第5節:入札成功——そしてズデニェクとの邂逅
「始めます」
エリカは立ち上がり、焦点具を構えた。
対象はマルクスではない——マルクスが展開している真理視そのものだ。空間に透明な層として広がった術式の構造。エリカはそこに、自分の軽量フレームワークの術式を重ね合わせようとしている。
他の術師が展開した術式に、外から手を入れる。普通はやらない。干渉が走れば術式が崩れる。だが——
(ペトルさんのシステムと同じ設計思想。なら、相性は——)
エリカは指先に魔力を集め、慎重に、真理視の外縁に触れた。
跳ね返りはなかった。
良い。押し込むのではなく、重ねる。軽量フレームワークの「必要最小限の演算で広く覆う」という思想を、真理視の処理経路に沿わせる——
「……揺れている」
エリカの声に、緊張が混じった。
解析の精度が不安定になった。細かく照らしていた術式の輪郭がぼやけ、全体の解像度がむらになる。処理が軽くなった分、焦点が定まらない。
マルクスが右手を伸ばした。
「どこだ」
「中央の——分岐点です。ここが揺れると全体に響く」
マルクスは示された一点を指先で押さえた。外から構造の核を固定する。揺れていた解析精度が、静かに落ち着いていく。
「ここを固定しながら、外縁を広げろ」
「……はい」
エリカが慎重に、もう一度。軽量フレームワークの術式を、マルクスが固定した核を中心に広げていく。カバー範囲を伸ばす。精度は落ちる。だが——
「……動いた」
エリカが息を吐いた。
真理視が変わっていた。解析の精度は従来より粗い——細部の輪郭がはっきりしない。だが処理の重さが格段に軽く、カバーできる範囲が大幅に広がっている。床一面の術式陣が、層ごとではなく全体として「見えている」。
「ペトルさんのシステムなら、これで充分です」
エリカは床の術式陣を見渡しながら言った。
「設計が素直だから、精度が低くても構造が読める。無駄がないから、全体を掴めれば動きが分かる」
マルクスは何も言わなかった。
改良された真理視のカバー範囲を、自分でも確かめていた。確かに——広い。これなら、朝までに必要な範囲を解析できる。
(……なるほど)
マルクスの頭の中で、何かが組み変わった。
精度を落とすことへの抵抗感——それが自分の中にあったことに、今更ながら気づく。精度が高ければ高いほど良い。それが自分の信条だった。しかしこのシステムに限って言えば——設計が素直なぶん、高精度は過剰だった。
(俺のやり方は、精度に拘りすぎていた)
*
「先生」
エリカが声をかけた。
「先生の真理視にも、同じように組み込みますか」
「……やってみろ」
今度は逆だった。エリカが固定し、マルクスが受け入れる。自分の真理視の術式構造に、エリカのフレームワークを逆適用させる。
違和感はなかった。むしろ——素直に馴染んだ。
従来の真理視は精度を優先するあまり、術者への負荷が高かった。それをエリカの手法で補正すると——精度が落ちた分だけ、処理が軽くなり、範囲が広がる。
「……先生の真理視があったから骨格が分かりました。その上に乗せただけです」
「乗せるものを作ったのは君だ」
それだけを言い、マルクスは真理視を改良版のまま維持した。
二人は床に向き直った。マルクスが改良した真理視を維持し、エリカがその隣で軽量フレームワークの術式を走らせる。二つの解析が、互いを補い合うように並走し始めた。
*
夜が、少しずつ動いていた。
深夜三時。四時。空気が変わり始める頃——地下の管理室には、二人の魔力の流れだけが続いていた。会話はほとんどない。マルクスが全体を俯瞰し、エリカが入札処理の末端を精査する。発見を短く報告し、手順書に加筆する。それだけだ。
夜が白み始めた頃、マルクスは真理視を解除した。
「……終わった」
入札処理に必要な範囲の解析が完了した。手順書は全項目が埋まっている。想定される例外処理のリストも作った。
エリカはその場に座り込んだ。疲労が、全身から滲み出ていた。
「……終わりましたね」
「ああ」
マルクスも椅子に背を預けた。窓はない。しかし、廊下の向こうから朝の気配が伝わってくる。
*
行政局が動き始めたのは、夜明けから一刻後だった。
クラウスが技官を数名連れて地下管理室に降りてきた。マルクスが手順書を渡す。技官たちは目を通し、うなずいた。
「……これなら、動けます」
「不明な点があれば言ってくれ。その場で対応する」
入札処理の実行が始まった。
マルクスとエリカは部屋の壁際に立ち、真理視を低出力で維持したまま監視した。技官が手順書の通りに術式を操作していく。エリカが改良した軽量版の真理視で全体をカバーし、マルクスが高精度の走査を要所に当てる。役割分担は自然に決まっていた。
