の仕事だ。


 マルクスは指先に魔力を集中させ、予備認証の経路を静かに辿った。


 ——通った。


 術式陣の中心部が、かすかに反応した。青白い光が、床の一点で強くなる。認証が解除され、システムの深部へのアクセスが開いた。


「エリカ」


「——はい」


「認証が通った。入札処理の手順書、今夜中に作れるか」


 エリカが振り向いた。疲れた顔に、しかし確かな光がある。


「作ります」



 それからの二時間は、声を交わす余裕もなかった。


 マルクスが全体構造の骨格を真理視で読み取り、エリカが入札処理術式群の動作を逆引きで追う。互いの発見を短く伝え合い、手順書の骨格を組み立てていく。


「この経路——入札の受付処理です。順番に走査して、登録済みのギルド印を照合する」


「照合の後は」


「ここが期限チェック。……ペトルさんの設計がそのまま生きています。二十年前のコードが、改修されずに残っている」


 マルクスが術式陣の一角に目を向けた。確かに——層の中で、そこだけ古い。素直で、無駄がない。後から乗せたカスタマイズに比べると、設計の思想が根本から違う。


「基盤が堅牢なんだ」


 マルクスは静かに言った。


「その上に積み重ねすぎたのが問題だが——土台はしっかりしている」


「ペトルさんの最初の仕事が、今でも支えているんですね」


「ああ。だからこそ、二十年もった」


 エリカは一瞬手を止め、術式陣を見つめた。


「……引き継ぐ人がいれば、もっと長くもつ設計です」


「そうだな」


 それ以上は言わなかった。言葉にしなくても、同じことを考えていると分かった。


 作業を再開する。手順書の骨格が、少しずつ形になっていく。


「非技術者でも操作できる手順にしてくれ。明日、行政局の技官が一人で動く」


「図解を入れます。術式の名称ではなく、操作の順番だけを書く」


「いい」


 マルクスは自分で走り書きしたメモと、エリカが組み立てた手順を突き合わせた。抜けている工程が二つ。認証の初期化手順と、処理後のログ記録だ。


「ここと——ここが抜けている」


「確認します」


 エリカが術式陣に戻り、二か所を検証して記入した。


「完璧な文書は後でいい。今は——ペトルが倒れても他の人間が動ける最低限を作る。それだけだ」


「はい」


 深夜零時を回った頃、手順書の骨格が完成した。



 廊下で、足音がした。


 扉がノックされ、クラウスが顔を出した。コートの上から厚手の布を抱えている。


「……まだ動いていましたか」


「入札は朝だ」


「これを」


 クラウスが布を解くと、蓋付きの陶器が二つ現れた。白い湯気が薄く立ち上り、刺激的な香りが部屋に広がった。


「チェスネーコヴァー・ポレフカ(Česnekova polévka)です。厨房の者に頼みました。黒パンも」


 一緒に包まれていた黒パンを差し出しながら、クラウスは言った。


「深夜に申し訳ない。これくらいしかできなくて」


「充分だ。——助かる」


 クラウスは短く礼をして扉を閉めた。廊下の足音が遠ざかる。


 エリカが陶器の蓋を外した。


 ニンニクの強い香りが、一気に広がった。クリーム色のスープの表面に、炒めたニンニクと刻んだパセリが浮いている。黒パンをちぎって浸すと、すぐにスープを吸い込んだ。


「先生、少し休みませんか」


「……入札は朝だ」


「食べながら休めます」


 マルクスは一瞬、何か言いかけ——結局、陶器を受け取った。


 一口含む。ニンニクの濃い旨味が、疲れた舌の上に広がる。滋養が直接身体に沁み込むような感覚だ。単純な料理だが、今この瞬間に必要なものが詰まっている。


「……旨いな」


「はい」


 エリカも自分の分を受け取り、壁に背をもたれながら飲んだ。黒パンをスープに浸し、ゆっくりと噛む。


 しばらく、二人とも何も言わなかった。地下の管理室に、青白い術式の光と、ニンニクの香りだけが満ちていた。



 深夜二時。


 マルクスは真理視を一時解除した。


 意識が、現実に戻ってくる感覚。長時間展開し続けた真理視の解除は、いつも少し時間がかかる。頭の奥に、鈍い圧迫感が残っていた。


 エリカが顔を上げた。


「先生」


「……ああ」


「顔色が」


「問題ない」


 嘘だと、自分で分かっていた。


 手順書の骨格はできた。認証も突破した。だが——魔導書庫群の全体構造把握は、まだ三割にも満たない。入札当日に想定外の挙動が起きた場合、対応できる術式群の範囲がまだ特定しきれていない。


「……このペースでは、朝までに必要な範囲を解析しきれない」


 はっきりと言った。言い訳なしに。


「先生が真理視を維持し続けるのも、限界があるということですか」


「規模が大きすぎる。俺の真理視は精度が高い分、処理が重い。このシステムの広さには、向いていない」


 沈黙。


 時計の針が進む音だけが、薄暗い部屋に響いていた。


 エリカは膝に視線を落とし、しばらく何かを考えていた。


 頭の片隅に、ずっとあった考えが——前に出てきた。


「……先生。一つ、試してもいいですか」


 マルクスが振り向いた。


「何を」


「私の軽量フレームワークを——先生の真理視に、組み込みます」


 一拍の間。


「精度を落とす代わりに、処理範囲を広げる。ペトルさんのシステムと私のフレームワークは設計思想が同じです。相性はいいはずです。……やってみていいですか」


 マルクスは何も言わなかった。


 エリカの目を見た。疲れている。それでも、目の奥に確信がある。漠然とした自信ではなく——解析を続けながら積み上げてきた、根拠のある確信だ。


 長い沈黙。


「やってみろ」


 マルクスは静かに言った。


「失敗しても、怒らない」


(第4節 了)


---


### 解説:チェスネーコヴァー・ポレフカ(Česnekova polévka)


連邦の家庭料理の中でも、最もシンプルな一品として知られるニンニクスープ。仕込みに手間をかけず、それでいて滋養があり、体の芯から温まる。深夜の作業場や、長旅の翌朝に出てくることが多い。


**作り方:** ニンニクをたっぷり使い、スープ出汁(鶏または豚の骨を煮出したもの)で仕上げる。仕上げに溶き卵を入れて絹状に固めたり、刻んだパセリを散らすのが一般的だ。地域によっては生クリームを加えたり、カリカリに焼いたパンのかけらを浮かせることもある。


**外見と香り:** クリーム色から淡い黄色のスープ。ニンニクの強い香りが蓋を外した瞬間に広がる。慣れない者はその刺激に驚くが、口に含むと香りほど辛くなく、まろやかな旨味が続く。


**効能と文化:** 古くから「疲れた時に飲む」ものとされてきた。腹を満たすより先に、疲れた身体にじんわりと沁みる——そういう料理だ。黒パンをちぎってスープに浸し、一緒に食べるのが定番の食べ方だ。


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