途中——問題が起きた。
入札受付の術式群の一つが、想定外の挙動を見せた。ペトルの独自改修の一つが、標準の手順書に沿った操作と噛み合わなかった。
「——ここです」
エリカが素早く指した。入札処理術式群の末端、軽量フレームワークで解析した一角だ。
「ペトルさんの改修が、受付処理の順番を変えています。手順書の六番と七番を逆にしてください」
技官が従った。術式の挙動が正常に戻る。
クラウスが片眉を上げた。
「……よくそこに気づきましたね」
「昨夜、丁寧に読んでいましたので」
それだけを言い、エリカは正面に向き直った。
入札処理が完了したのは、日が完全に上がった頃だった。
黒岩の迷宮群の探索権が、複数の大手ギルドからの入札を経て、正式に落札された。
「……間に合った」
クラウスが、短く息を吐いた。
行政局の技官たちが、地下管理室で拍手した。それほどの数ではない。しかし深夜からずっと廊下で待機していた者、差し入れを持ってきた者、翌朝早くから下りてきた者——皆の顔に、安堵があった。
マルクスは手を上げて、軽く制した。
「別に俺がすごいんじゃない」
静かに、はっきりと言った。
「二十年間、これを一人で動かしていたペトルがすごいんだ。今日起きたことは——そのペトルが倒れた時に、誰も動けなかった、という話だ。これを、次につなげてくれ」
技官たちの表情が、少し引き締まった。
クラウスが頭を下げた。
「……肝に銘じます」
*
地下管理室を出て、廊下を歩き始めたとき——声をかけられた。
「お疲れ様でした、と申し上げるべきでしょうな」
振り向くと、一人の老紳士が立っていた。
六十前後。白髪交じりの整えた髪に、質の良い紺のジャケット。装飾は控えめだが、素材が良い。傍らに四十代の男——同じく質素だが隙のない身なりだ。眼鏡を掛け、書類鞄を提げている。秘書か、あるいは腹心か。
老紳士の眼光が、鋭かった。品の良さの奥に、何十年も人を見続けてきた目がある。
クラウスが、さっと姿勢を正した。
「ノヴァーク首席代表閣下。……本日は視察でいらっしゃいましたか」
ズデニェク・ノヴァーク。連邦首席代表。行政局の最上位の政治的監督権を持つ人物だ。
「視察のつもりでしたが——面白い仕事を見せていただきました」
ズデニェクは穏やかに言った。しかしその目は、マルクスをしっかりと捉えている。
「一晩で行政局の基幹システムを読み解いたそうですな」
「……読み解いたのは表面だけです」
マルクスは静かに答えた。
「全容を把握するには、数週間かかります」
「ほう」
ズデニェクは、わずかに目を細めた。
「謙遜ではなく、正直に言う。——技術者にしては珍しい」
それから、エリカに視線を移した。
「お嬢さんは?」
エリカは一歩進み出た。疲れた顔だったが、声はしっかりしていた。
「アストラル商会所属、エリカ・ダルジェントと申します」
「アストラル商会」
ズデニェクは繰り返した。
「大手ギルドの魔法使いが、中堅ギルドの技術顧問と組んで——行政局の基幹システムを一晩で動かした。……面白い構図だ」
含みのある言い方だったが、悪意はない。純粋に面白がっている、という顔だった。
ズデニェクは傍らの秘書官に目を向けた。秘書官がジャケットの内ポケットから、小さな石を一つ取り出した。
通信石だ。ただしただの通信石ではない——連邦首席代表府の紋章が刻まれている。行政用の公式通信具だ。
ズデニェクがそれをマルクスに差し出した。
「マルクス・アッシュベルク殿。今後、何かお願いすることがあるかもしれません。その時は——よろしく」
マルクスは一瞬だけ、通信石を見つめた。
「……行政の仕事は、専門外ですが」
「技術者としてです」
ズデニェクは微笑んだ。笑うと、眼光の鋭さが少し和らぐ。
「私は技術には疎い。しかし——人を見る目はあるつもりです」
マルクスは通信石を受け取り、懐にしまった。
「……お気遣いに感謝します」
「では」
ズデニェクは短く頭を下げ、秘書官を伴って廊下を歩き去った。二人の足音が遠ざかり、曲がり角で消えた。
しばらく沈黙があった。
「先生」
エリカが、小声で言った。
「あの人……」
「連邦首席代表だ」
マルクスは短く言った。
「政治家だ。深入りはしないに越したことはない」
廊下に、朝の光が差し込んでいた。地下とは切り離された外の世界——城塞区の石畳に、初夏の陽光が当たっている。
マルクスは通信石の重さを、懐の中で感じながら歩き出した。
(第5節 了)




